既     蝕

 
 
 
 
 
 

「気付いたか、佐助」
 いつから起きていたのか、凝固した血の沈んだ白目を黒く汚した、黒目の縁の酷く赤い虹彩の薄い目が、細く開いている事に気付き幸村はそっと声を掛けた。
 思うよりも猫撫で声になった其れに、上等な布団に埋もれる程に痩せこけ僅かの間に随分と体積の減ってしまった忍びが、ゆる、とべとつく濃度の高い涙に汚れた視線を向ける。幸村は身を乗り出して、首を巡らせる事もままならない佐助の視界に自ら入り込み、薄く笑った。
「此処はな、躑躅ヶ崎館だ。お館様が、此処で養生させれば良いとおっしゃって下さった。しかし母屋では佐助の気が休まらぬだろうと、離れをお貸し下されたのだ。有難い事だな」
 佐助は無言で、しかし微かに息を吐く音をさせて、ほんの僅かに口元を歪めて見せた。笑みであろう、と見当を付けて、良かったな、有難い事だ、ともう一度繰り返して囁き、幸村は佐助の額に乗る濡れ手拭いの上から、そっと手を乗せた。ばらばらと抜ける橙の髪が、枕元に散っている。幾ら掃除をしてやっても次々と抜けるものだから間に合わず、此のままではすっかりと禿げてしまう日も遠くはないがしかし、それも生き延びればの話だ。
 幸村は、傍らの手桶に掛けていたもう一枚の手拭いを濡らして硬く絞り、慎重に傷に腫れた目元へ近付け優しく拭った。きゅ、と子供の様に閉じた目が、目脂を拭われ幾分かすっきりとした様に、小さく瞬く。ひび割れた唇が喘ぐ様に動き、ひゅう、と胸の鳴る音がした。
「何だ?」
 耳を近付けると、息に混じる腐敗臭が鼻腔を撫でた。有難う、と聞き取った言葉に幸村はじっと佐助を見下ろす。眩しげに細められた目は、熱に滲む涙に再びじくじくと濡れ始めていて、もう幾ら拭ってやった所で追い付くものではない。
「……なあ、佐助」
 なあに、と問う事も辛いのか、佐助はただじっと幸村を見上げた。聞いていたのかいないのか、それすら判らないままに、幸村は「なあ」と、もう一度呟く。
「お前は、もう死ぬのだそうだ」
 ゆっくりと、腫れた瞼が降りて、また上がった。
「もう、助からぬのだそうだ」
 声は震えず、ただ語尾が少しばかり喉に絡んで掠れた。
 幸村はそっと手を上げ、髪の抜ける頭をゆるゆると撫でた。熱の高い頭に触られては不快かと様子を窺うも、佐助はただゆっくりと瞬きを繰り返すばかりで、何も言わない。
「苦しいか」
 ひう、と深く吸った息に喉が鳴る。幸村は目を細めた。
「……痛いか」
 否とも応とも取れる動きで、微かに唇が動く。幸村は眉根を寄せ、ざらざらとした掌で頬を撫で下げ、耳許を両手で挟んだ。顔を近付ける。腐った肉と血と膿の臭いがする。
「もう、余命幾ばくも無い。生きても苦しみを延ばすだけだ。……だから、お前が望むなら、佐助。……おれが止めをくれてやる」
 至近距離で覗いた濡れた目が、ゆるゆると瞬いた。睫がほとんど無いな、と幸村は気付く。抜けたのではなくきっと焼け落ちて、そのままなのだろう。しかし僅かに生え掛けた、髪と同じ色の其れは、死に掛けている躯には実に無駄だ。無駄な、生の証だ。
「佐助。……苦しいか」
 ふ、と、笑み零れる様に、息が口元を擽った。
「だん……な、」
 酷く毀れた声が、弱々しく鼓膜に届く。佐助は眩しげに目を細めて、近過ぎて見えぬだろう幸村に笑った。
「………生きたい」
「佐助」
 無理だ、と無慈悲に告げれば、うん、と喉奥で頷いて、佐助はゆっくりと呼吸をした。
「未だ……少しでも、」
 死ぬ迄生きたい、と続けた言葉はほとんど音にならず、唇の動きにそうか、と返して、幸村は乾いた薄い皮膚を湿り気を与える様に舐めた。ざらざらと、ささくれた唇が舌を擦る。
 今、生き延びたとして、こうして喋るも視線を巡らすもままならない身では、生きた分多く呼吸をし、瞬きをし、鼓動を打って、そうして何の益無く仕舞いには死ぬ。
 苦しみを長引かせるだけだと言うのに一瞬でも長く此の世に在る事を何故望むのか、その理由は幸村には判らない。恐らくは佐助にも、判ってはいないのだろう。ただ、幸村はとは覚悟の形の違う此の忍びの本能が、彼岸へ逝く瞬間を、少しでも先へと延ばしたいと、そう訴えているのだろう。
「………だんな、」
 何か言って、と、無言で額を合わせていれば、そう強請られた。幸村は瞬き無く、じっと濡れた目を覗く。
「主としてか」
「何でも……構わねえ、や」
 だから何か言って、と重ねて強請る細い声に、幸村は更に顔を寄せ、開きっ放しの、薄く腐臭を吐く唇をちいさく噛んだ。
「………死ぬな」
 囁いて、もう一度唇を合わせて顔を擦り寄せれば其処は無傷で残った形の良い鼻が、己の其れに触れた。
「死ぬな、佐助」
 ふふ、と、ごろごろと血痰を絡めて鳴る喉に笑みを乗せて、佐助は灰色に濁った舌を供物の様に差し出した。
 
 
 
 
 
 深夜、弓張り月の暗い縁側を、冷水を張り替えた手桶を持ってひたひたと歩き、そっと障子を開ければ先程まで其処にいた筈の忍びは姿を消していた。
 蛻の殻になった布団は捲れて血膿の汚れが覗き、けれど部屋に漂っていた腐臭は、もう綺麗に攫われ欠片も残っていなかった。
 一人で出歩ける躯では、無い。何者かの手助けがあったのだろうか。だとすれば、忍隊の誰かであろう。けれど問うた所で、其れを洩らす者は恐らく、無い。主従の縁を越え、有り得ぬ我が儘を洩らしたのは、此方だ。
 手桶を持ったまま、幸村は低く呟いた。
「………忍びが定め、か」
 知っては、いた。
 
 痛い程。

 
 
 
 
 
 
 
20071020
eclipce イクリプス
切望/おねだり/日食

月食であり星食でもあります
知ってるけどわかってないだんな