先勝祝いの宴は、武田の要である信玄の傷が少々深かった事からささやかなものとなった。 しかし賑やかし事の好きな信玄である。これしきの傷で大袈裟な、と皆が集まり旨い酒を飲める機会を逸する事を渋ったが、背後で睨みを利かせる主治医の視線に耐え兼ねた家臣達が、またいずれ、恢復された暁にでも床上げの宴を開きましょうぞと取りなして、そうしてまだ床に入るにも随分と早い時間に、解散となった。 武田の重鎮が勢揃いするとなればいつもならば警備に当たっている佐助だが、此度の戦では信玄に程ではないものの浅からぬ傷を受け暫しの暇を頂いていたから、是非に出席をしろとの寄って集っての言葉に逆らえず、末席にて幾らか酒を貰い、後は注いで歩いて、膳を下げる女中達を手伝って、そうして引き上げた時が漸く五ツ半であった。 宴の最中は信玄の横で頻りに賛辞を送り、傷の心配をしてそれ程柔ではないわと少々の殴り愛と怒鳴り愛を楽しんでいた幸村だが、戦傷は開いておらぬか、鼻血は止まったのか、せめて様子は見ねばならぬと佐助は主の部屋へと向かった。 「旦那」 きちりと閉められた板戸からは光は洩れぬが、ほんの僅か気配がする。まだ起きているなと見当を付けて片膝を落とし、そっと声を掛けるが、返事はない。 佐助は溜息を吐いて、もう一度旦那、と呼んで板戸に手を掛けた。 「開けますよ」 断り、呼吸二つ分の間を置いてからつと開けば、灯りが洩れた。佐助は文机に向かったまま振り向かぬ主の背に失礼しますよ、と言い置いて、すると部屋へと滑り込んだ。音を立てずに板戸を閉める。 「まだ怒ってんの?」 正座をし、やれやれ、と肩を竦めて佐助は溜息を吐いた。 「さっきは機嫌良さそうにしてたけど」 「おれが腹を立てているのはお前にだ。お館様の御前に出るのに、それは関係あるまい」 「ふうん。腹の中隠して笑えるなんざ、旦那も大人になったもんだ」 言い切る前に、鋭く顔目掛けて投げ付けられた硯を佐助は片手で受け止めた。ずしりと重い。当たっていれば鼻が折れるでは済まない。 「何すんの。俺様、お館様にも皆様方にもすっげえ褒めて貰ったのに、旦那は褒めてくれないんだ」 「何を褒めろと言うのだ」 刃の様に重く静かに返して、幸村は膝を回した。先程の信玄に殴られた頬が真っ赤だが、腫れ上がる程ではない様だ。傷を抱える幸村を慮って手加減されたか、傷の深かった信玄にその力がなかったかのどちらかだが、恐らく後者だと佐助は見当を付けた。此の若い武将の負った傷程度で、信玄が気合いの拳を弛める事はない。 佐助は硯を床に置き、姿勢を改めた。注がれる冷えた目を真っ直ぐに受け止める。此の目の奥に、爛と燃える怒りがある事を知っている。 「………佐助。おれは行けと言ったぞ」 「俺様が離れてたら、あんたが死んでたでしょうが」 「お館様をお守りせねばならぬ! あの時お前が向かっていれば、お館様もあの様なお怪我をされる事など無かったのだぞ!! 見ろ、此の頬! 傷が痛まれて力が入らぬのだ! お労しい、おれがもっと、鬼と呼ばれるに相応しき漢であれば、」 「そんで、敵に囲まれたあんたは槍襖。俺様も本陣に帰り着く前に死んでたって訳だ」 握り締めた拳を震わせて膝を叩く幸村に、佐助は殊更白けた声を掛けた。さっと上げられた目が、夜の闇にも油を流したかの様に光る。奥底に隠し込まれていた火が、赤々と透けていた。 佐助は肩を上下させて溜息を吐いた。 「あのねえ、俺様だって戦場が長いんだ。そりゃあ、武士の方々みてえな働きは出来ないよ。そう言う役目でもないしね。だけど、だからと言って主の命令を無視する事に、全く思惑がないなんて、そんな事は思わないで欲しいよ。俺様達忍びだって、そんなに馬鹿な訳じゃない」 「忍びを馬鹿にしておる訳ではない!!」 「嗚呼、はいはい、俺様ね、俺様。俺様だって無い頭、使ってるって話ですよ」 そりゃあ兵法がどうのなんてな言わねえけど、と佐助は未だ何か言いたげに、けれどそれを言えば叱責を受けている佐助を持ち上げる事になると逡巡している主の様子に気付かぬふりで続けた。 「土壇場の命の遣り取りで役に立つのは経験と勘なわけでさ、あの時俺は旦那を守って戦ってたけど、同時に旦那が居る事で、俺様も死なずに済んでたのよ。あの大軍の中に孤立したら、俺様だって脱出出来るかどうか、かなりの賭だ。よしんば脱出出来たとして、お館様の元まで馳せ参じてお助け申し上げる事が出来る様な、躯であった訳はないよ。死に掛けた忍び一人戻った所で、諸将の居る本陣で、何が出来るっての? 手間を増やすだけだろう」 その上あんたを見捨てて、幾らお館様が情け深いお方でも、そんな忍びは生かしてはおけないでしょうと淡々と事実だけを述べれば、幸村はぐうと眉を寄せた。 「お館様は、その様なお方ではない」 「まあ、そう思いたきゃ、それでいいですよ」 「佐助!!」 「でっけえ声出さないでよ」 声を潜めて窘め、佐助は続けた。 「それに、大将の様子だって判らなかったろう」 「本陣に敵が攻め入ったと、報告があったではないか!!」 「命懸けで報告に来てくれたのが居たからね。だけど、お館様が苦戦しておられるとか、負傷なされたとか、そんな報告はなかっただろ」 幸村は口を噤んだ。手練れの己達が二人掛かりで脱出出来ぬ程の敵軍の中、命懸けで報告に参じ、そのまま倒れた伝令の事を思い出したのだろう。 「………優先順位の問題ではないのか」 「はは、武田にとっちゃ、旦那の命よりお館様の命の方が、何十倍だって重てえや」 「確率の問題か」 「そうだね、少なくとも今回は」 幸村は怪訝に眉を寄せた。 「今回は、だと?」 「大将の周りには大勢の武将と戦忍が居たし、其れが全滅したとは思い難かった事、あの場を離れては旦那も俺様も十中八九命を落とした事。根拠は俺様の勘だけど、後者の可能性が高いと判断して、俺はあんたの命令を無視した。結果、俺様の方が正しかった訳だけど、万が一、あんたの危惧が本当になっていたとしたら、俺はあんたに手討ちにされていたんだろう」 「…………」 応とも否とも言わずに、幸村は腕を組んだ。眉間の皺は取れない。 「つまり、」 暫しの思案を経て、幸村は口を開く。 「本陣が窮している可能性が高ければ……一か八かの賭に出てでもお前が戻る方が良いと判断出来たのであれば、お前はおれの命令を聞いたのか」 佐助はぴんと正したままの姿勢で、僅かに顎を引いた。 「はい」 幸村は大きく息を吐いた。 「───相判った。なれば、今回の事は不問と致す」 「だけどね、旦那」 退去を命じられる前に、赦しにいらえも返さず、佐助はそっと言葉を滑り込ませた。思うよりも力が抜けて、弱々しい囁き声になる。 「頭ではそう判ってはいても、俺はあんたの忍びなんだ。………もし、本当に、そんな事態になったとき、言う通りに出来るかは判らないよ」 「主の命であるぞ、佐助。おれよりも、お館様をお守りするのだ。それが武田の忍びたる、お前の役目であろう」 「俺様は、武田の重鎮、真田家の……真田幸村の忍びだよ」 佐助は緩くかぶりを振った。 「勿論、お館様は命の限りお守りするさ。大将の事だ、俺様なんかが余計な気を回さなくたって滅多な事は無いに決まってるけど、それでも旦那とお館様をお守りするのが、俺の役目だからね」 「ならば」 「だからさ、俺がお館様をお守りしている時には、あんたはちゃんと無事でいてよ。ちゃんと、命令通りにお館様の所へ行ける様に」 呆れた様に目を丸くして、ふん、と幸村は鼻を鳴らした。 「また随分と、我が儘な事だな、佐助」 「俺達真田忍びを、武田軍に組んだのは旦那なんだからね。主を二分にした責任くらい、取ってよ」 「おれよりお館様を立てろと申しておろうが。何も難しい事はない」 「無茶言うなよ」 情けない声を上げた佐助に漸く頬を弛めて笑って、幸村は頷いた。 「精進しよう」 「頼みますよ。それから、忍隊の連中が、もしあんたを守って動かなかったとしても、文句言わないであげてよね。あいつらも、後で腹切る覚悟で、あんたを守るに決まってんだから」 「………ふむ」 幸村は軽く眉を上げて首を振った。 「しかし、それこそ約束は出来ぬな」 「約束なんか、別に良いよ。覚えててくれれば、それで」 そうか、と頷き、幸村は今度こそ退出を命じて、文机に向かい直った。佐助はその背に一礼をして、板戸に手を掛けた。 「佐助」 「はい?」 廊下に片膝を突いて板戸を閉めようとした所に掛けられた声に、佐助は目を上げ背を見た。 「此度の働き、ご苦労であった。暫し休養して、傷を労れ」 はい、と深く頭を下げて、佐助はそっと板戸を閉めた。 |
リクエスト内容:本気で喧嘩(流血OK)(さなさす)
依頼者様:ひげさま
20080518
しっぽは裂けてもあたまはひとつ
喧嘩…喧嘩…?
すみませんどうもうまく喧嘩してくれませんでした…orz