す  ば  る

 
 
 
 
 
 

 今年は雪が少ないようだ。
 山里だと言うのに冬枯れた田んぼの畦の影にちらほらと先日の溶け残りが土に汚れて残る他は、道端が白く凍っていることなどない。
 しかしそれでも下界よりは余程冷えるようで、未だ午前とは言え太陽は昇りきっていると言うのに、里人の数の割には綺麗に踏み固められ整えられている道は、固く凍り時折さくさくと霜の崩れる音を立てる。吐く息は白く、鼻の頭もかさかさに荒れた手も、霜焼けが悪化しそうな程に冷たい。
「あっ、佐助だー!」
「ほんとだ!」
「佐助え!」
 ふっ、ふっと白い鼻息を吹きながらついて来る馬の手綱を引きながら、佐助は凍える風に顔を真っ赤にした子供たちが駆けて来るのに、顔を向けて笑った。
「呼び捨てにすんなよ、お前ら。俺様偉いんだぜ?」
 軽い口調で言いながら、腰元にまとわりつく子供たちの髪の冷えた頭を撫で、佐助は懐から取り出した菓子の包みを手渡した。
「わあ、なあに?」
「お菓子だよね! まんじゅう?」
「干菓子、干菓子。あと豆菓子」
「おだんごは?」
「白玉粉と黄粉持って来たから、かみさん達に預けとくよ。後で作ってもらいな」
「ええー、食べられちゃう!」
「卑しい事言うなよ。お前らに食わせろって言っとくから」
 よしよしともう一度頭を撫でると、嬉しげにまとわりついていた子供達が、ふっと表情を失った。
 佐助にぴったりとくっついたまま、計ったように同じ動きで来た道を見詰めた子供たちの視線を追って振り向き、佐助は頬を弛める。
 ゆっくりと曲がった道の向こう、冬枯れた雑木の奥から物珍しげにきょろきょろとしながらやって来た主は、人形のような子供たちをじっといつもの瞬きのない目で一瞥し、それから佐助を見た。
「普通の村と、変わらぬものだな」
「まあね。忍びったって、住んでる奴らは人だもの」
 人里ですよ、と言って、佐助は僅かに屈んで子供たちの背を撫でた。
「俺様の主人だよ、真田幸村様。ご挨拶しな」
 真田幸村、とその名を聞いた途端呼吸を顕した子供たちは、さっと凍った地面へ剥き出しの膝小僧を落とし、両手を揃え額を擦り付け、ぺたりと小さくなってお辞儀をした。片膝を突いて畏まるような真似はないものの、その辿々しいながらも仕込まれた動きに、幸村は些か面食らったようだった。
「よい、面を上げよ」
 幾らか慌てた風な声に、無表情の子供たちには眉一つ動かさなかったくせにと苦笑して、佐助は目を落とす。
「はいはい、立って。佐助が戻りましたって、里長に報せに行ってくれよ」
「はい!」
 返事ばかりは行儀良く、ぱっと立ち上がった子供たちは、僅かな足音だけを立てて風のように道を駆けた。
 あっと言う間に見えなくなってしまった小さな背中に感心をして、幸村は額へと手翳しを作る。
「幼くとも、忍びは忍びか」
「あのくらいの子たちじゃ、使いっ走りくらいしか出来ねえからね。身の軽さと足の速さが命なんだよ」
「何? 彼の童たちも、勤めをするのか」
「する事もあるってくらいかな。激しい戦場を、自分とこの若侍とか、信用出来ない足軽なんかに、伝令させるの厭がる将もいるしさ。そうでなくとも並の足のお使いじゃ、間に合わない事だって」
「……忍隊の者にさせれば良いではないか。さすれば途中で命を落とし、伝令が途絶えるようなことにもそうそうならぬだろう」
「一人前の忍びを子飼いにするには、金が掛かりますからね」
 武田や真田みたいに一軍として持ってるとこばかりじゃないもの、と肩を竦め、佐助は手綱を引いた。
「早く行こう、旦那。寒いし、里長もお待ちかねですよ」
「そうだな」
 気を取り直した顔で頷き、幸村はぶるる、と嘶きを上げた馬を挟んで並んだ。黙って馬に乗ればいいものを、途中で山道では歩いたほうが早いと降りてしまったその脚半が泥に汚れている。
 主を忍びの里へと連れて来た挙げ句自らの足で歩かせたなど、里長に渋い顔をさせそうだと内心で溜息を吐きながら、佐助は久し振りの顔がちらほらと覗く里の中へと、足を踏み入れた。
 
 
 
 
 もう何年も顔を出していない里に、此の正月ばかりは顔を出したい、と言った佐助の理由を、幸村は知らない。
 訊けば教えてくれたのかも知れなかったが、敢えて理由を述べなかったからには幸村は知る必要がないと判断したか、あまり知られたくないと思ったか、どちらかであろう。
 だから幸村は訊かなかったし、別にそれで構わないとも思っていた。だが興味がないわけでもなかったから、ならばおれも行くとそう言ったのだ。
 武田の新年の催しがあるだろうと渋る佐助にそれもそうだと頷けば、妙なところで簡単な忍びは安堵したようだった。だが幸村は諦めた訳ではなかったし、信玄に対しての礼を欠く気も更々無かったから、許可を取ったのだ。
 お館様には一度佐助の里を見ておきたいからと正月を留守にする許可を得たと告げた時の、珍妙な顔は忘れられない。
 今や武田に真田幸村有りと知らぬ者はないというのに、その本人が正月を留守にするなどと暫くぶつぶつと言っていた佐助は、しかし信玄がよいと決めてしまえばそれで構わぬことも、幾ら兵として強くとも、結局のところ主がただの若輩者でしかないことも、幸村以上によく知っていたのだろう。ついて行くという幸村を、駄目だと拒む事はしなかった。
 そもそも、佐助は一度も里には連れてゆけぬとは言わなかったのだと、幸村は与えられただだっ広い客間の、高い天井を眺めながら思う。
 忍びの里など喩え主でも連れてはゆけぬと、そう拒まれれば幸村とて無理強いはしなかった。しかし佐助は正月を疎かには出来ぬだろうと、そう言っただけだった。
 つまり、里へと部外者である幸村を連れて来ること自体は、無論歓迎は出来ぬのであろうが、不可能ではなかったのだろう。ただ、時期が悪いと、そう思ったに過ぎない。
 であれば、ただの若輩者である幸村が欠席したとして、さして問題のあるわけでもない武田の正月を留守にすることを、信玄にさえ認めてもらえれば、それで済む。他の将には幸村殿がおらぬなど気合いが入りませぬなどと苦言を貰ってはいたが、それには後ほど挨拶に向かうと返して事を収めた。
 それよりも、と幸村はごろりと行儀悪く寝そべり、頭の下で手を組んで天井の染みを見詰める。あの染みのうちのどれかには穴が空いていて、誰かが此方を窺っているのかも知れなかったが、流石里長の屋敷を警護するだけあって、幸村には気配は読めぬ。
 そう言えば、と戻って来ぬ佐助を待ちながら、幸村はつらつらと考えた。
 佐助の里へ付いて行きたい、と言ったとき、信玄はあっさりと頷いたように思う。幸村がおらずとも行事に差し障りはないとはいえ、新年早々師を差し置いて己が忍びの為に動くなど、一発二発殴られても致し方ない行動だ。だが信玄は重々しく頷いて、里長にはよくよく礼を伝えておけと、そう言ったのみだった。
 礼とは何であろうと考えて、幸村はむくりと起き上がった。決まっている。佐助や、真田の忍びや、武田の忍びを惜しみなく差し出し尽くしてくれる、その礼だ。
 矢張り何を置いても里長に面会をせねば、と今日は疲れたであろうから、面会は明日にでもと口を挟む間もなく案内された部屋を飛び出し掛けた幸村は、目の前で開いた襖に慌てて踏鞴を踏んだ。
「………どうしたの、旦那」
「さ、佐助」
 佐助はははあ、と目を細めてにやりと笑った。
「退屈で、忍び屋敷の探検でもしようとしてたんでしょう」
「ち、違う! 童でもあるまいし、そのような不躾な真似などするか!」
「あれ、違うのか。旦那の事だから、てっきり」
「お前、主を何だと思うておるのだ! おれは、ただ……」
「はいはい、判ってますよ。里長に会いたいんでしょ」
 大将から言付かったんでしょう、と何処まで知っているのかさらりと言って、佐助は手にした燭台を置かぬままに、踵を返した。
「どうぞ、此方ですよ」
「面会は、明日だと」
「いえ、今でお願いします。それとも、もう眠いかな」
 なら明日でも良いけど、と何でもない顔で言う佐助を見詰め、幸村は頭を振った。
「否、今で構わぬならば、行こう。おれも、早くご挨拶申し上げたい」
 そう、と薄らと微笑んで、佐助はつと気配薄く歩き出した。幸村は暗がりをするすると伝う背と、流れる僅かな蝋のにおいを辿って後を追う。
 躑躅ヶ崎館ほどではないが、広い屋敷だ。長く暗い廊下を進み、幾つもの角を折れ、隠し戸の奥の階段を上り下りし、佐助はやがて行き止まりへと案内をした。その壁につと手を這わせると、暫ししてすう、と壁が向こう側へと姿を消す。
「旦那」
 頭気を付けて、と言って身を屈めて中へと消えた佐助を追い掛けながらきょろりと見回しても、消えた壁に模した板戸は、どこにも見当たらなかった。
 絡繰り屋敷だ、と感心しながら、幸村は狭い階段を降りた。此れ程深い場所に住まうのでは、普通に生活するにも面倒だろう。何処か別に、屋敷の外からでも出入り出来る口が、あるのかもしれない。
 そんな事を考えながら進んで行くと、やがて立ち止まった佐助の手に、とんと胸を押された。幸村は足を止める。
「着いたよ」
 ちらと振り向き言い置いた佐助の顔は、燭台の灯りでは表情も満足に読めない。
 幸村は暗がりへと伸ばされた佐助の手を見詰めた。白く細長い指が、壁に添う。
「佐助です。真田の旦那が来たよ」
 言って、二呼吸置いて佐助が手を引いた。同時に向こう側からも戸を引いたのか、板戸を挟んで直ぐ側にいた下男のような姿の忍びが、軽く黙礼をして身を退いた。
 旦那、と促され、幸村は頷いて佐助の後に続いて入り口を潜る。地下であろうに、座敷は明るく、不思議と空気も淀んではいなかった。
 幸村は上座を見た。じっと座る小柄な老人は、黒々とした目で幸村を見詰めている。
「………上座にて、失礼仕る」
 足が悪うて動けませぬ、と頭を下げた老人に、幸村は頷いた。
「構いませぬ故、お気になさるな」
 相対して胡座を掻き、幸村は両の拳を床へと付けた。斜め後ろへと控えた佐助が、此方は正座をしたまま、倣って両手を床へと付く。
「新春のお慶び、申し上げる。我が主、武田信玄より、里長殿へよくよく礼を伝えよと申し遣って御座る」
「何、此方こそ、武田のお館様には世話になっておる」
 贔屓にして頂いて、と目を細めて漸くに僅かに微笑んだ里長に、幸村は笑い返した。
「此の幸村も、貴殿の里の忍びには、助けられておりまする。真田忍びは、日の元一の忍び。技然り、忠誠然り、某のような若輩に、よく尽くしてくれまする」
「真田の殿は、代々忍び誑し。儂は何も申し付けてはおらぬ故、それは幸村殿、そなたの魅力にありましょう」
 素直に喜色を滲ませ照れると、里長はふふ、と喉を鳴らして笑った。それから唐突に、呼吸も気配もふと薄れる。幸村は顔を上げた。
「里長殿?」
 僅かに眉間に皺を寄せた里長は、じっと幸村はを見詰め、それから佐助を見た。幸村は首を傾げる。
「佐助が、どうか」
「……幸村殿。無理を承知で申し上げるが、」
「何なりと。此の幸村に出来る事であれば、幾らでも恩に報いたく存じます」
 そうか、と頷いて、里長は表情を改めた。
「そこな猿飛佐助、それを、返しては頂けぬか」
「え、」
 思わず振り向けば、佐助は口をへの字に引いた難しい顔のまま、里長を見詰めてぴくりと片眉を上げた。その渋面に瞬き、幸村は里長へと向き直る。
「そ、それは、どういう……此れが、武田に……真田にとって、どのような者であるか、ご存知ない訳では御座いますまい」
「無論、承知の上。金であるなら幾らでも払いましょう」
「か、金の問題では……」
「佐助の穴を埋める為なら、手練れを二人でも三人でも、お好きなだけ」
 幸村はむっと眉尻を上げた。
「手練れが幾らおろうと、佐助の代わりになどなりませぬ! 訳をお聞きしたい!」
「里長にしたい」
 続けて怒鳴ろうとしていた幸村は、口を開いたまま、ひゅうと息を吸った。はからずしもぽかんと口も目も開けた状態になり、慌てて閉じる。
「さ、里長に? 此れは未だ、二十を幾つか越えたばかりの……その、若輩では、」
「忍びの位は、年では比べられませぬ」
「しっ、しかし、里長殿、貴殿がおられるのならば」
「儂はもう、退きまする」
 幸村はもう一度、佐助を顧みた。佐助は眉根を寄せたままの表情で里長を見詰めていたが、すぐにはあ、と息を吐き、幸村を見遣る。
「旦那、ちょっと相談して、それからでも構わないよ。お館様にも、お伺いしなきゃいけないだろうし………」
「否、構わぬ」
「構わぬって、」
 ぱちぱちと瞬いた佐助から里長へと向き直り、幸村は姿勢を正した。
「お譲り出来ませぬ」
「………訳をお聞きしても構わぬか。それをお返しくだされば、我が里は今までよりもますます、武田の為に尽力する事が出来るが」
「昼に、子忍びたちが、佐助へ懐く様を見ました」
 幸村は僅かに顎を引いた。
「しかし、喩え彼の童たちが後々武田に敵対する事になろうとも、此れは某の忍び故」
「………幸村殿の、か」
「左様。某の物はそう多くはありませぬが、その中でも、佐助は自慢の得物。それを此のような地下蔵へと仕舞い込むなど、惜しくて惜しくて、到底ならぬ」
 いっそ清々しい程に笑えば、里長は唐突に呵々と声を上げた。
「そうか、そうか。そなたは此れを、得物と申されるか」
「戦忍は刃に御座ろう。なれば、此れは得物に他ならぬ」
「成る程。……得物は、武士の腰に納まっていてこそのものだな。そんなものに、里を任せられはせぬ、か」
「佐助は優秀な忍び長ではあるが、里長など向かぬ」
「幸村殿は、そう思われるか」
「佐助は、戦場が好きで仕方がないので御座る」
「ちょ、何言うのよ!」
 驚いたように声を上げた佐助に、事実だろう、ときょとんとした目を向けると、忍びは苦々しく顔を歪めた。
「嘘嘘、嘘ですからね! 俺様戦なんてのは、面倒臭くって好きじゃねえよ」
「誰に弁解しておるのだ」
「長にだよ! あんたじゃねえよ」
「いや、良い、佐助。お主殿がそう申されるならば、お前は戦場に骨を埋めるのだろうよ」
「正月早々不吉なこと言わないで!」
 んもう、と唇を尖らせる佐助に笑い、ふう、と息を吐いて急に小さくなってしまったかのような里長は、背を丸めた。つん、と佐助が袖を引く。
「旦那、そろそろ、お疲れみたいだから」
「む、そうか」
 幸村は袖を捌き、再び床へと拳を付けた。
「それでは、長殿。またお加減の良い時にでも、ご挨拶に」
「うむ。………そなたが尋ねて来て下さって、嬉しゅう御座った」
「恐悦至極に御座る」
 ぺこり、と深く頭を下げ、促されるままに立ち上がり狭い入り口を潜る前にもう一度振り向くと、里長は黒い目を細め、ふいに年を増したような、柔らかであどけない程の顔で、此方を見ていた。
「旦那、早く」
 嗚呼、とおざなりに答え、黙礼をした幸村に、里長はもう何も言わなかった。
 
 
 
 
「呆けちゃってんのよね」
 与えられた部屋へと戻り、じゃあねと姿を消そうとした佐助の腕を掴んで引き留めれば、仕方がないなと溜息を吐いた忍びは酒の準備をしますからとやんわりと手を外し、言葉の通りに銚子を携えて戻って来た。
「時々、さっきみたいに正気に戻るんだけど、概ねぼうっとしてて食も細いし」
「あんな、穴蔵に閉じ込めておるからではないのか」
「日の光が駄目なんだよ。肌、見た? 真っ白だったでしょ」
 お日様が毒なの、と杯を煽った佐助を見ながら手酌で注いで、幸村はゆるりと酒を回した。
「此の正月ばかりは、と言っていたのは、その為か」
「ん、まあ……」
「里長を、引き受けるつもりだったのか」
「そういうわけじゃ、ないさ。何しろ、あんたの言う通りなら、俺様は戦場が好きなんだから」
 幸村は可笑しくなって片眉を上げた。
「何だ、根に持っているのか」
「当ったり前でしょ! 旦那じゃあるまいし、俺様は戦なんか、好きじゃねえっての」
「しかし、戦の時のお前の呼ばう声は、はしゃいでおるぞ」
「それは戦じゃなくって、戦の時の旦那が」
 言い差して、ふっと口を噤んだ佐助に首を傾げ、幸村は一息で杯を空にした。
「おれが、何だ」
「知ってるでしょ」
「言え」
 厭そうに顔を歪め、佐助ははあ、と溜息を吐いた。
「だからあ、戦の旦那が、格好良いなって」
「ならば尚更、手放せぬな」
「そうなの」
「そうだろう。お前、里へ戻っては、二度とおれの勇姿は拝めぬぞ」
「自分で勇姿とか言いますかね」
 まったく旦那には敵わないな、とゆるく笑い、佐助は幸村の杯へと酒を注いだ。その杯を零さぬようにそっと盆の上へと置き、幸村は佐助の腕を掴む。
「それだけか」
「ん?」
「里帰りをしたかったのは、里長殿の為だけか」
 ぱちぱち、と瞬いて、佐助は困ったように眉を寄せた。
「なんで、旦那に知れてるのよ」
「知らぬ。ただ、里長の話を断る為だけならば、お前は来ぬと思うたのだ。面倒臭がりだからな」
「酷えな」
「何をしに参った」
 ううん、と呻いて佐助は額を掻いた。
「………七回忌」
「うん?」
「母親の」
 幸村はぱちり、と一つ瞬く。
「お前に母がおったのか?」
「いなきゃ、俺様はどっから生まれて来たんだっての」
「七回忌、とは、お前が真田に来て………」
「死んで、その年に真田にもお手伝いに行くようになったかな。お館様のとこでお世話になってた頃ですよ」
 そうなのか、と呟いて、幸村は握った佐助の手を意味もなく指で撫でた。くう、と皹に荒れた手が、幸村の手を緩く握る。
「………命日は、いつだ」
「明日」
「ならば、墓参りをせねば」
「そのつもりだけど、雪、降り出して来ちゃったし」
 行けないかも、山の上だし、とのんびりと言って、佐助はそっと幸村の手を外した。
「まあ、行けたとして、そっちは俺様一人で行って来るから」
「何故だ」
「何故って、旦那には関係ないだろう」
「お前の母上なのにか」
 何を言っているのか判らない、と言う顔の佐助が、どうして判らないのか判らない。
 しかし説明したところで此の忍びには伝わる気はしなかったし、どうせ後々身を以て知るだろうと幸村は説明を放棄した。外された手を、再び掴む。
「ちょっと、旦那………」
「誰かおるか」
「え、居ないけど」
「警護の忍びもか」
「此処何処だと思ってんの。俺様の里の、里長の屋敷ですよ。怪しい奴なんか、そもそも侵入して来れねえって」
 そうか、と頷いて、幸村は忍びを引き寄せた。そのままひやりと冷たい頬に顔を寄せ、ひたと肌を付けて抱く。
「おれは、二度と此処には来るまいな」
「嗚呼、まあ、そうね。あんまり、来るもんじゃねえし」
「なれば、やらねばならぬ事はしてしまわねば」
「はあ? 何かあったっけ。つうか、此れがやらなきゃないことなの」
「抱き締めただけであろうが。破廉恥な事を申すな」
 茶化した佐助に至極真面目に言って、幸村はその目を覗いた。
「明日は、お前の母上にご挨拶申し上げる」
「いや、だから、雪………」
「そんなものはおれが溶かす」
「いや、どうなの、それ」
「父上はおらぬのか」
 佐助は肩を竦めた。
「さあ、知らないけど」
「そうか」
 ならば里長殿が父上代わりだな、と一人満足して頷いて、幸村は唐突に佐助を解放した。
「そうと決まれば、もう寝るぞ、佐助! 明日は雪が止み次第、母上殿の墓へ参る!」
「いや、大人しく待っててくれたほうが、俺様安心………」
「ん? 何か言ったか」
 さっさと立ち上がり、敷いてあった布団を捲って振り向くと、佐助はぐったりと項垂れて何でもないと頭を振った。
「んじゃあ、お休みなさい」
「何を言っている。お前も此処で寝ろ」
「ええ、寒いよ。布団ないし」
「おれが居るのだから、寒い訳はあるまい」
 おかしなことを言う、と首を傾げると、佐助はええ、と不満げに声を上げた。
「破廉恥な事はしないんじゃなかったの」
「寝るだけだろう! いつでも盛っているような言い方をするな!」
「そりゃ、旦那が妙に我慢強いのは知ってますけど」
 未だぐずぐずと何か言いたげな佐助に痺れを切らし、踵を返すと忍びは慌てて腰を上げた。
「判った、判りましたよ! 一緒に寝ますから」
「さっさとしろ」
「はいはい。ったく、横暴なんだから」
 文句を言いながら、さっさと布団へと潜り込んだ幸村の横へと、忍びの冷えた躯が滑り込む。幸村は躊躇いなくその身を腕の中へと抱き寄せた。顎の辺りで、橙の髪が動く。
「どうしたの、旦那」
「なんだ」
「なんか、人恋しい? やっぱり、お正月に大将と会えないの、寂しいんじゃないの」
「お館様には、戻ったら一番にご挨拶に行く。二度とないことであろうから、一度くらい、お前の為に使っても構わぬだろう」
「俺の為なの」
「他に何がある?」
 ないけど、と呟いて、佐助は唐突に黙り込んだ。明日、母の墓へと共に参ると言う幸村の言葉を、じっと考えているのかも知れなかった。
 幸村は目を閉じた。明日には、此れを貰い受けると挨拶をせねばならない。既に鬼籍へ入った者とはいえ、佐助の母だ。里長とはまた別の、筋と情を通さねばならぬ相手であろう。
「………佐助」
「ん?」
 幸村はゆるりと口元に笑みを浮かべた。
「お前は自慢の忍びだ」
「……有難いこって」
「誰にもやらぬし、返さぬ」
 里にも、お館様にも、と続けると、佐助は少しばかり黙り、それから小さく溜息を吐いて、返事の代わりにぎゅう、と幸村の脇腹を抓り上げた。

 
 
 
 
 
 
 
20090409
初出:20090101
昂/すまる/すばる/統べる