冬場の狐は寒がりだ。
そう言えば旦那があったか過ぎるんでしょ、と呆れられるがもこもこに毛を膨らませて丸まった毛玉が更に震えながら眠っているのを見れば気の毒にもなって、初雪がちらついた日から福寿草が覗く日までの間、共に眠る様になったのは未だ己の躯が狐とそう変わりのない頃だ。
今ではすっかりと大きさは違うから、伸ばした前足の合間、胸の辺りに狐を抱え込んで寝る。背な毛を逆立てる鼻息が気になると寝入り端は煩い狐も、虎の厚い皮の下の脂の熱が心地良いのか、やがて背中ばかりを静かに上下させて眠る。
その毛玉を抱えて眠る己も温かいものだから良く眠れて、師である大虎に半ば本気で羨ましがられた事もある。しかし佐助を貸すよりも己が共に居た方が温かいと思ったからそう切り出してみたが、すげなく断られてしまった。何とも寂しい。
「大将の気持ちも判るなあ」
そう言って苦笑した佐助に意味を問い質しても曖昧に誤魔化されて、結局何故断られたのかは今でも判らないままだ。
その晩も首を傾げながら、幸村は佐助を抱え込んで寝た。
昼に小川を堰き止めていた木々を退かして縄張りを歩き、ついでに足を伸ばしてそろそろ福寿草の咲く辺りを覗きに行って、疲れた幸村は直ぐに深い眠りに落ちた。掘った雪の下に福寿草は蕾を膨らませていて、だから明日からは、次の冬までの間また別々に眠る。
佐助が居なくとも寒さで震える事はないが、此の温かでいつでも綺麗に毛繕いしてあるふわふわの毛に、顔を埋めて眠れなくなるのは少し残念だ。
夢心地のまま、抱えた毛玉に顔を押し付けて、鼻を鳴らしてにおいを嗅ぐ。獲物を狩り、食事を済ませた後には念入りに臭いを落とす佐助の躯からは、腥い臭いはほとんどしない。冬の最中でも、まるで日光浴でも済ませた後の様な、柔い匂いが和毛の合間に空気と一緒に蓄えられている。
美味そうだな、と他意なく思う。
幸村は狐の肉が好きだ。武田配下の森の狐は勿論、他の縄張りの獣でも、狩りではなく、争いの果てに死んだ者の肉だとしても、狐の肉だけは絶っている。佐助は気にしないと口では言うが、それでも幸村の躯から狐の血肉の臭いがしては、良い気分はしないだろうと思うからだ。
だから、最後に狐を喰ったのはもう随分と昔の事だ。幼い頃、未だ己で狩りの練習を始めたばかりの頃に、自らよりも大きな狐を獲って食べた、それが大層美味かった。
すんすんと鼻を鳴らして顔を擦り付けていると、腕の中の毛玉が蠢いた。眠りを妨げてしまったかと顔を離すも、何事か呟いて耳でぱたぱたと幸村の鼻を叩く。
悪い夢でも見ているのか、と幸村はぞろりとその耳の後ろを舐めて宥めた。ざわりと逆立った毛を、此方も宥めて舐めてやる。
もそもそと伸ばされた躯に、未だ起きるには早いと掴まえて抱え直せば、熱い程に熱を持った腹がころりと晒された。幾ら主の前といえど、佐助が腹を晒す事などほとんどない。
鼻面を押し付ければ、呼吸に大きく膨らむ柔い腹の毛が柔らかく湿って、酷く心地が良かった。良い匂いがする。
ぐるぐる、と心地良く喉が鳴る。幸村は柔らかな腹の毛を舐めた。ぐにゃぐにゃと皮が動く。溜まった皮を甘噛みすれば、きゅうん、と小さく鼻を鳴らす音が聞こえた。
甘えた様な心細げな声に、幸村は鼻を擦り付けて舐めてやった。細い前足が震えて、ぺち、と髭を弾く。
「佐助」
名を呼んでその肘を軽く咥えれば、ひゅうん、とまた心細げに鼻を鳴らす。
幸村は狐を前足に抱え込み、馴染みの匂いを嗅ぎながら何度も毛並みを舐めて宥めてやった。
朝の眩しい光に薄目を開けて、爪を立てずにしっかりと抱えていた腕の中を見遣ると、べったりと濡れた毛に随分と痩せた様に見える狐がひんひんと鼻を鳴らして泣いていた。
「佐助?」
どうした、と首を傾げて大欠伸をすれば、耳を伏せたまま涙目が幸村を見上げてばたばたと暴れる。
「旦那の馬鹿ぁ!!」
何だどうしたと腕を弛めれば鼻先で怒鳴られて、首を竦めた隙に佐助は耳を伏せ、尾を丸めたままぴゅうと寝床から逃げ去ってしまった。
「さ、佐助?」
驚いて立ち上がり、ぶるりと身を震わせて幸村は寝床を飛び出て狐を追った。
「来ないでよ!!」
「ならば訳を言え! 何故逃げる!」
「寝惚けて俺様喰おうとしといて、何言ってるの! 逃げるに決まってんだろー!!」
うわあん、と泣きながらぴょんと藪を飛び越えた佐助を追って、幸村は低木をばりばりと踏んだ。
「喰おうと等しておらぬぞ!」
「嘘! 美味そうって言った!!」
「そ、それは言うたかも知れぬが」
「やっぱり喰おうとしたあ!!」
「しておらぬ!!」
「それにかじった!」
「そ、それは」
佐助の逃げる方向を察し、幸村は僅かに足を弛めた。顔を上げれば、此の森の中で最も立派で最も居心地の良い洞穴から、のそりと大きな虎が姿を現した所だった。
「助けて大将!」
くわ、と欠けた所のない太く大きな牙を剥き出して欠伸をした、幸村よりも遙かに怖ろしげな巨体にぴょんと飛び付いた佐助に、信玄は面食らった様に足を踏み換え、それから幸村を見た。
「なんじゃ、どうした。朝っぱらから、幸村が何ぞやらかしでもしたか、佐助」
「お、お館様! そっ某は、何も」
「旦那が寝惚けて俺様の腹かじったあ! 喰われちゃうよ!」
旦那は狐が好物だから、とすんすんと甘えた声を出して信玄の腹の下に身を伏せる佐助に、幸村は慌てて駆け寄り、それから信玄の揺るがぬ視線に怯んで踏鞴を踏んだ。耳を伏せれば、幸村、と太い声が名を呼んだ。
「佐助の申す事は、本当か」
「た、食べようとした訳ではございませぬ! た、ただ、においを嗅いだだけでござる」
「嘘! こんな涎でべたべたになるまで舐めた癖に!」
「そ、それは、お前が震えておるから、宥めようとだな……」
「美味そうって言った!」
「お前の匂いは美味そうなのだ!」
「やっぱり食べる気だったあ!」
「ち、違う! お前だからかじってみたのだ! 食べたくてかじったのではない!」
「かじんないでよ怖いな! 美味そうで食べたくなったからかじったんでしょ!」
「ち、違う……その……」
段々と佐助の怯えを察して、幸村は口籠もる。幾ら言い募ろうが仔虎同士のじゃれ合いではないのだ。捕食される側からすれば、甘噛みだと言った所で味見以外には思えぬだろう。
こんな事で信頼を失うのか、としょんぼりと尾を垂れて項垂れれば、それまで黙っていた信玄が、唐突に喉を響かせて笑った。腹の下の狐がびくんと跳ねる。
「な、なに、大将。でかい声で」
「いや、可笑しくてな」
「笑い事じゃないよ! 俺様、旦那がそんなに狐が食べたかったなんて知らなかったよ!」
「幸村は別に、お主を喰いたい訳ではないぞ、佐助」
佐助は地に伏せたまま、信用出来ぬ、とばかりに疑り深く鋭い狐の目を光らせた。信玄はふん、と鼻息を洩らしながら腰を下ろし、腹の下に庇った佐助の背を鼻先で押した。
「幸村はな、お主に甘えただけじゃ」
「お、おおお、お館様!? 何を、そっ、某は」
「誤魔化さずとも良い、幸村」
「そ、某はもう大人にございます! こ、虎児では無いのですぞ! その様な」
「ならば、何故佐助のにおいを嗅いだ」
「で、ですから……その」
「独り寝が寂しゅうなったのじゃろう」
う、と言葉に詰まって意味もなく足を踏み換え僅かに後退れば、ぽかんとした佐助の目が幸村を見た。
「……何、旦那、そんなのでもぞもぞしてたの」
「ち、違うぞ、佐助……おれは、その」
「におい嗅いでて、ついでに腹が減ったんだ」
「い、いや! そうではないのだ! おれは単に、お前の毛が逆立っていたから、」
「かじっただろ」
「それは……甘噛みをしただけで……その……」
幸村は耳を垂れ、毛皮の下で真っ赤に血を上らせて、俯いた。
「その…………あ、甘えただけなのだ……」
ぽかん、と再び呆気に取られた佐助の襟首を、信玄が噛んだ。くると手足と尾を丸めて耳を伏せた佐助を咥えたまま、のしのしとやって来た信玄は、幸村の前に狐を下ろす。
「す、すまなかった、佐助……怖かっただろう」
「そりゃ、怖かったよ。もう絶対喰われるって思って……あんたの目が醒めた時、俺様が死んでたら、凄く困るだろうなって」
「さ、佐助……っ」
感極まってがばと飛び付けば、ぎゃ、と悲鳴を上げた狐がぶわと膨らんだ尾を立てた。
「痛ぇ! 重!!」
「お前が死んだら、骨まで残さずおれが喰ってやるからな!」
「ええっ、ちょ、怖い事言うなよ!」
「佐助え!! すまぬう!!」
ぐりぐりと顔を擦り付けて喚けば、笑って眺めていた師はさてとばかりにのそりと尾を返し、食事を獲りに向かった様だった。幸村はすっかり乾いてがびがびになってしまった毛皮に、ぐいぐいと顔を押し付けた。
「洗ってやるぞ、佐助!」
「いっ、良いよ、自分で洗って来るから」
「しかし、おれの責任だ!」
「良いってば、ほんと! 旦那は朝ご飯獲って来なよ。お腹空いたでしょ」
「お前も空いたであろう」
「俺様はあんたと違ってちょっとでいいの。だからさっさとご飯食べて、そしたらあっためてよ」
川の水は未だ冷たくて、そんな所で躯を洗っては寒くて病を引き込んでしまう、と執拗な頬擦りから逃れようと暴れながら言う佐助に、幸村は深く納得して、判ったと頷きもう一度ぐりぐりと顔を押し付けた。
「いい加減、離してよ!」
悲鳴の様な佐助の声を聞きながら、幸村は思う存分狐のにおいを嗅いだ。
20080121
エフェメラル
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