ときあかり

 
 
 
 
 
 

 豊臣秀吉、堕つ。
 
 その頭角を現す前に没したと言う正妻の死後妻を娶らず妾も持たず、色も好まぬ英雄であった秀吉の死は、事実上豊臣家の滅亡を意味した。豊臣の志を誰より理解し後継者足る者であった軍師は、もうずっと以前に志し半ばにして病に倒れ、帰らぬ人となって居る。
 そんな豊臣を、客将ながらも長らく助けた幸村を、志を継ぎ、天下を、と請う者も無くはなかったが、しかし大半は、最早豊臣は此れまでと、新たな主を求め、速やかに大阪城を去った。
 主様、と背に掛かる声に、無言で頷き幸村は月を見上げた。もう誰も登らぬ天守に、火の気は無い。此の城は、最早守るべき者を無くした。
 ゆるりと吹き込む風は冷たい。その夜風に頬を撫でられながら、幸村は目を細めた。
 
 信玄が病に没したその時、まるで憑き物が落ちたかの様に、彼れ程までに夢見た上洛が、天下が、霞となって失せたのを幸村は呆然と受け止めた。止めどなく溢れる涙も止まってみればもうどれだけ振り絞ろうとも一滴も零れず、喉よ裂けろとばかりの慟哭も、すっかりと衝動を失ってただ、此れより先にあるのは安穏とした、諾々と生を消費するだけの、そんな人生なのだと何とはなしに悟り、大儀であった、新たな主を探せと、仕えてくれた忍び達を解放した。真田隊の兵は皆上田に帰し、兄の命を仰ぐ様申し付けた。
 それでも残った幾人かの忍びの中に、当たり前の様に、生きるも死ぬも自由にならぬ忍びの身でありながら、何処か気儘に流れる様な幸村の忍びも混じっていて、それが首を傾げて、止めるの、と訊くものだから、幸村は豊臣の軍師の、流麗な筆に目を通す気になったのだった。
 佐助は止めるなとも止めろとも言わなかったし、此処で止しては師の教えも、今まで死んで逝った者達の命も無駄になるといった様な、聞き飽きるほどに聞いた説教もしなかった。幸村の思い起こせる彼の時の佐助の様子と言えば、その、幸村を再び戦場へ招いた一言だけで、他は何も、憶えていない。
 ただ、豊臣に招かれるが、来るか、と訊いたその時の、お供しましょ、と薄く笑った顔だけは、妙にくっきりと、白く切り取られた様に憶えては、いる。
 
 主様、と、再び、彼の頃はまだ幼い程に若かった、佐助と共に幸村に付いて来た幾人かの一人であった忍びの声が掛かる。幸村はうむ、と今度は声を出して、頷いた。返す声はなく、つと気配が近付いて、失礼致す、と低く囁いたかと思えば羽織が肩に掛けられる。
 夜風が躯に触ると、そんな心配をされる様な歳になったかと低く笑っても、忍びは何も言わなかった。
 
 佐助が死んだのは、もう大分前になる。豊臣に招かれて僅か二年、敵大軍に囲まれた幸村を庇っての、その遺骸を拾うも苦労するほどの、壮絶な死に様だった。
 結局最期の言葉を聞く余裕もなく、ましてや看取ってなどやれなくて、佐助の命を盾に長らえながらも瀕死の傷を負った幸村が、忍びの遺骸の様な物を手にしたのはひと月も後の事で、それも、たった一房、色の褪せた様に思える遺髪を手にしただけだった。
 それでも忍びとしては破格の扱いだとは判っては居た。本来なら無数の骸と共に捨て置かれただろう佐助の亡骸を戦場から捜し出したのは豊臣の兵で、それを命じたのは軍師だと言う。
 信玄亡き今、彼れが、唯一幸村を戦場へと突き動かす事の出来る者である事を、よくよく理解した上での事だろう。その事実がなければ、今幸村は此の城には居なかったのかも知れない事を考えれば、大した慧眼だと感服せざるを得ない。
 
 ゆるりと息を吐き、幸村は振り向いた。
「お前も、もう、去れ。豊臣は終わった。明日で、此の幸村も死ぬだろう。新たな主を探すも、野に下り直に訪れる太平の世を見るも、好きに致せ」
 今まで良く仕えてくれた、と言えば、端座したままの影は、僅かに俯き、やがてそっと口を開いた。
「主様が豊臣に招かれた際、是非とも共に、と請うた私に、長が命じた事が御座います」
「佐助が?」
 はい、と頷き、月明かりに照らされた顔は、目元以外を覆面で覆っている。その布の下の顔は、もう少し若い時分の幸村に、遠目からでは判らぬ程には、似通っている。
「お前が、おれに似ているから、連れて来たのではなかったのか」
 いいえ、と頭を振り、忍びは僅かに目元を弛めた。幸村を慕って、と言うよりも、技の冴える、それで居て面倒見の良い、彼の忍びを長と慕って付いて来た、その内の一人だ。
 忍びは、低く囁いた。それでも途切れず幸村の耳に届くそれは忍び独特の発声法だが、佐助が、そうして忍びの声で、幸村と話す事は、ほとんどなかった。
「お前は忍びには向いていない、大した力は得られぬだろう。だからお前には厳しい任務は渡さぬし、極力戦場にも出さぬ。無論劣る分、人一倍の修練は積んで貰わねば困るが、しかしお前の最も重要な任務は、死なぬ事と思え。お前の取り柄は丈夫な躯と若さゆえ、病や怪我を得ぬ様心して生き延び、誰が死のうが何処へ流れようが最後まで、主様のお側に仕えよ、と」
 
 ───俺は旦那より先に死ぬからさあ
 
 ふいに苦笑を含めた様な声が耳の奥に鮮やかに蘇って、幸村は言葉を失った。
 無言の幸村の前で、忍びは手を付き、深々と頭を下げる。
「明日の戦、主様の影として、長の言葉通り最期まで、見届けとう御座いまする」
 己の失われた後の幸村を案じて、しかし案じるだけでなく、こうして目と守りを残していた事を、今の今まで、知らずにいた。
 幸村は胸元を撫でる。何処で知ったか、佐助が死に、遺髪を手にして間もなくに、未だ床にある幸村の前へと弔問だと押し掛けた前田の風来坊が、仏頂面で寄越した空の守り袋に入れた橙色のそれが、首からぶら下がっていた。六文銭の代わりに下げたそれは、特に守りのつもりは無かったが、けれど結局の所、そう言う事になってしまっていたのだろう。
 今もってして安らかにさせてはやれて居なかったかと、幸村はほろ苦く笑い、二度、ゆっくりと頷いた。
「良い、許す」
 半分顔を上げた忍びは、再び深く頭を下げた。幸村は腕を組み、月を見上げた。
 朧な月は流れの速い雲の合間に見え隠れして、明日は雨か、と呟くのに、控えた忍びはただ黙した。

 
 
 
 
 
 
 
20070329
おかんさすけを考えていたら逸れた