八重の遠

 
 
 
 
 
 

「主殿。茶を二つと団子を頼む」
 天気は上々、昼前のいつもの行商人の客足が途絶え、遅い昼餉に出来るかとやれやれと肩を叩いて座敷の端に座り込んだ主人は、ふいに掛けられた声と暖簾を軽く潜らせた逆光に影になる顔に弾かれた様に立ち上がった。
「はいはい、只今!」
 うむ、と頷いた侍らしき男は、暖簾を揺らして外へと出て行く。縁台に座って待つのだろう客に、主人は急いで茶葉を新しい物に変えた。武家の客など珍しい。
 此の辺りは表街道からは少々外れた峠で、村々と市を繋ぐ場所にあるから朝夕の客には事欠かないが、立ち寄るのは野良に出る農民や、行商を済ませた商人がほとんどだ。侍が通る様な道ではなく、よしんば人の目を忍んで山中を行くにしても、その入り口でわざわざ茶屋に寄り、印象付けて行く事はしないだろう。
 ならば何用であろうか、検地にでも訪れたか、仇討ちの旅か、さもなくば腕試しか漫遊か。
 漫遊にしては此の辺りには何もないか、ならば物騒な理由であろうか、と首を傾げながら、主人は熱い茶を手早く盆に載せ、腰を屈めて暖簾を潜った。
「お待たせ致しまして」
「おお、済まぬな」
 一人で縁台に座る侍に内心で首を傾げながら二つの湯呑みの載った盆を置けば、侍は顔を上げて店の向こうを見遣った。
「佐助。お前も休め」
「はあい」
 驚いて振り向けば、確かに入り口を挟み縁台とは逆側に馬の息遣いを聞いた様には思ったが、馬の他、一つの人影があった。
 細身の男は馬面をぽんぽんと叩き、赤茶けた髪を揺らし人好きのする笑顔を浮かべて、主人を見た。
「ご主人さん、此の子にも水、あげてくれるかな」
「嗚呼、はい、只今」
「急がなくって構わねえよ。そっちの旦那の団子を先にしてやってくんな。山盛りにお願いね」
「はいはい」
 腰を屈めて頷けば、町人か下男かと言う姿の男はもう一度馬を撫でて、それから半身を返した。ひらと、片袖が揺れる。
 瞬いて見れば、男はゆっくりとした足取りで縁台へと近付いた。よくよく見れば、空の右袖と同じ側の足を、幾分か引き摺っている様にも思えた。
「お連れ様は、お躯がお悪いので」
 珍しい髪色の男が近付いて来る間にそっと声を潜めて訊ねれば、湯呑みに口を付けていた侍は、うむ、と軽く頷いた。
「戦でな、傷を負った」
「戦? じゃあ彼の方も、お侍で」
「否、」
「湯治にでも行かれるので。旦那様も、お若い様ですが……何処か、お加減が?」
「否……、」
「湯治じゃねえよ、ご主人さん」
 思い掛けず近い声に、びく、と主人は竦んだ。慌てて見れば、いつの間にか真後ろにまで来ていた男がへら、と笑う。足を引き摺っていたというのに、草履の音もしなかった。
 よいしょっと、と縁台に座りながら、俺達はねえ、と男は悪戯な声を出した。
「駆け落ちするとこなんですよ」
「ばっ、」
 男が主人との会話を引き受けた途端に再び湯呑みを啜り始めていた侍が、危うく吹き掛けた茶をぐっと堪えて口元を押さえた。
「な、な、何を申すか、佐助!!」
 佐助と呼ばれた男は腹を抱えてひいひいと笑っている。
「冗談、冗談に決まってるでしょ! ご主人だって本気にゃしねえよ、何慌ててんだよ旦那、みっともねえなあ」
 ほんとに疚しい所があるみたいじゃないの、ねえ、と笑みを向けられ、主人は曖昧に笑う。それを見て男はありゃあ、と笑みを苦笑に変えた。
「もしかして駆け落ちとは思わないでも、何か物騒な道行きだとでも思った?」
「い、いえ、滅相も無い……」
「心配しなくっても、後から二本差しが妙な二人連れは無かったか、なんて、訊ねて来るこたねえって」
 ねえ旦那、と話を振られた侍は、心底不思議そうな顔で主人を見、それから連れを見遣った。
「何故我等を見て、物騒だと思うと言うのだ。何も疚しい所などないぞ」
「そうねえ」
 侍に柔らかに言って、男は主人を見た。
「佐助」
「ま、此の通りのお方でね」
 少々咎める様な響きを込めた声を無視して、男は肩を竦める。
「妙な企みなんざ出来ねえのよ。ちょっと休暇を頂いてね、甲賀の方まで縁者を訪ねて、行くとこなんですよ」
「ははあ、そうでしたか」
 頷いて、主人はそうだと慌てて踵を返した。
「団子でしたね、少々お待ちを」
「はあい、宜しくね。済んだら、ご主人さん、こっちほっといて昼餉にしちゃって構わねえからね」
 ひらひらと隻腕を振った男におや昼餉の匂い等無かった筈、と目を向ければ、もう侍の方を見てなにやら話を始めている。
 昼餉の時間には少々遅いというのに勘の良い御仁だ、と首を傾げながら、主人は急いで暖簾を潜った。
 
 
 
 妙な詮索をした詫び、と握り飯の包みを渡せば、こりゃ済まないね、と相互を崩した男はすると袖に引っ込めた手に手妻の様に銭を握り、主人へと渡した。
 先程の代金も山盛りの団子の代価としても未だ余る程に頂いたというのに、更に貰っては詫びにならぬと一度は辞したが機嫌の良い顔で握らされる。小銭とは言え随分と金離れの良い御仁だ、矢張り何かあるのかと内心訝しみながら頭を下げれば、男は細めた目を更に糸の様にして笑った。
「飼い葉まで頂いちゃって、悪かったねえ。長旅で彼の子も疲れてるし、有難かったよ。此れで今日の内に、宿場まで行けそうだ」
「宿場? ははあ、山を越えますか。なら急いだ方が良いでしょう。山の中では、直ぐに日が落ちますよ」
「うん、そうさせて貰うよ」
「佐助、行くぞ」
 支払いは全て男に任せて馬の支度をしていた侍に呼ばれ、男ははいはいと頷いて踵を返した。
「じゃ、ご馳走さん。旨かったよ」
「何、団子は全部、あちらのお侍さんの腹の中じゃあ無いですか」
「あれ、良く見てるもんだねえ。旦那の食いっぷりが、旨い旨いって言ってたからさ」
 はは、と笑った顔は明るいが、その表情に惑わされずに良く見れば、目の下が僅かに落ち窪み、不健康な血が堪る。痩せぎすな躯はお世辞にも頼もしいとは言えず、何処からやって来たものかは知れぬが長い旅だと言うのなら、相当に疲れが溜まっているかの様だった。
「お気を付けて」
 頭を下げて言えば、男はにこりと笑ってゆっくりと足を引き摺りながら馬と侍の所へ向かう。馬には男が乗る様だった。一頭しかおらぬのだ、思えば当然の事だが、下男が馬上で主が手綱を取る等、不思議な関係ではある。
 手を貸すのかと見ていれば、侍は一切手を貸さず、しかしいつでも支えられる位置に立ったままで、男は片腕で器用にひらりと馬へと乗った。
「烏の方が早いのに」
 暖簾に片手を掛けて店へと戻ろうとしたところで風の加減かふっと聞こえたその声に、振り向いて見れば二人はゆっくりと馬首を巡らし山道へと向かって歩き出した所だった。
 烏とは馬の名前だろうか、変わった名だ、と考えながら、主人は今度こそ暖簾を潜り、土間へと戻った。
 
 
 
「馬鹿者。お前、片腕で飛ぶつもりか」
 憮然とした幸村は、馬を引きながら眉間に皺を寄せた。佐助はしれっと肩を竦める。
「烏なら行けるって」
「途中で撃ち落とされたらどうする。他国の忍びと行き会わぬとも限らぬだろう」
「でもさ」
 佐助はゆらゆらと揺れる躯を器用に立てながら、軽く眉尻を下げた。
「だからってあんたがこうして送って来る事なんか、ないじゃないの。忍隊の奴でも貸してくれれば」
「何、長らくお前を借り受けた上、こうして里に戻すのだ。おれが挨拶に出向かぬでどうする」
「……餓鬼じゃないんだから」
「佐助を頼むと、くれぐれも粗末に扱ってくれるなと申しておかねばな」
「あのねえ。俺様は此れでも相当里に貢献してますし、もう上忍なんですよ。ほんとなら戦になんか出てないで、里でのうのうと好きな事して暮らしてても良いくらいだったの。弟子になりたいってのも大勢いるってのに、そんな心配は無用です」
「おれがしたくてする事だ」
 だから気に病むな、と口元に笑みすら浮かべて疲れのない足取りで手綱を引く主に、佐助は一つ溜息を吐いた。途端、くんと軽く馬の足が速まる。
「急ぐぞ、佐助。冷える前に、山を越えねば」
「いざとなったら、旦那だけ先に行きなよ。俺様だけなら、山で野宿も平気なんだし」
「馬鹿を申すな。忍び孝行くらいさせろ」
「それ、おかしいって」
 はあ、と再び呆れた溜息を吐いた佐助に幸村は笑う。ぶる、と鼻面を振った馬の首を軽く叩いて宥め、佐助は主の旋毛を見下ろした。此の馬も、本来なら此の様に旅に使う様なものではない。戦場で猛々しい働きを見せる、幸村の木綿鹿毛だ。もう若いとは言い難い年に差し掛かるが、それでも武田騎馬隊の中でも隊長が預かるに相応しい馬だ。
 いつか、名は付けぬのか、と訊ねた佐助に、お前の烏と同じ様なものだろうと不思議そうな顔をした幸村は、けれどどうしてもと言うのなら猿と付ける等と言うから、ならばないほうがましだと、その時にも溜息を吐いたものだった。
「……旦那。前に此の子に、猿って付けようとしたよね」
「うん? 名の話か?」
 そうだったか、と首を傾げた幸村に、そうです、と頷いて、佐助は鞍の端に掴まった。
「何で、そんな名前付けようとしたのよ」
「色がな」
「ええ、お猿の色とはちょっと違くねえ? どっちかっつったら、鹿とか、そっちの綺麗なさあ」
「お前の頭の色に似ていた」
 佐助はひとつ瞬き、揺れる馬の鬣を見た。
「……似てねえよ?」
「仔馬の時だ。何れ幸村の馬になると、そう言って見せられたとき、今より濃い、橙に似た褐色をしていた。そのときから、此れは佐助と思うておった」
 だが佐助と付けては紛らわしい、しかし猿飛等と名乗らせるには烏滸がましい、だから、とそこで言葉を切った主に、佐助は眉尻を下げて黙った。甲斐を発ってから、どうにも調子が狂う事ばかりだ。
「………なあ、佐助」
 山道に差し掛かり、暫し無言で揺られていれば、馬の足を弛めた幸村が穏やかな声を掛けた。
「おれを、武田を、真田を忘れるでないぞ」
「当たり前でしょうが。忘れようったって忘れられませんて」
「恩義に思え等と、申しておるのではないぞ」
 佐助の額に掠りそうな程にせり出た枝の根元を掴んでぎしりと避け、幸村は続けた。
「文を出すぞ」
「え、」
「此の遠さだ。会いには、そうそう行けぬが………戦の事、お館様の事、武田の事、民の事、真田の事、家中の事、季節の事、お前が餌付けしていた野良の事、それに、幸村の事、皆書こう」
「いいよ、そんな……大体、戦の事や家中の事なんか、もし途中で誰かに盗まれでもしたら、」
「だから、お前も返事を寄越せ」
「……字が得意じゃないって、知ってるでしょうが」
「かなで構わぬ。短くて良い。壮健なのかどうか、それだけで良い」
 ゆるゆると馬の足を進めていた幸村は、いよいよ鬱蒼と茂る木々に手綱を引いて歩みを止め、佐助へと腕を差し出した。山の暗がりにますます黒い目が、ちらと木漏れ日を拾い、そこだけ真白に星を浮かべる。
 真っ直ぐな目で佐助を見上げ、幸村は口元の笑みを深くした。
「そうして、お館様が天下をお治めになった暁には、必ず迎えに行く」
 佐助はゆるりと瞬き、それからへら、と笑みを浮かべた。
「はいはい、待ってますよ、ご主人様」
「戯言でも、譫言でもないぞ」
 笑みに紛れて茶化し掛けた佐助の思惑を一刀両断にして、幸村は佐助の左手首を掴んだ。そのままぐいと引かれるままに、受け身一つ取る様子なく滑るように落ちた躯を、二槍を操る腕が軽々と抱き留める。
 子供を抱く様に腰と膝裏を抱えて間近の顔を仰ぎ見た幸村に、佐助は眉を寄せ、それから幾度目かの溜息を吐いた。
「あんたが冗談なんか言う質じゃねえってのは、判ってますよ」
 うむ、と頷き、それから幸村は、抱き上げた佐助の胸に額を押し付けるようにして暫し黙った。
「………佐助」
「はい、なあに?」
「……このまま、お前を連れて甲斐へと戻れば、甲賀の里から文句が来るだろうか」
 此の主が寂しさを露わにするのも珍しい、と佐助はぐるりと目玉を回して暫し考えた。それから、とんとん、と主の背を叩く。
「旦那、下ろして」
 そっと童でも扱う様に下ろされ、地に足を付けて佐助はふう、と首を回した。随分と落ちた体力では、終盤に差し掛かった旅の疲れなどなかなか取れない。
「あのね、別に里は無理に戻って来いなんて、言わないよ。出る前に言ったと思うけど、此れは俺様の意志なの」
「聞いた。だが、」
「里でね、子忍びを育てようと思ってんの。後々には真田の忍びになる子等だ。あんたの子飼いの連中だよ」
 へへ、と笑い、佐助は肩を竦めた。
「俺様ってほんっと、働き者だよねえ?」
 幸村は答えず、ただ腕を失った肩の骨だけがせり出た右肩を掌に包んだ。じわりと熱が滲みる。
「………迎えに行くぞ」
「はいはい」
「お前が厭だと言っても、貰い受けに行く」
「何言ってんの。元々あんた、俺様の意見なんか聞いちゃねえでしょうが」
 戯けた物言いに馬鹿者、と笑い、幸村は佐助へと背を向けた。甲斐を発って以来度々繰り返して来た押し問答にも疲れたのか、文句の一つもなく背へとさほどでもない目方が掛かる。
 揺すり上げて背負い直し、幸村は歩き出した。佐助が軽く口笛を吹くと、何時から付いて来ていたものか、ばさと舞い降りた大烏が鞍の上へと止まり、手綱を咥え、幸村に付いて馬も歩き出す。
「今日の宿は、飯が美味いそうだ」
「あんた、そればっかね。俺様は風呂に入って、いい布団で寝れりゃあ、それでいいや」
 先遣りに向かわせている忍びから今朝のうちに聞いていた宿の話をしながら、佐助は広い背に凭れてちくちくと髪が頬を刺す頭に顔を寄せ、ふいにやって来た疲れが連れた眠気のままに、ゆるりと瞼を閉じた。

 
 
 
 
 
 
 
20080326
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