秋の刈り入れが済み、稲穂の波が消え急に寒々しくなった田を横目に行軍をして、寒さの割に雪が遅かった為に長引いた戦が全て済んだのは、もう師走も半ばに差し掛かった頃だった。
秋から此方働き詰めだった忍隊は、冬将軍に追われ戻った時には例年に無く深い雪に閉ざされていた上田の、城の屋根の雪下ろしを家人では危ないと買って出て、最早人の足を受け付けなくなっていた山に登り明けの松を切り出し、家人では触れぬ城の隅々を点検して掃除を済ませと、矢張り休む間もなく働いた。
下人にでも任せれば済む様な些事にまで手を出してしまいがちの佐助など、寝る間も惜しんで動く事となり、肉の薄い躯の節々が鈍いと訴え始めたのは、もう年も終わりの事だった。
とは言えいつもの様に働かせ過ぎだと文句を言うだけ言ったら満足したものか、結局雪下ろしも雪掻きも松の切り出しも甲斐への使いも忍び隊での会合も、全てこなした上に通常の警護も引き受け疲れや負傷で臥した部下の穴埋めまでした様だから、これはもう、なるべくしてなった状況だ、と幸村はしみじみと思いながら廊下を踏んだ。
本丸とは違い、いつもならば忍び長屋として使われている離れの屋敷は人の気配がないかの様に、冷えている。昼の最中に太陽の光で幾分か温かな外を辿って来れば、入り口を潜り土間を踏んだ途端に息が白い、などと言う事もある。
だが今日は、さすがに忍びも正月ならばと炭を使うものか、臥している者等の為か、少しばかり寒気が緩んでいるようだ。火の気配がある。廊下を曲がれば溜まりに一つ角火鉢が置かれていて、幸村は通り掛かりにその半ば以上灰になっていた炭へ新しいものを足して、換気の為に五寸ほど開いていた雨戸を少しだけ閉めた。
きしきしと忍びならば鳴らさぬ廊下を鳴らして微かに人の声のする部屋の前を幾つか横切り、幸村は奥の間の戸に手を掛けた。
「佐助、入るぞ」
一応断りを入れてがらりと開ければ、こんな時くらい、と数枚入れさせた畳の上に布団は無い。代わりに火鉢を引き寄せた掻い巻きの塊が座していた。しゅん、と火鉢に掛けられた鉄瓶が、廊下の冷気に煽られたか湯気の音を立てた。
幸村は呆れて嘆息した。
「お前………寝ておらぬか」
「横になると、咳が酷くって」
くしゅ、と湿った小さなくしゃみを語尾に付けて、佐助は情けない鼻声で旦那あ、と弱々しく呼んだ。
「なんだ」
「明けましておめ、……っぐしゅ」
「うむ」
「今年も宜しくね」
「嗚呼、宜しく頼む」
「其処の座布団使って」
言いながら畳の上から退こうとした佐助を制し、幸村は座布団を引き寄せて火鉢の脇へと座った。
「嗚呼、まったく、しくった……」
「何、三が日は休みなのだろう。良かったではないか」
「別に、寝込む為に休みなんじゃ、ないっての。もう、初めてだったのに、正月に休みなんて」
「無理をし過ぎなのだ、お前は。そろそろ年を考えろ」
「考えろなんて言われる年じゃ、未だありませ、」
少しばかり声を張った途端げほげほと酷く咳き込んだ佐助の背を撫でて、幸村は苦笑を浮かべた。
「お館様の所へは、才蔵を伴ったのだが」
「……余計な事、言わなかったでしょうねえ」
「長は纏まった休みなど珍しくて、気が抜けたのだと言われているそうだな」
「…………」
「主ならばもう少し気を付けて見てやれと、訓辞を頂いてしまったぞ」
「……すんません」
「何、お前が働き尽くめであったのは本当だ。その上おれも甲斐へと使いにやらせたりもしたしな」
「俺様以外の誰に出来るの……お館様のとこにお使いなんて」
「うむ。だから、此方の事は才蔵に一任するなり、もう少し考えるべきだった」
すまぬな、と言えば佐助は熱に赤くなった顔のまま、不満げに眉を顰めた。
「もー……才蔵の野郎」
「才蔵の所為ではないぞ」
「あんたに、そんな気を遣わせるなんて、あってはならない事、なんです!」
やっぱり俺が行けば良かった、等とぶつぶつと無茶を言う佐助の額へ、幸村は手を当てた。ぼんやりと潤んだ目が手の影から見る。
「なに?」
「まるで下がらぬな。その形で良く、己が行けば等と言えるものだ」
「何なの、旦那まで、いじわるだな」
「何、皮肉ではない。……おれまで?」
佐助は眉根を寄せたまま、微かに雑音の混じる息で溜息を吐いて、掻い巻きに顎を埋めた。
「隊の連中も、寄って集って面白がってさー……そんなに、俺様が寝込むのが、面白いのかっての」
「鬼の霍乱だな」
「あんたが言う?」
「皆心配しておるのだろう」
廊下の火鉢を脳裏に思い浮かべながら、幸村は小さく笑った。彼れは此の長屋の主人とも言える、長の為のものだろう。
「お館様も、早う治して顔を見せろと、仰せであった」
「あー……善処します」
言って、げほげほと湿った咳をした佐助が落ち着くのを待ち、幸村は抱えて来た包みを引き寄せた。
「お館様がな、お前に持って行ってやれと、持たせて下さった」
「うわ」
包みを開いて酒や餅に、重箱に詰められたごまめや金団、昆布を等を見せれば佐助は呆れた様に呟いた。幸村は未だあるぞ、と重箱を脇に置いた。
「鯛はな、厨に預けた。焼き物にしては戻るまでに凍るであろうと、生のまま雪で固めて持って参った」
「ちょっとお……お正月料理なんか、こんな大風邪引いてちゃ食えねえっての。大体お節なら、うちでも作ってんでしょうが……」
「お館様のご厚意に、何を言う!」
「……大将、面白がってんのね……」
うう、彼のお方もかよ、とすっかり拗ねてしまった様子の佐助にお館様のお心が判らぬ等と小言を言いながら、幸村は手早く包みを解いた。ころりと蜜柑が転がり、続いて小さな壺が現れる。
「蜂蜜を頂いたぞ」
「え」
「柚子漬けだそうだ。お前が酷い声だと言ったら、喉の風邪に効くから持って行けと。後は葛をな、厨の者等が用意していた様だから」
「わあ」
「お前、何も食っておらぬそうだな」
ぐしゅ、と鼻を鳴らして後で頂きますよ、とばつが悪そうに目を逸らした佐助に、幸村は溜息を吐いた。
「食わねば、治るものも治らぬぞ」
「薬は服んでるよ」
「早く治せ、と申しておるのだ」
言いながら蜜柑を剥き、ほら、と一房差し出せば佐助は厭な顔をして、渋々ばくりと食べた。触れた唇が乾き、荒れている。掻い巻きから手を出すつもりはない様だ。相変わらず布団の達磨のままでいる。
「もう一つ」
くちゃくちゃと何時までも薄皮を噛んでいる佐助の口元へともう一房寄せれば、うう、と呻いた佐助はごくんと若干顔を顰めながら飲み込み、嫌々乍らに口を開いた。幸村は暫し考えて、蜜柑を放らずその顎に指を掛け、口の中を検分する。
「酷いな」
「あー……」
「物が呑めないか」
「うう」
言いながら蜜柑を放り込むと、呻いた佐助は口を閉じた。真っ赤に腫れた喉に加え、荒れた口の中に出来た幾つかの潰瘍に滲みるのか、唇をねじ曲げたままのろのろと咀嚼する。ぐしゅん、と鼻を啜り、潤んだ目をしょぼつかせた佐助に、幸村はふむ、と呟き徐に立ち上がった。そのまま部屋を横切り、押入を開く。
忍び長屋はそれぞれの部屋が一戸として独立しているため、布団の類は布団部屋ではなく、各々の部屋にある。それを引き出して足で戸を閉めると、背後でううー、と抗議の呻きが上がった。
「ほら、前へ行け」
それを無視して戻り、佐助を押し遣り幸村は畳まれたままの布団を置いた。
「寄り掛かって、少し眠れ」
「旦那、あんた、挨拶廻り」
「未だ少し間がある。勝手に出る故、懸念するな」
ふうん、と鼻を鳴らして、佐助は首を竦めて目を閉じた。布団に沈んだ躯を見、幸村は共に引き出して来た枕を首の後ろへ当ててやる。
「すみません」
「気にするな。寝ろ」
うん、といらえを返した佐助は早くもうつらうつらと半分寝惚けている様だ。珍しい、薬の所為か、と考えて座布団の上へと座り直し残った蜜柑を割って己の口へと放り込めば、かさ、と灰が崩れた音がした。
灰の塊を火箸でつついて崩し、幸村は炭を足した。火の匂いと、しんと炭の裡で燃える炎の音がする。
幸村は懐手に腕を組み、時折苦しそうに咳をする佐助を静かに眺めた。
耳を澄ませば湯気の音が聞こえる程静まり返った部屋に、時々湿った咳が響く。
幾度かうとうとと目覚める度に水を飲むか、何か食べるかと訊いても、佐助はいらないと掠れた声で返すばかりで、直ぐに浅い眠りに落ちて行く。そろそろ薬も服まねばならないだろうに、飲まず食わずではならぬだろうと溜息を吐いて、幸村は小さな壺を引き寄せた。
「……佐助?」
かくんと下がっていた頭がふっと上げられたのを見、そっと声を掛ければ枯れた声が息ばかりで呻いた。幸村は壺の中身を二本の指で掬い、口元へと寄せる。
「口を開けろ」
「……うう」
下がり掛ける額を抑えて止めれば、佐助はのろのろと顎を下げた。指を差し込めば、熱い舌がざらりと舐める。猫の様に荒れた舌だ。
「どうだ?」
「甘……」
辛うじて呟いて、佐助は再びこくりと掻い巻きに鼻先を埋めた。蜂蜜が一滴、口元へとゆっくりと垂れる。
「汚れるぞ」
囁き、親指で拭い取るが高い体温に溶けた蜜は拭いきれない。
そっと額を押し遣ると、くにゃくにゃと骨の抜けた様な躯は思うがまま顔を上げた。薄く開いたひび割れた唇に、茜の髪が張り付く。拭わねば固まってしまうだろう。
幸村は躊躇なく顔を寄せそれを舐め取った。眠りながらもむ、と顔を顰めた佐助に失礼な奴だと笑って、髪を梳き襟元を寄せてやる。
「………幸村様」
枕へと頭を置き、座り直して腕を組むと、それを待っていたかの様に何処からともなくそっと声が掛けられた。本丸へと戻らぬ幸村に困った家人が、忍びに申し付けたものだろう。
「そろそろ、お出掛けに」
「うむ……」
元旦の事だ、年始廻りなど明日以降でなくてはならぬが、神社仏閣となればそうも言ってはいられない。
六文銭を掲げる真田の者として、無論仏への信心を疎かにしている訳ではないが、幸村自身はさほど信仰に篤い訳ではない。出家した身の師が、けれど幸村にその帰依する仏の教えを押し付ける事の無い為も大きいだろう。
だが、此の乱世である。領民の心の拠り所として、上田を留守にしがちの幸村に代わって民を宥めてくれる僧や神官への挨拶を、後回しになどは無論出来ない。佐助の世話ならば、幸村がせずとも誰かがやる。
幸村は鉄瓶の蓋を開けて中を覗き、未だ湯が充分にあるのを確認してから立ち上がった。
「戻る」
「は」
天井か壁の向こうかから聞こえた様に思った声と同時に、つ、と板戸が開いた。
幾ら火を入れているとは言え、冷える廊下に待たせた様だ、と些か反省をして、幸村は膝を落として待つ下男の姿の忍びを伴い、忍び長屋を後にした。
ぐしゅん、と己のくしゃみで目が醒めて、佐助はぼうっと開けていた口を閉じ、詰まったままの鼻に再び唇を弛めた。ゆるゆると瞬きをすると、睫が皮膚に触れる、その感触が少しばかり不快だ。じわりと額の生え際に汗を掻いている。熱が下がり始めたのだろう。
かち、と聞こえた小さく澄んだ音に、佐助は頭を巡らせた。傍らで火鉢に炭を足していた幸村が、火箸で灰を掻きながら炭壺の蓋を閉める。
「起きたか」
嗚呼、うん、と口の中でぼんやりと返して、それから佐助はゆっくりと目を瞠った。
「ちょ、あんた、何───」
掠れた声を張り上げた途端、ぐと迫り上げた咳に噎せ込むと、幸村が丸めた背をさすった。暫く咳き込んで、肺の痛みに息を詰まらせながら、佐助は濡れた目尻もそのままに主を睨んだ。
「何、してんのよ! お仕事は」
「仕事は休みだ。正月だぞ」
「そうじゃなくって、ご挨拶廻り……」
再び咳き込んだ背をさすりながら、幸村は案ずるな、と至極真面目に言った。
「海野に行かせた」
「な、」
目を剥いて絶句をすると、ざくりと灰に火箸を差した幸村は相変わらず愛想笑いの一つもない顔で佐助を見た。
「何て顔をしている。目玉が落ちるぞ」
「そ、そんな事より! だってあんた、お社とか、お寺とか……僧正様に海野の旦那じゃ、失礼ってもんだろ!」
「何、遡れば海野も真田も同族の出よ」
「ばか、武田の重鎮とその家臣じゃ、格が……嗚呼いや、そんなのはどうでも良いけど、じゃなくって、上田の事ならあんたか、真田の大将か、信之様か……誰か……」
息を切らしてぜい、と喘ぐと、幸村はふと心配げな顔をした。
「熱で惚けたか、佐助。挨拶に来る者もいるのだ。父上が城を離れる訳にはいくまい。兄上はおれと入れ替わりにお館様へご挨拶へと向かわれた。代わりの者など、海野か根津か望月くらいしかおらぬだろう。たまたま海野が手が空いたと言うから、頼んだまでだ。父上もそれで構わぬとおっしゃって下さった」
「で、でも、あんたが行けば済んだ事じゃ……」
「お前のせいだぞ」
へ、とぱちくりと瞬き、なんだか疲れてもそりと布団へ寄り掛かると、濡れ手拭いで額を拭われた。そのまま温い手拭いが首筋を拭き、反射的に肩を竦めれば顎を捕らえられ、亀の様に首を伸ばされた。
「良いよ、旦那、汗くらい自分で……」
「最初はな、才蔵を伴って出たのだ。だが行き会う者皆に佐助はどうしたと訊かれるし、寺でも僧正殿に今年は佐助は伴わぬおつもりかと気の毒がられてな。今日は佐助は熱で寝込んでと一々説明するのも時間を取るし、言えば言ったで待たされて、あれやこれやと滋養の物を持たされるのだぞ。却って気を遣わせるだろう」
「………」
「厨に預けて来たから、食える様になったらたらふく食って、さっさと治せ。そうしたら改めて、佐助を連れて幸村がご挨拶に参りますと、海野にはその断りを入れに行かせただけだ」
ばちゃ、と手拭いを放り込まれた手桶から水が飛び散り、床を濡らす。よく見れば点々と半分乾いた水滴も見えて、どうやらずっと主に看病させていたらしいと佐助はうんざりと項垂れた。
「んもー……何なの、たまにはゆっくり休ませてくれたって」
「だからゆっくり休めと言っておるだろう。その形で出られても、また無用な心配を頂くだけだ。兎に角、お前が気に病む事など今はない。恐縮するのは治ってからにしろ」
「恐縮する予定が組まれてるって事自体が憂鬱なんですけどねえ」
「仕方があるまい」
幸村はふいににやりと人の悪い笑みを見せた。あまり佐助に向ける事のない類の顔におやと思えば、等閑に絞られた手拭いがびしゃりと額に押し付けられる。
「新年早々風邪など引いたお前が悪いのだ。治ったら年始廻りにも初詣にも付き合って貰うぞ」
「初詣くらい、それこそ才蔵でも連れて勝手に行ってよ」
「恒例の羽根突き大会も、佐助が治るまではせぬとお館様が申しておられた」
「はね……?」
「双六で遊んで欲しいと奥の女中達も申しておったし、子供等がお前の上げる分だと凧を持って来ておった。厨の者等はお前が治ってから搗く分だと、餅米を残していたぞ。忍隊の者等も元旦だと言うのに、長が戻る迄はと酒も控えておる様だ」
「…………」
「お館様も、佐助は幸せ者よと申しておられた。有難い事だな」
羽根突き大会など何時恒例になったのかは知らないが、どうせこの手の催し物の際に兵達がこっそりと誰が勝つかと賭けをしている事を知っているのだろう。佐助がいるいないではその賭け率に拘わると、きっとそれだけの事だ。何の得もなしに、甲斐の虎が佐助の有る無しで公の事を動かす事はない。
女中にしても満遍なく、大きな不満が出ぬ様面白可笑しく勝たせてくれる佐助がいた方が楽しいのだろうし、子供達は上手く上がる様凧を手直しして欲しがっているのだろう。厨の者等は心底好意としても、隊の者が長を差し置いて、と言い出すのはある意味当然の事だ。幸せ者も何も、その方が皆が楽しいと、ただそれだけの事だろう。
だがそれでも、佐助は項垂れたままもふ、と掻い巻きを頭から被った。
「こら、佐助。熱が籠もるぞ」
ぐいぐいと頭から外そうと引かれる手を無視して襟を掴んだままでいれば、やがて幸村は可笑しそうに息を吐いて、掻い巻きの上から乱暴に頭を撫でた。
「佐助は意外と照れ屋だな」
「……うっさいです。ほっといて下さい。移るし、もう良いから戻って餅でも食って来なよ」
若君が二人とも本丸にいない元旦など様にならないと言えば、判らぬ奴だな、と幸村は少しばかり油断した手を払い、掻い巻きをすぽりと橙の頭から外した。
「真田と武田の正月は、お前が戻ってから行うのだ」
「………あの、ね、」
「馬鹿が。真っ赤だ」
逆上せたのだろう、と再びべしゃりと瞼の上に当てられた濡れて拭いに、鈍いのか素知らぬ顔をしてくれているのかと内心で首を傾げ、実直な主の思惑も判らぬ様ではまるで駄目だと佐助はひとつ溜息を洩らした。
「あー、早く、治そっと」
「そうしろ」
お前がおらぬでは落ち着かぬ、とさらと零された口説き文句に再び顔に血が上るのを感じながら、佐助は呻いて再び掻い巻きの中へ潜った。
20080314
初出:20080101
鳥追い/門付けの一。新年に門口で、扇で手をたたきながら祝言を述べ、米銭の施しを得たもの。 |
企
虫
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