天狗に遇ったのこと

 
 
 
 
 
 

「さすけえ」
 あからさまに気の抜けた滑舌の悪い声がおお其処に居たか、と下方から呼んだ。佐助は天守の屋根の端から覗き、溜息を吐いて額を抱える。天守の窓から乗り出した主は、止める間もなく欄干を跨いで屋根へと降りた。
「ちょっと、お武家様がこんなとこまで登らないでくれる?」
「お前が急に姿を消すのが悪い。探したではないか」
「酒宴続きで草臥れたんだよ。年が明ければ甲斐までご挨拶に出て、どうせまた呑まされるんだしさあ」
 躯労らないと、酒太りの忍びなんて冗談じゃないよと苦言を吐く佐助の言葉を聞いているのかいないのか、幸村は天守の屋根の端へと手を掛けた。
「うっわ、ちょっと何してんの! ていうか旦那、足袋が汚れる!」
「もう汚れた」
 意外に身軽な動きながらも忍びの目から見れば不器用もいい所な幸村は、屋根に手を掛け力任せに己の躯を持ち上げた。佐助はこれ見よがしに溜息を吐いて、その腕を取りぐいと引き上げる。
「すまんな」
「羽織も汚れたじゃないの。まったく、正月の晴れ着は汚さないでくださいよ! 下の者が迷惑しますからね」
「う、うむ。判っておる」
 今年の頭には甲斐に赴いた際、酒の勢いも手伝って結局いつものように信玄と殴り合いを始め羽織どころか屋敷と庭まで壊し散々に叱られた事を思い出したのか、幸村は神妙に頷いた。その時主二人を叱り飛ばした忍びは、ほんとに判ってんのかねえ、と飄々とした笑みを浮かべている。
 この人の知れない柔い笑みが、怒れば一転、勇猛の虎獅子が震え上がる程の目をするのだから、普段の形では人の裡は知れぬものである。
「ところで佐助。何をしておったのだ?」
「うん? 遠くが良く見えるでしょ。ほら、除夜の篝火ですよ」
 指差された方向を見遣ると、しんとした闇の中、暗い明かりが点々と、緩やかに揺れている。その先には山寺が在る筈だ。人々は一年の煩悩を払おうと、鐘突きに向かうのだろう。
「佐助は高い所が好きだな」
「ちょっと、それじゃ俺様が馬鹿みたいな言い方じゃないの」
「そ、そうは言っておらん。ただ、良く高い所に居るなと思っただけだ」
「そりゃあ、お仕事ですからねえ」
 警護や偵察や、そのどちらにしても高い場所から広く見渡す必要がある。成る程そうかと頷いて、幸村は屋根に座り込んだ。垂らした足をぶらぶらとさせる。
「危ないよ、旦那」
「佐助が居るから平気だ」
「いい年して屋根から落ちたって面倒なんか見ないよ! て言うか忍びでもなきゃ此の高さ、普通に死ぬって。自分で気を付けて頂戴よ」
 まったくもう、と言いながら、さり気なく佐助は手の届く位置に移動した。その気配を知りながら、幸村はそう言えば、と顎を撫でた。
「昔、子供の頃に、この屋根に登ったことがあるぞ」
「そうですね。此処で烏呼んでると良く追っ掛けて来て俺に怒られてましたよね」
「い、いや、それよりももっと童の頃だ。お前がこの城に来る前だ」
 首を倒して見上げると、背後から覗き込んでいた顔と目が合う。佐助は幸村を見下ろしたまま、首を傾げた。
「俺が来る前って言うと、旦那、まだ五つとか六つとかじゃないの」
「うむ。良く覚えては居らぬが、恐らくそのくらいだろう。その時にな、子鬼を見た」
 顔を正面に戻し、幸村は眼を細める。篝火の星より暗い明かりが、真っ黒な山に点々と灯ってまるで鬼火だ。
 あの日見たのも、鬼火だった。
 
 
 
 
 其の雪の夜、今夜はお部屋から出ては行けませんよ、大切なお客様がお有りですからね、と乳母のみちに言われて、幼かった幸村は判ったと頷きいつもと同じ時刻に布団へと入った。隣の布団へとみちが横になって、けれど彼女は何故か眠ってはいない様だったが、幸村は気にせず目を閉じ、程なく眠りに落ちた。
 いつもなら、次に目覚める時には朝だ。朝餉の前に稽古をするのが日課だ。しかしその日は、降り続ける雪の所為で昼に鍛錬が出来なくて、躯に元気が余っていたのだろうか。深夜にふっと目覚めてしまった。
 隣の布団ではみちが寝息を立てていて、幸村はもう一度眠ろうと目を瞑ったが、一度逃してしまった眠りの波は一向に訪れない。幾度も寝返りを打って、そうして半刻ばかり目を瞑り続けたが、結局幸村は身を起こした。ついでに厠へ向かおうと、いつもなら起こすみちの余りに深い眠りに気の毒になって、一人音を立てないように部屋を出た。
 今思えば、ごそごそと寝返りを打つ気配にもみちが目覚めなかったのは明らかにおかしかったし、未だ未だ童の自分が真っ暗で寒い冬の深夜に、独り厠へ向かったのもおかしかった。
 けれど其の時の幸村は、不思議と胸がざわめいて、その昂揚に浮かされる様に布団を抜け出したのだった。
 所々に灯る明かりを頼りに厠へ向かい用を済ませて、薄く氷の張る手水で手を濯ぎ、ぶるりと震えて羽織を掻き寄せ、ふっと、幸村は視線を上げた。
 
 かあ、と、一声。
 
 雪は止んでいたがとても寒くて、綺麗に晴れ渡った月の無い星空が、その冷えをいや増す。
 そんな深夜に何と夜更かしの烏だろう、と首を傾げて、再びかあ、と頭上から聞こえたその啼き声に、幸村は渡り廊下から身を乗り出して首を捩り、天守を見上げた。無論、暗い。だがその暗さの中に、ちらりと鬼火が見えた気がした。
 不思議に昂揚した幸村の胸の裡に、むくむくと好奇心が湧き上がる。
 幸村は出来るだけ足音を押さえたまま、けれど子供の浅はかさでぱたぱたと音を立てて、一番近い勝手口へと走り揃えてある草履を一足掴み、身を翻して天守を目指した。危険だからと、普段は近付くことも許されないが、禁止されれば近付きたくなるのが子供だ。幸村は何度か、こっそりと天守へと登ったことがあった。そのうち幾度かは、大人に見付かりこっぴどく叱られたものだが、今日は何故か夜番の者にも行き会わない。今なら有り得ないと不審に思う所だが、好奇心に逸った童の心で其れに思い至る事は無かった。
 一段一段の高い階段を上り、何とか天守まで辿り着いた時には手足も躯もほかほかと温まっていた。童の躯は温かいものだが、馴染みのない者ならば発熱しているのではと心配される程、幸村は普段から平熱が高かった。
 閂を外し、ごとん、と足下に置いて、幸村は重い戸を開けた。途端ひゅうと雪混じりの風が吹いて、ぶるりと身を震わす。戸を立てない天守は雪が吹き込んでいて、幸村は草履を履き、その濡れた床をそろそろと踏んで窓に近付いた。欄干に掴まり身を乗り出すが、庇が邪魔で見えない。
 幸村は躊躇うことなく欄干をよじ登り、屋根へと降りた。積もった雪に足を取られぬ様そろそろと歩き、天守の屋根を仰ぎ見る。
 
 星明かりに、その逆巻く赤髪が、まるで鬼火の様だった。
 
 息を呑み目を瞠った幸村を、片手の中に小さな火を揺らめかせたまま何処か遠くを見ていた鬼が、はっと見下ろした。その、金の目をかっと見開き大きな口を強く引いた赤ら顔がまさに鬼神で、幸村は思わず竦む。その拍子に足下が滑り、あっと思う間もなく躯が傾いだ。ひゅっと肝が冷える。声も無い。
 落ちる、と思わず目を瞑った瞬間、ふわりと布地が顔に触れて、続いて躯が浮いた。細い腕が背を支える。
「───っくりしたあ! 何やってんの、あんた!」
 危ないでしょ! と叱った声は未だ年端も行かぬ子供のもので、幸村はそろそろと目を開いた。咄嗟にしがみついていたのは薄墨の衣で、そうっと顔を上げれば其処には先程幸村を驚かせた、鬼の顔が有った。だが、どうやら面の様だ。大圧面だろうか。
 子鬼はやれやれと緊張に怒らせていた肩を落として、手の中の炎を握り潰した。小さな明かりが絶え、星のあえかな光に鬼火が色を失う。
「ええと、あんた誰かな」
「べ、弁丸だ」
「はあ、此処の若様?」
「そ、そうでござる」
 ふうんそう、と首を傾げながら、子鬼は幸村を片腕に抱えたまま、先程火を握り潰したもう片方の手を何やら操る。ふっと躯が揺れて、高度が上がった。其処で初めて幸村は、己が宙吊りになって居たことに気付いた。
 驚いてぎゅうと子鬼にしがみついている間に、とん、とん、と幾度か壁を蹴っただけで、子鬼は幸村を連れたまま、簡単に元の天守の上へと戻った。
「で、なあにやってんの、若様。お乳母様に、今日はお部屋から出ちゃいけませんって、言われなかった? て言うか子供がこんな夜中に起きてちゃ駄目でしょうが。おっきくなれねえよ」
 先程握り潰した筈の火をぽんと投げて雪を蒸発させ、滑らなくなった屋根に幸村を下ろして軽く手首を振りその先に付いていた鎖を回収し、次の一振りであっという間に隠してしまった子鬼は、腰に手を当て幸村を見下ろし、首を傾げた。幸村は首を竦める。
「烏が啼いたのだ」
「ええ?」
「厠に起きたのだ。そしたら烏が啼いたから、随分夜更かしの烏だと思って、気になって見に来た」
「厠って、寝る前に湯でも飲んだの? 駄目だよ、おねしょしちゃうよ」
「ち、違うでござる! それがしはおねしょなんか」
「はいはい、冗談だよ。って言うか、烏ってこれのことかな?」
 言って、うん、と咳払いをし、茶目っ気たっぷりの仕種で首を傾げた子鬼は、まさに先程の烏の声で啼いて見せた。幸村は目を丸くする。
「それ! その声だ! お前鬼じゃなくって、天狗だったのか!」
「はは、天狗って、烏天狗? 俺が鬼とか、面白いこと言うじゃない」
「物の怪ではないのか?」
「物の怪ですよ。だから若様、夜更かししてる悪い子は、ばりばり喰っちゃうからね」
 ぱちくり、と瞬いて、幸村は自信満々に笑った。
「平気だ! お前は弁丸を助けた! 喰うわけがなかろう」
「こりゃまた、おつむのあったかい若様だなあ」
 くつくつと笑って、子鬼はひょいと幸村を抱きかかえて庇を掴み、くるりと身を返してあっという間に天守の裡へと入り込んだ。
「お部屋まで送ってあげるから、もう寝なきゃ駄目だよ、若様」
「え! それがし、お前の話をもっと聞きたい」
「馬鹿言うんじゃないよ。鬼なんかと口利いたら、祟られて熱出るよ」
「もう喋ってる!」
「だから、早いとこあったかくしていい子で寝て、邪気を払いなさいよ」
 すげない言葉で、けれど引く手は優しい。肉が薄くてさらさらと乾いて、寒い中に居たせいか、とても冷たい。
「お前の手は冷たい」
「物の怪ですから」
「それがしの手はあったかいから、凍えなくていいだろう」
「そうだね。ぬくくて有難いや」
 城の中の事など判る筈もないのに、案内をするまでもなく子鬼はすいすいと歩いて、あっと言う間に幸村の部屋まで辿り着いてしまった。脱がされた草履は子鬼の懐に突っ込まれている。
 それ、と示すと、半分はみ出た草履を押さえて子鬼は頷いた。
「任せてよ。ちゃあんと元の所へ返して来てあげるから」
「けど」
「いいから、さっさと寝る。じゃないと本当に熱出るよ」
 襖を開け、はいはいと押し込まれて室内へと入り、幸村は此れだけの騒がしさでも布団に横たわったままのみちにぱちりと瞬いた。
「じゃあね」
 ふっと背から手が離れ、耳許に声が響いて慌てて振り向くと、掻き消えた様にもう子鬼の姿は無かった。
 慌てて廊下を覗いても影一つ落ちていなくて、幸村は落胆の息を吐き、そっと冷えた布団へと戻った。
 
 
 
 
「翌日まんまと熱を出してな」
「はは、祟られた?」
「うむ。みちにこっぴどく叱られた」
 幸村は顔を上げた。先程と同じように覗き込んでいた佐助は、緩く笑んだままだ。
「あの子鬼、お前だろう、佐助」
「なんだ、知ってたの」
「うむ」
「いつから?」
「お前が此処に居るのを、初めて見た時に似ている様に思ったのだ。後になって、彼れは忍びの身のこなしだったと気付いた」
 正解、流石は旦那、いい勘だと笑って、佐助はするりと身を屈めて幸村の隣に胡座を掻いた。屋根の傾斜がきつく同じ方向を見ては座れずに、三角の天辺へと座る幸村へと背を向け、その肩に寄り掛かるようにして居る。
「彼れねえ、試験だったんだよね」
「試験? 里のか」
「里と、真田家合わせての。真田忍隊候補の若いの幾人かをね、何年かにいっぺん、ああやって試験してんの。真田忍びの警護を掻い潜って、城に忍び込もうっていう試験」
 まあ忍び込めなきゃ失敗ってことじゃなくて、途中経過を見ての適性判断だから、それまで一度も城まで辿り着いた奴は居なかったんだけど、と佐助は悪戯でも成功したかのように薄らと笑った。
「そもそも一人前の、しかも第一線で役目を務めてる忍びに半人前以下が敵うわけねえじゃん。だから元々、城までは辿り着けないことを前提に試験はされてんの。だけどそれも悔しいから、一泡吹かせてやろうって話になってさ」
 各々勝手に動くから失敗をするのだ。個人の技など里での修練で嫌と言う程上の連中は把握している。その上で、試験に参加出来る子忍びは選任されるのだ。
 だから、ここは一つ一致団結して、誰かひとりを城に忍び込ませる為の策を練ろうと、そうして潜入役に選ばれたのが佐助だったのだ。
 次々と脱落する者たちは捨て駒だ。捨て駒には捨て駒の意味がある。一人脱落するたびに、残りの者は先へと進めた。
 其れに、改め役が気付いた時には、佐助と才蔵の二人は疾うに城の敷地へと侵入を果たして居た。最後の捨て駒である才蔵の眩惑の術で、城の内部に居た夜番は正体を無くし、皆眠りについたのだ。
「お陰様でその年の俺たちの評価は上々。まあ、賛否両論ではあったけど、組織力ってもんを見せた連中ってのは其れまで居なかったんだと。けど後々は忍隊で勤めを果たすことを前提とした試験だし、規定外では有るけど現場では役に立つってさ。でも得意満面で城に辿り着いた合図を送ってたのに、旦那が出てきた時にはさあ、ほんっと吃驚したよ。寝てたから、才蔵の術に掛かんなかったんだな、多分」
 楽しそうに笑う佐助を横目に、幸村はひとつ頷いて、山腹をゆるゆると渡る鬼火の列を見た。
 殷々と、ゆるりと空を震わせて、鐘が鳴る。
「佐助、除夜の鐘だ」
「俺が旦那の命を盾にして、戻って来た忍隊の連中から身を守ってたのも、知ってた?」
 答えずそう言った佐助に、幸村は再び頷いた。
「殺気で項が焼き切れるかと思った」
「はは、ごめんねえ。俺様もあの頃は未だ、殺気も消せない未熟者だったんだよね」
「城の中まで侵入するのは予定に無かったのだな」
「まあねえ。間者が混じってないとも限らないし、何より若い半人前だろ? 他の国の忍びの口八丁に踊らされて、寝返ってたっておかしかないからね。若様人質に取るなんて調子に乗り過ぎだって、後ですっげえ怒られた」
「それはすまなかったな」
「旦那のせいじゃないっしょ。けど、殺気感じてた癖に、よく俺を引き留めたね」
 ふと首を捻って見遣ると、佐助はいつの間にか肩越しに幸村の顔を見ていた。
「おれに向いた殺気では無かった故、おれを守っているのかと思った」
「あんたんちの中だろう。何から守るのよ」
「夜番が居なかった。お前に連れられて歩いて居る間におかしいと思ったのだ。それで、何事か有ったのだろうと」
 その不測の事態から守ってくれているのだろうと、何の疑いもなく童だった幸村はそう信じた。だから大人しく手を引かれ、言われるままに布団へと戻ったのだ。
 もし何か良からぬ事が有るにせよ、彼の子鬼が、幸村と乳母の眠りを守護するに違いないと。
「旦那は昔っから直感型ってわけね」
 忍びには考えらんねえな、と肩を竦めて、佐助は片膝を引き寄せた。
「旦那、寒くないの」
「うむ。酒が回って居る故。佐助は寒いのか」
「まあそりゃ寒いけど、平気ですよ、着込んでるし。つうか、旦那薄着なんだから、さっさと中戻れよ。風邪引くって」
 うむ、と生返事を返して、幸村は片腕を広げて忍びの躯に回し、ぐいと引き寄せた。
「ちょっと旦那、危ないって!」
「佐助が居るから平気だ」
 言いながらぎゅうぎゅうと回した腕で抱き締めると、呆れた様に溜息が吐かれて、のそり、と腕に重みが掛かった。力を抜き寄り掛かった佐助は、亀の様に首を竦める。
「ほんとぬくいよなあ、旦那。餓鬼の頃から変わんないね。寧ろ今の方が熱いんじゃない」
「そうかも知れん」
 ふわふわと触れる橙の髪に鼻面を埋める。あの日鬼火に思えた其れは、外気を移してひんやりと冷たい。
「佐助」
「はい、何?」
 回した腕で顎を掴み強引に首を巡らせて、冷えた唇を食む。何か言いたげに開いた唇の合間から舌を滑り込ませれば、口内も何処となく体温が低かった。
「冷えて居るのはお前の方だ。風邪を引くぞ」
「あのねえ、冬は寒くて躯も冷えるもんなの。普段のお仕事と変わんねえって。この寒空で何処も彼処もぽかぽかの旦那が変なんだよ」
 吐く側から息を白く凍らせて、佐助は口を尖らせた。それからふと山寺の方向を見詰めて、旦那、と幸村の腕を叩く。
「年が明けました」
「うん?」
「俺様の体内時計は旦那の腹時計より優秀なの。明けましておめでとう御座います」
 目元を緩ませた明るい色の目が、幸村を見ている。猿飛佐助として初めて顔を合わせた時も、この目と髪の色と、少しばかり高い背と細長い手足と年の判然としない顔に、鬼子か天狗か、と不思議に思ったものだった。
「明けましておめでとう。今年も宜しく頼む」
「此方こそ、宜しくお願いしますよ」
 さ、もう戻って下さい、と腕をぽんと叩かれて、幸村は大人しく解放した。
「じゃあね、旦那。あんまり夜更かししないで。お休みなさい」
 天守の屋根から降りた幸村を見下ろして、佐助はそう言って笑うとすと身を起こした。視線の先は、空。
 冬の夜風が鬼火の様な髪を逆巻く。風切り音が耳朶を打つ。
 欄干に掴まったまま、幸村は空を見上げている細い影を見詰めた。
「佐助」
「早く戻れって」
「手加減してやれ」
 ちらり、と夜闇にも明るい目が見下ろした。口元に、笑み。つられて幸村も笑む。
「そのうちに、真田の忍びになる者等なのだからな」
「だからこそ、半端な事はしてやんねえよ。大丈夫、子忍びの十や二十、俺様の相手じゃない、死なせやしねえって」
 いいからもう行って、と片手を振られて、幸村は今度こそ欄干を跨いで天守の裡へと戻った。開け放した扉の向こうから、酒宴の声が洩れ聞こえて居る。あの日の城内のように静まり返って居ることも無い。
 城内の人間を、寝間に押し込めて息を殺す必要は無いと判断したのは長である佐助だろう。皆が酒精を帯び、どうしても警備が手薄になる年の変わる此の日と定めたのも、きっと佐助だ。
 それだけの自信家に試される子忍び達は気の毒だが、しかしその分、逞しく優秀な者が、数年の後には真田隊へと組まれるだろう。
 振り向き見た空にゆったりと泳ぐ、黒い影は忍びの凧だ。幼いながらに大凧を操る者が居るのだ。なかなかに見所が有る。真田忍びとは言え、舐めて掛かれば思わぬ苦戦をするかも知れない。
 正月早々やり甲斐のある仕事だな、と心中で呟き、唇に笑みを掃いて幸村は踵を返した。開け放たれた戸を後ろ手に閉じ切る瞬間に、微かに烏を呼ぶ指笛が聞こえた気がしたが、冷たい風が途絶えると共にその儚い音も共に途絶えた。

 
 
 
 
 
 
 
20070307
初出:20070101
大圧面/おおべしみ …自負尊大で他を威嚇する天狗の面 虚勢や脆さを抱えた表情を持つ べし→べそ/べそを掻く