「お疲れぇ」
気の抜けた声で言って、黒々とした煙の上がる戦場を烏に掴まり滑空していた忍びがとすと爪先から舞い降りた。常になくほんの半歩ではあったがよろけた様に、幸村はだらりと下げていた槍を持ち上げ、ど、と肩に担いで首を巡らせた。小さく嘆息を洩らす。
「襤褸のようだぞ、佐助。しくじったな」
「おいおい、失礼なこと言うんじゃねえよ旦那。俺様がしくじりますかっての。あんたあれだけの敵陣に飛び込んで行って、卒なく任務こなしてこれるのなんてこの猿飛佐助くらいなもんだぜ」
しっかりとした口調の軽口に酷い怪我はないのだなとにんまりと笑うと、軽く肩を竦めて忍びはとんとんと己の首の下を指差した。
「旦那こそ、しくじったんじゃねえの?」
「うむ?」
「六文銭、」
ああ、と言って己の胸元を見下ろす。死に際の爪が肉ごと膚を掻き、数本の傷から未だ血が流れ落ちている。
「がむしゃらに掴み掛かられてな、持っていかれた」
「首は大丈夫か? 俺が縒ってやった紐だろう。引っ張ったくらいじゃ切れねえはずだが」
「大事ない。が、後で薬を塗ってくれるか。うなじが少々切れた」
「はいよ、了解」
爪傷と他の手当てもな、と言って、足下に散らばる肉片や死体を避けるふりをしながら歩み寄ってきた忍びは、ふと気付いたように身を屈めた。その指が摘もうとしているものに気付き、幸村は慌てて制止する。
「いい、そのままにしておけ」
「旦那の六文銭じゃないか」
「また作ればいいだけだ。それに、そいつにも渡し賃は要るだろう」
ふん、と鼻を鳴らし、身を起こして歩いてきた忍びは身を返した幸村の半歩後に続いた。
「まあ何にしても、六文銭は要らなかったみたいでよかったよ」
「そうそう簡単には死出の旅路に着く気はないぞ。それよりお前こそ、渡し賃もないのに戦は終わったとは言えこんな見晴らしのいい戦場を飛ぶな。狙い撃ちでもされたら一巻の終わりではないか」
「そんなへまはしませんて」
「しないと思っているときにするからへまと言うのだ」
いつもとは逆にやりこめられたのが悔しいのか、むう、と口をへの字に曲げた様をちらりと見て幸村は続けた。
「走るも辛いのを堪えて迎えになど来ずとも、某は戻るぞ。戻らねばそのときはそのときだ」
ちらりと、赤み掛かる目を片方細めて、先程からだらりと垂らしたままの左の肩をさすり、忍びは馬鹿言うなよ、と低く呻いた。
「死んでどうすんだ」
「お館様のために死すならこの幸村、」
「大将のために生きてろって。俺が生かすなんて傲慢は言わねえから、あんたはとにかく自分を生かせよ」
生きてさえいればどこまでだって迎えに行くからと呟いた忍びは眉間を険しく寄せていて、幸村は改めて、本陣から随分と離れて孤立してしまっていたのだなと反省した。小言を言い窘めることはあっても、いつもならは過剰な程にこの自分の力を信じ頼る忍びが、こんな顔をすることは稀だ。
「佐助」
すまなかった、と素直に言えば、忍びはにいと大きな口を引いて笑った。痩身がゆらりゆらりと揺らめいて、まるで酔っ払いのような足取りでいる。軽く手当てはしたのか一見怪我はないように見えたが、血を流し過ぎたのだろう。
「珍しいね、旦那がちゃんと反省するなんて」
「何を言う。某はいつだってちゃんと、お前の小言は聞いているのだぞ」
「小言言わせてんのは誰だっての。それに、聞いてるだけで右から左じゃ意味ないでしょうが」
「佐助、陣はまだ遠いが」
「判ってるよ」
「飛べるか? 先に行け。某の無事を伝えろ」
「飛べるけど、大将んとこまで戻る間に落ちない自信がないね」
「威張って言うな」
足を止め、幸村は二槍を穂先を下に返してまとめて右肩に担ぎ、手甲に包まれた右腕を取った。肩を貸す。
「休んだら勝手に戻るから、旦那ひとりで戻ってていいのに」
「日が暮れるまでに戻らねば命の保証があるまい」
「いくら手負いでも残党や盗賊なんかにゃそう遅れはとらねえよ」
「戦は終わりだ、無駄に戦う必要もないだろう」
まあそりゃそうだけど、と呟いて、それきり忍びは黙ってしまった。さほど体重を預けられることなく歩んではいるが、どっと歩幅が落ちた。顔の間近にある横顔が青白く、普段から少々重たげな瞼が半分、目に被っている。前方に据えられている目は焦点が朧だ。
「……佐助」
「はいはい」
「無理するな」
く、と、忍びは唇を歪めて笑った。やれやれ仕方がないねえと呟きでもしそうな、苦笑のようだった。
「お仕事、お仕事」
そうかと言ってそれ以上は返さずに、幸村は戻ったら紐を縒ってもらわなくてはなと考えた。同時に胸の裡の襞が、逆立つようにざわめいた。
首が抜けるのではないかと思う程に強い力で引かれた紐を、それでも引き千切って仕舞おうなどとは思わずに、翻した槍の穂先が触れたのは紐と六文銭に絡み膚を抉った指の先の、腕で。
ぶつんと鈍い音を立てて手と腕が離れてその衝撃で倒れ込んだ躯に止めの一撃を加えて、続いてぼとりと落ちた手を見て息も侭ならぬ程に後悔をした。戦いの場で、こんな気持ちが湧き上がることなどいつもならばなかった。
渡し賃を惜しんだわけでは、勿論無かった。これがなくばあの世で己が困るなどと、そんなことを考えたわけではなく。
この紐を縒る細長い、忍具の重みに歪に骨の曲がった手が、脳裏に思い浮かんだ、ただそれだけのために。
手ずから紐を解き、幸村は足下に横たわる敵兵の伸ばした腕の先に、じゃらりとそれを置いた。
槍を握り直し身を起こしてぼんやりとそれを見詰めていると、頭上から親しんだ声が馬鹿に明るく気の抜けた調子で降って来て、幸村はほんの僅か、唇の端に笑みを浮かべ振り向いた。
西に落ちて行く陽を受け、輪郭の赤く燃え立つ髪を逆立てた、鬼火のような己の忍びの姿に、幸村は酷く酷く安堵した。