朝っぱらから佐助佐助と主が呼ぶので近くへ寄れば、にこにこと満面の笑顔で金子を渡された。
朝餉が済んだばかりだというのに甘味でも買って来いと言うのか、それにしては多いから別の使いか、そうでなければ仕事の用かと首を傾げてこれは何ですと尋ねれば、お前に今から三日の休みをやろうと言う。
「佐助は働き過ぎだからな! 今は此れと言って火急の用もないし、才蔵にはもう話を通してある。忍隊はあやつに任せ、お前はゆっくりとしていろ」
「ゆっくりったってさあ、どうせ城に居たら俺様、なんやかんやで呼び付けられるじゃないよ」
「だから三日やろうと言うのだ」
城下に芝居を見に行くのでも、近場に湯治に行くのでも好きにしろと言って、主はさあさあと佐助の背を押し部屋から追い出すとぴしゃりと襖を閉めてしまった。なんだありゃ、と頭を掻いて、佐助は渋々自室へ向かう。
「才蔵」
忍び装束を解き簡易な着物に着替えて軽く旅支度をしながら声を掛ければ、音も立てずに開いた襖から微かに風が流れた。
「旦那、何か言ってた」
「城に居るとつい用を言い付けてしまうからと」
「そんなこったろうとは思ったけど、俺様、何かやらかしたわけじゃないよなあ?」
振り向き腕を組んだままこちらを見下ろしていた着流し姿の下人の様な男に尋ねると、男は肩を竦めた。
「何かやらかしたならその場で叱責が飛ぶだろう。裏表のある方ではあるまい」
「じゃあ何で、急に」
「さあ、武田のお館様に何か言われたんじゃないのか。一緒にいて何か気付かなかったのか」
「甲斐に行けば行ったで、俺はこき使われてんの。山ほど武田の忍びが護衛に付いて酒盛りしてるとこなんか、一緒にいる必要ねえだろ。常に旦那の話に耳欹ててたわけじゃねえよ」
なら知らん、とふんと鼻を鳴らした男に、役立たねえなあと顔を歪めて見せて、佐助は小さな風呂敷包みを背に斜めに掛けて結んだ。竹筒を懐に突っ込み、着物の裾を端折る。
「んじゃあ、出掛けるわ。三日ったっけな。明後日の夜には戻る」
「何処へ行く」
「あー、そうだな、じゃあ東の方にでも」
「もう少し明確に言えないか」
「時々烏飛ばすよ」
言いながら、渡された金子を小さな巾着ごとほいと投げ遣ると計った様に才蔵の手にちゃりんと音を立てて納まった。何だとでも良いだけに指で摘んで揺らして見せるのに、みんなで酒でも呑めばと笑って佐助は部屋を出た。
堂々と門から城を出て城下へ下らず、街道へと出る。直ぐに街道を逸れて山へと踏み入り、佐助はただ東へと向かって歩いた。ずっとずっと進めば越後へ、奥州へ出る。幾度か通った事のある山だ。とは言え、忍び装束を纏ったその時には木の上を、空の上を行ったのだが。
陽が南天を過ぎる頃、木になる実をもいで食べた。其れで昼は充分で、夜は夜で、途中で取っておいた野草と茸で事足りた。
仕事だと飛び回り、幸村に付き合って飯を食えばそれなりの量を片付けねばならなかったが、そうでなければ佐助は大して食事を取らずとも躯を維持できた。小鳥の餌の様だと主は不満げな顔をするが、大食漢の忍びなど困るばかりだ。
木々の合間から微かに覗く星空を見、明日の朝は晴れだろうと考えて木には登らず大きな虚を見つけて躯を丸めて潜り込む。以前獣が住んでいたのか下にからからに乾いた小枝が敷かれたそこは温かく、佐助は習性のままに苦無を握り締めはしたものの、夜明け前までの数刻ばかり、時間が抜け落ちたのかと錯覚するほど深く眠った。
陽が昇る前、まだ空が月の支配にある内に起き出してせせらぎを頼って歩く。山の実りが豊富で、獣も領域に踏み込みさえしなければおいそれと襲っては来ないことは判っていた。未だ上田の領地でもあるし、敵国の間者も気付かぬふりをしてやれば、直ぐに何処かへと去った。
浅い川の流れに草履を履いたままの足を浸し、顔を洗い竹筒に水を入れた。ついでに警戒心もなく足の側を泳ぐ魚を手掴みして、ぽいと河原へと放る。
夜が明け始めていた。
火を熾し焼いた岩魚を食べた。大烏を呼んで足に居場所を記した文を括り飛ばし、佐助はその日も宛てもなく、気の向くままに歩いた。駆ければ疾うに上杉の領地へと出ている頃合いだったが、のんびりと歩んでいる為にまだ自領だ。とは言え山の中では境目など曖昧で、下手に境界へと踏み込めば攻撃を受けても文句は言えない。
昼も夜も昨日と同じように飯を済ませ、夕刻になる前に戻った烏に獲って置いた山鼠を与えて佐助は見つけた小さな岩棚の下へと潜り込んだ。空気がひやりと湿っている。明日は少しばかり霧が出るだろうかと考えて目を閉じた。
天気を気にしていたせいか、その日の眠りは浅かった。
星の出ている筈の時間に起き出して、暗闇の中目を凝らす。空には星は無いが、薄く月が東の空へと浮いていた。朧な其れは雲の向こうで薄ら光り、未だ雨雲にはならないなと考えた所で、遠く、遙か東で轟きが響く。
青雲に一筋走ったいかずちに、彼れは竜の住処だな、白龍か、青竜か、と薄く笑って佐助は立ち上がり歩き出した。
以前見つけていた野草の群生地が未だ在ることを確認する。幾つか取り懐へ入れて、もう幾つかを揉んで、噛んだ。苦みと酸味が口に広がり胃の裡から毒が抜けて行くようにすうと躯が軽くなるように錯覚する。
ゆっくりゆっくりと柴を踏み締め、歩く。やがて視界が開けた。最後の藪を掻く。轟々と鳴る滝は遙か下方だ。
佐助は崖の縁まで進んだ。大きく息を吸い、吐く。風が着物を髪をはためかす。
薄い雲の向こうから、白く清浄な光が上り総てを照らした。その上でいかずちが走り、遠く遅れて切れ切れの雷鳴が轟く。
雨と、風と、光と、音が、あの遙か向こうで混じり合いごうごうと暴れている。
息を止めるようにしてそれにじっと見入り、それから佐助は軽く肩を回した。上杉との境界だ。だが、本来ならまだ自領の筈の場所だ。
背に降り注ぐ殺気に気を向けると、ざあと雨のように薄刃が降る。半瞬疾くそれをかわし、苦無を投げ付ければ声も無く、木から陰が藪へと落ちた。
「此処は未だ真田、引いては武田の領地だ」
事を構える覚悟が在るかと問えば、間も無く残りの気配は消えた。
佐助は確かに手応えのあった藪に落ちた骸を捜したが、拾って行ったのか僅かに血の跡が残るばかりで後は髪の一筋も残して行きはしなかったから、直ぐに探索を諦めて指笛を吹き大烏を呼んだ。足に文を結び付け、軽く嘴の下を撫で遣り空に放つ。烏は西へと向かって下った。
それを見送り、佐助は日輪の上る空を見上げて、それから跳躍をして木々を渡り烏の後を追うように、西へ、主の城へと向かって駆けた。
東の空の轟きは、知らぬ間に止んでいた。
20061210
小獣のうろ
文
虫
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