大きく逞しい背は、標準以上の体躯の、武人としてそれなりに出来上がった躯付きの政宗がずっしりと寄り掛かって居てもびくともしない。
 何の問題もなく背筋を伸ばし、寄り掛かり易い様にだろうか、常よりも僅かに前屈みに傾斜を付けて、小十郎は先程からずっと、書き付けをして居る。するすると筆が滑る度に、左側の肩胛骨と筋肉が僅かだけ動いた。
 
 此れは、本当に、政宗だけの物だった。
 
 片倉の家の次男坊だが、伊達家が貰い受けた物だった。父の従小姓として召し上げられた小十郎は、主の側近としての将来を約束される代わりに、生涯片倉家の為で無く、伊達家の為に、其の個人を捧ぐ必要が有った。無論、当時童であった小十郎に、是非を問われる事も無い。知らぬ間にそう言う事になったと、其れだけの事だ。
 だが其れでも、小十郎は其の運命に非を述べた事はない。芯から政宗の物なのだ。
 父から貰い受けたその日から───とは、言わない。だが、年月が、孤独であった主従を堅く結び付けてしまった。最早小十郎は政宗の右目で、其れを抉るなど、不可能だ。見えぬ目は抉れても、小十郎は抉れない。
 
「───あいつは何で、真田の所に居るんだ」
 
 問うで無く、低く呟き、政宗は引き寄せた片膝に肘を突いて、ぐしゃりと前髪を掻き回した。
「………その件ならば、真田からきっぱりと断られたと、そうはおっしゃいませんでしたか」
「真田は彼んなのが居なくても、どうにでもなるだろう」
「其れでも手放せぬと言うのなら、何か想いが有るのでしょう」
「Ha……あいつに有るかよ、そんなもん」
 政宗は皮肉げに唇を歪め、笑みを閃かせた。
 彼の赤獅子は、酷く簡単で明瞭な、幾つかの感情だけで生きて居る。喜怒哀楽好悪、それに綺麗に振り分けてしまえる、其れだけの心しか持たない希有の人だ。感情の合間に有る混沌とした部分が一切無い。闇も無い。奈落も無い。その縁すら無い。
 だから───彼れと対峙するその時、政宗は己の立場を忘れてしまう。そんな物は余計なものだと、ただ此の昂揚の儘に闘いたいと、其れを望む心を諌める事を忘れてしまう。
 
 酷く愉しい。
 しかし、酷く危うい。
 
 真田はまさに乱世の寵児だ。一点の翳り無く澄んだ睛眸、歪まぬ視線、何を火種とするでもない、唯その高温故に燃え立つ純粋な炎。其れに引きずられると、政宗の裡に在る陰竜の性が、首を擡げる。毒息を吐き、人の世の理など彼方へ吹き飛ばして唯、いかずちの如く暴れ始める。
 一振りの刃───ただし諸刃だ。引くも突くも斬るばかりの。
 天の遣わした闘児の、その片刃を潰し人の王へと引き落とすのは骨が折れる仕事だろう。しかしいつかは終わる乱世を見越し、誰かが受け持つしかない仕事だ。さもなくば何れ、彼れは人に徒なすだろう。真田自身に悪意は無くとも、純粋過ぎる闘心の化身は、清濁併せ持つ人間には眩し過ぎて、毒だ。人の目が盲いる事無く姿を捉える為には、陰影が無ければならない。影の無い光の形を、人の目は掴めない。
 其れを防ぐためには誰かが───出来る事なら自分が未だ仔獣で有る裡に討ち取るか、狡猾な虎に苦労してもらうより他、無い。
 けれど彼れに付き従う影はどうかと言えば、呆れる程に曖昧な、陽と陰とを揺れ動く、有り体に言って平凡な、そんな男だ。
 主に無い闇を、主の代わりに一身に背負う様で有れば未だ納得は行く。其れは居なくてはならない物だろう。真田幸村に欠ける物を補填する為に、真田自身が欲することは無くとも、周囲が、世間が欲するだろう。
 一対の翼であるのなら、其れを引き剥がせば政宗の好敵手は地に墜ち死ぬ。しかしそう言う事ではない。彼の影は、真田幸村の影としてで無く、単に優秀な忍びとして、武田に重宝されて居るに過ぎない。
「欲しいのですか」
 じっと考え込んでいる政宗に、ことり、と筆を置いて振り向かぬ儘、小十郎の静かな声が掛かった。
「………否、」
「欲しいのならば、獲って差し上げますが」
「無理だろ」
「政宗様はそうは思っておられぬ様に、小十郎には思えます」
「Uh……」
 呟き、ぼんやりと障子越しの空の光を眺めて、政宗は眼を細めた。
「訂正するぜ。お前には、無理だ」
「左様で」
「彼れはお前じゃねえからな」
 お前は俺と同じ物だ、と言えば、小さく背が揺れた。笑ったのだろう。
「恐れ多い」
「Ha、柄かよ」
「此の小十郎が、奥州王たる貴方と同じ物などと」
「そりゃな……お前は主君にゃなれねえ。そう言う意味じゃ彼の夜烏と同じだろうが、だが性はどうだ。彼れは陰陽併せ持つ、闇の烏だぜ? お前は竜の右目だろうが」
 いかずちを纏う、空隙を走る。
「同じ物でないのなら、お前は俺の一部には成れねえ」
「………左様で」
「同じ物でないのなら、俺はお前に背は持たせねえ」
「見立て違いでしたら、どうなさいます。小十郎はお役御免か」
「俺が、見立てを違うかよ」
 獣の様な瞳孔の、隻眼が油を流したかのように光る。政宗は何も無い部屋の隅を睨み、薄らと嗤った。
「俺が欲したのは俺の一部足り得る物だ。───もし、お前の生まれ持っての性が俺とは違う物だとして、今はもう、すっかり染まっちまってるだろうが」
「左様で」
 三度目の同じいらえに、政宗は喉を鳴らして苦笑した。とん、と後頭部を肩に付ける。
「───厭か」
「まさか。安堵致しました。小十郎は人の性など、視る目は持ち合わせておりませぬ故」
「何言ってる。目で見るだけじゃねえだろ。鼻で嗅ぎ取るだけでもねえ。全身で気配を感じるもんだぜ。inspiration……勘って奴だ」
「勘でしたか」
「たかが、と思うか?」
 いえ、と呟いて、小十郎は首を巡らせ障子の向こうの光に眼を細めた様だった。
「判り易くて助かります」
 そうか、と呟いて、政宗は目を閉じる。身の裡にざわりと火が灯る。火種を熾してしまった。真田の事など考えたからだ。
「政宗様」
「Un?」
「───獲って、差し上げましょうか」
 瞼を上げずに、政宗は唇を歪ませ嗤った。
「小十郎……余計な真似するんじゃねえぜ。彼れはお前の獲物じゃねえ。俺のものだ」
 左様で、と囁く様に返した声には落胆は交えない。だが僅かに潰し損ねた熱が有る。
 小十郎が、真田と闘いたいと考えている訳では無い。其れを政宗は知っている。
 政宗と近い性を持つ小十郎だ。武人として、強者と剣を合わせる事に焦がれる、其の心は持っている。けれど真田と闘いたがる其れは、武人としてではなく政宗の従としての心だ。政宗の前に、政宗にとって致命傷と成り得る凶事を、運びたくないのだ。
 真田の前には酷く凡庸に見えた夜烏は、お前など眼中に無いのだと言った途端、其れまで上っ面に浮かべて居た緩い笑みを取り落とした。表情の無い顔の、其の色の薄い目だけが爛と燃え立ち、其れから、気が合わないね、と唇に、酷薄な笑みを刻み込んだ。
 真田を獲ろうとする者への───警戒に見せ掛けた、強い憎悪。従としての心だけでは無い。だからと言って其れが恋情や独占欲だと言う事でもない。そんな、判り易い感情では無い。
 ただ、彼れは真田の一部で居たいのだろう。己の一部をもぎに来た、己の片翼を奪いに来た政宗に、お前は真田の片翼などでは無いと、計らずしも言い放ってしまったも同然の自分に、瞬間的に憎悪したのだ。
 彼れが真に真田の片羽足り得る、政宗にとっての小十郎の如き存在で有るのなら、政宗の戯言などに揺れることは無いだろう。敵が何を言おうが惑うことなく食い止めて、主が其れを許さぬのなら、唯じっと控えて見守るだろう。そして万が一主が墜ちる様な事が有れば───片翼をもがれる様な事が有れば、己もまた、自らもがれた羽となるのだろう。
 
 だが、違うのだ。真田と彼の夜烏は、決定的に違う物だ。
 
「───真田の側では眩しいばかりだろうに」
「其の光無くば、己の姿も見えぬのかも知れません」
 首を巡らせて見遣ると、小十郎はじっと書き付けた書面の真ん中に視線を落として居た。
「暗闇の中のたった一つの灯火が、支えとなる事も、有るでしょう」
「………そう、思い込んでるだけかも知れねえぜ」
「だからと言って己の姿も見失っては、再び火を探すにも苦労します」
 
 最早二度と巡り会う事も敵わぬかも知れません。
 
「Hum………彼れは、そう言う質じゃねえと思うが」
「小十郎にも判る事も御座いますぞ、政宗様」
 肩越しに此方を見た小十郎に、政宗は身を起こした。胡座を掻いて向かい合うと、小十郎は端座したまま膝を回した。
「彼の忍びは陰陽併せ持つと、おっしゃいましたな」
「嗚呼、そうだ」
「其の陽は、まさに主そのもので御座いましょう。真に闇禽と成れば、我々が飼い慣らせる者には成りますまい。しかしそうなれば、飼う必要も無いのでは」
 貴方は猿飛の陰陽の、陽に惹かれて居るだけだ、と小十郎は薄らと笑んだ。
「猿飛の裡の真田が、欲しいだけです。童では無いのだ、駄々を捏ねるものではありませぬぞ、政宗様」
「───Ha!」
 言うな、と嗤って、政宗はごろりと横になり小十郎の膝に頭を乗せた。
「だが、chanceさえ有れば、俺は彼れを獲るぜ」
「其れで捕らわれる様ならば、彼れも其れだけのものだと言う事です」
「そう言うな、彼れはお前とは違うんだ。武人じゃねえし、誰かと対に成れる代物じゃねえ」
 対を必要としない、真田の物としては、有る意味似合いか。
 政宗は目を閉じた。
「仕事は済んだか」
「は、今日の分は、疾うに」
「Ha、そうかよ。………少ししたら、起こせ」
「はい」
 そっと腕を伸ばす気配が有って、瞼に僅かに掛かっていた障子越しの柔い光が絶えた。障子の前に、衝立を立てたのだろう。
 政宗はゆるゆると眠りの縁を滑り降りながら、眩い背に眼を細めて居た、夜烏の事を思った。
 夜烏は、政宗の身の裡に燻る火種を踏み潰す事も出来ずにただ此方を見て、爛と光る目でしようがないね、と心の籠もらない笑みを見せた。
 酔眸に浮かぶ瞋恚は、暗く揺らめく陰だった。

 
 
 
 
 
 
 
20070102
太陽の下の夜烏