「た……いしょ、」
苦しげな息の下、絞り出すように囁かれた名に答えず、幸村は背後から抱き締めたその肩に歯を立てた。ぐ、と滑りも充分とはいえないまだきつい繋がりを無視して押し込むと、抱えた背中が僅かに逃げる。
「………っ、く」
「佐助」
「ん、」
「大丈夫か」
「ん……」
肩へと顎を預けて覗き込んだ先の振り向かぬ色を失った横顔が、冷や汗を浮かべたまま僅かに笑う。
「あんま、無茶……してくれんなよ、大将……。俺様、明日も偵察出なきゃ」
「良い、無理はするな」
「ばっ……か、だね」
はは、と息を吐くように笑い、佐助は俯いた。随分と伸びた髪が頬を擽る。伸ばしている己はともかく、佐助は結い上げるつもりでそうしているわけではないだろう。単に、髪を切る暇もないと、そういうことだ。
「佐助……」
幸村は首筋へと鼻先を擦り付けた。元々細い男だ。見る分には痩せたと感じることもないが、こうして触れれば窶れた印象がある。働かせ過ぎだとぼやく癖のあった口は、今は励ましの言葉を紡ぐばかりだ。
「俺……が、出なくて、誰が行くのよ……もう」
「佐助」
「いいから、黙って使っときなさいって。俺様の使いどき間違えるなんて、らしくない……ぜ、……大将」
「………」
無言でぎゅうと腕の輪を狭め、ゆるりと埋めた熱で擦り上げると苦しげな息が噛み締めた歯の合間から洩れた。
「佐助」
「ッつ、う……た、いしょ、う」
「………佐助」
違和感が拭いきれない。
佐助が旦那、と呼ぶのは何も幸村に限った話ではなく、敬称のようなものでしかない。だから以前のように真田の旦那とそう呼んでもらいたいと、そう思うわけではない。
しかし佐助が唯一『大将』と呼ぶ相手は、信玄であったはずなのだ。今は病床のその師をお館様と呼ぶ佐助は、武田のどの戦、誰が大将を努めていても、けして信玄以外をそうと呼ぶことはなかった。
佐助の言う大将とは、武田の総大将、甲斐の虎に他ならない。
だが、現在の武田の総大将は幸村だ。信玄の名代として、その自覚を促すため、と、最初はそのような思惑がちらちらと覗いたものだったが、近頃はまるで判らない。二人きりのときも、こうして人払いをすませた閨に連れ込んだときですら、佐助は幸村を大将と呼ぶ。
まるで信玄がいないかのような振る舞いだ、と、つい先程信玄の容態を語ったばかりの忍びを腕に抱きながら幸村は思う。しかし他にどう呼ばれたいのかなど、どのような名であれば違和感がないのかなど判らない。
己には何一つ、見えることなどない。
「………大将」
すり、と首筋に埋めた顔に頬擦りをされて、幸村はぎくりと顔を上げた。ちらと流された色の薄い目が、苦笑のような色を浮かべる。
「あんまり、思い詰めるなよ。あんたはよくやってるよ」
「………おれは、」
「いいって、言うなよ。だいじょーぶ、俺様が付いてりゃ、千人力、ってね」
幸村はゆると息を吐いた。
「そうか。……そうだな。お前は忍びの中の忍び、お前を越える忍びなど、おらぬ」
「そうそ、大船に乗ったつもりで任せて頂戴」
へへ、と笑う佐助も、先日の小競り合いですら勝ちを逃し、幾人もの兵を失った幸村の采配を、知らぬわけではない。忍隊も随分と減り、佐助の力でようよう保っているようなものだ。忍隊に限らず、佐助がおらねば崩れる箇所など数えきれぬ。
たかが忍びのその肩に、今の武田の一角が、担われている。
「……お前、無理をするなよ」
「そっくりそのまま、返しますって。あんたが倒れちゃ武田はおしまいなんだ。頼むから、無茶はしないでくれよ」
「おれのことはいい。お前こそ、死に急ぐな。失っては武……おれが、立ち行かぬ」
言い換えた幸村に苦笑して、辛くなったのか佐助はゆるりと上半身を褥に伏せた。
「無理のしどきってもんが、あるでしょ。今踏ん張らなくてどうすんだって。お館様が戻るまで、持ち堪えなきゃならないだろ」
褥に突いた腕の下に伏せる肉のない背を見下ろし、幸村は敷布を堅く握った。
「……佐助」
「………大丈夫、死なねえよ。俺様がいなきゃ武田が潰れちまう、んだろ?」
「佐助」
ちら、と見上げた横顔に悪戯っぽいいつもの笑みを浮かべ、佐助は腱が浮くほど力を込めた幸村の手首に触れた。
「もういいだろ? 話は後にしてくれよ。閨に呼んどいて、相変わらず無粋なこった」
納得したわけではなかったが、幸村は黙って身を屈め、伏せた背に舌を這わせた。佐助もまた納得させたかったわけではないのだろうが、言う通り、幾ら言及したところで答えなど出ぬ問いだ。
佐助もまた見えぬ夜を掻いているのだ、と。
そう、見えてしまうことが僅かに空恐ろしく、幸村は大将と呼ぶ声に意味もなく叫び出しそうな声を喉奥で殺し、肉のない腰を掴み強く突き上げた。
20090928
初出:20090927
死ねないさすけとか必死なさすけとか
それが見えちゃうおとなになっただんなとか
でもだんなは大丈夫
文
虫
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