へぶしゅッ、と湿って潰れたようなくしゃみとそれに伴いどざざざ、と常緑樹の枝を鳴らして落ちた雪の音に、佐助はぱちりと目を開けた。冬眠気味ではあったものの、武田の狐である以上は本格的な冬期休業とは無縁だ。
くしゃみの主に心当たりがあった佐助はぱっと立ち上がり、留守を仰せつかっていたあたたかな虎の洞穴を駆けた。出入り口から少し曲がっている洞穴は、風が直接吹き込むことはないが外が真っ直ぐには見れない欠点がある。そのため暖かい季節ならばもう少し入り口のほうに寝床を設えるのだが、ここ最近の雪ではそうもいかない。
案の定雪の吹き込んでいた入り口に薄い足跡を付けにわかに白くなった息を吐きながら飛び出した佐助は、立ち尽くしたままもう一度ぶしゅん、とくしゃみをした見窄らしく濡れた虎に溜息を吐いた。
「もう、旦那ってばそんなに雪積もらせて! 入って来たらいいじゃないの」
「今戻ったところなのだ。森の端までは送ったいただいたのだが、ここに来るまでの間に積もってしまった」
言いながらぶるぶると躯を振り雪を落とし、幸村はまだ乾き切らないままのっそりと巣穴へ踏み込んだ。佐助は慌てて先導し、先程まで己の横たわっていた温もりの残る寝床を踏んで整える。
「座って座って! おなか空いてない?」
「うむ、大丈夫だ」
どさ、と寝床に座り、幸村はふう、と息を吐いて心地良さそうに目を細めた。
「寝ていたのか? あたたかいな」
「そりゃこんな雪ですから、寝てますよ。ところで送ってもらったって、誰に?」
濡れた毛並みをさりさりと舐めてやりながら訊くと、心地良さそうに目を細めた幸村は伊達殿の、と言った。佐助は怪訝に首を傾げる。
「独眼竜に送ってもらったの? 何してんのよあのお方は」
「否、伊達殿自らがこられては騒ぎになろう」
あんた自らが奥州に出向いたって騒ぎになるけど、と緑の眼に半分瞼を被せながら、佐助は黙って続きを聞いた。幸村は佐助の態度に気付かぬものか心地良さげに目を閉じ、機嫌良く続ける。
「伊達殿の近侍の、成実殿だったか、あの方にな」
「ああ……あの柄悪い感じの竜か。どうやって送ってもらったの」
幸村は首を巡らせもそ、と己の肩口へと鼻先を埋めた。
「こう、首の後ろを鉤爪に引っ掛けてな」
「……まさか飛んできたとか言わないよね?」
幸村はにわかに興奮した面持ちで頷いた。
「そうだ佐助、おれは空を飛んだのだぞ!」
「は!? 」
「雪雲の上は晴れていてな、風は冷たく髭は凍ったが……」
「ってそんなに高く!? ちょ、落ちたらどうすんだよ! 死んじゃうでしょ!? 」
「落ちなかったぞ?」
「そういう問題じゃないだろ!」
何が悪いのかまったく判っていない顔できょとんとしている幸村に更に説教しようとした佐助は、まあいいだろう、ともふ、と組んだ前脚に下ろされた満足げな顔に出鼻を挫かれた。
「……なにがいいんだよーもう……」
「伊達殿との手合わせは有意義であったし、空も飛べたし落ちもせずこうして無事に戻って参った」
「そりゃあ良かったですけどねえ」
「奥州は大層な雪であったぞ、佐助」
嫌みな口調に気付きもせぬものかそう言って、幸村は鋭い虎の目をつうと細めた。
「奥州も越後も雪深き土地だ。独眼竜や軍神のあの強さ、厳しい土地に培われるものかもしれんな」
「それだけじゃないでしょ。第一、冬の間雪に閉じ込められてたんじゃ満足に鍛錬だって出来ないんだからさ」
「精神鍛錬というものもあるぞ」
「軍神は兎も角、竜は寝穢いって聞くけどね。冬なんて寝て過ごしてりゃあ、あっという間さ」
「お前、今日は随分と突っ掛かるな」
佐助はふん、と鼻を鳴らしてつんとあごを逸らした。
「気が付くなんて珍しいねえ。旦那にしちゃあ鋭いじゃないの」
「何を怒っている」
「べっつにー。お館様にはお断りしてから行きなさいねって言ったのに聞きもせずに飛び出して行ったきり便りもないとか」
「む、」
「途中で崖から落っこちてくっついてった俺様の部下とはぐれたくせに奥州着いても連絡もしないとか」
「う、」
「ようやく追い付いた連中がいくら言ってもまだまだって我が儘言って帰らなかったとか、かと思えば気が付けば勝手にお暇しててその上空飛んで来たとかほんっと、旦那は狐使いが荒いよねえ。下の連中半泣きだったよ」
「う、うむ」
幸村はしゅんと耳を垂れた。
「す、すまぬ」
「それはあいつらに言ってやってよ。いくら武田の狐だってねえ、この雪の中奥州まで行ったり来たりって、結構大変なんだからね。下手すりゃ命も失いかねない」
「うむ……」
「勿論あんたもだよ。崖から落っこちて見失ったって聞いて、みんなどんだけ心配したか。お館様があんたは大丈夫、その程度でどうにかなるような弟子ではないって悠々としておられたから助かったけど、あのお方だって心配しなかったわけはないんだからね! この雪だから今日はお休みしておられるだろうけど、晴れたらお詫びに行くんだよ」
「う……うむ」
幸村はぺしょり、と萎れたまま頭を下げた。
「すまぬ……軽率な真似をした」
「判ればいいですけど、謝るなら俺様にじゃないからね」
「うむ。しかしお前にも心配を掛けた」
ふう、と佐助は吊り上げていた眦を緩めた。
「ま、俺様もお館様と同意見だったからさ。旦那がその程度でどうにかなるようなことはないって」
「そうか」
「そうです。旦那には俺様、絶大な信頼を寄せてんのよ?」
戯けて器用に片目を瞑った佐助に幸村は笑った。
「ならば、ますます励まねばな!」
「無茶するのとは違うんだからね! 自重はしてよ! 取り敢えずこの冬はもう、森から出ないこと!」
「それは無理だな」
けろりと言った幸村に佐助はげんなりと大きな三角形の耳を伏せた。
「ええー……ぜんっぜん反省してねえし」
「そうではない。もう他の国へ行くことはせぬが、しかし森を出ねば、温泉には行けぬだろう」
ん、と瞬いた緑の眼に、幸村は機嫌良くふふん、と鼻を逸らした。
「おれが留守にしていたからな、お前、温泉には行っておらぬだろう」
「ああ……まあ、うん」
「気を揉ませた詫びだ。この雪が止んだら、連れて行ってやろう。おれも久方振りに浸かりたいしな」
「って、あんたが行きたいだけじゃないの?」
幸村は慌ててぴんとしっぽを立てた。
「そ、そんなことはないぞ! おれはお前を労りたいと思って」
「はいはい、まあそういうことでいいですけど」
「佐助! 本当だぞ! 決しておれが行きたいだけでは……」
弁解を続ける幸村にはいはい、と呆れた素振りで返事をしながらこっそりと笑い、佐助は主の無事にそっと胸を撫で下ろした。
20110417
初出:20110213
しんぱいのしかえし
文
虫
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