背中から抱え込んだまま、指示されるままに軟膏を塗り込め解して幾本かの指を潜らせ、肩口に顎を乗せて耳許で佐助、と呼べば何、と素っ気なくも思えるいらえが返る。佐助は俯き加減の顔を片手で覆い、時折肺から吐き切らない淀んだ息を追い出す様に、怠そうな溜息を吐いた。色気とはどうにも無縁だが、疲れた此の忍びが吐く普段の溜息と同じで、だから幸村は不満は無かった。
「……旦那」
ふと呼ばれ、何だと肩越しに顔を覗くと指の隙間から視線がちらりと向けられた。
「未だ、我慢出来る? 当たってんだけど」
「う、うむ」
「何なら、一回抜いてやるけど」
「否、大丈夫だ」
「あ、そう。んじゃ、もうちょい頑張って」
いい加減に言って腹を抱えたままの幸村の腕をぽんと叩き、佐助は再び掌に目元を隠して俯いた。時折詰まる息は、嘔吐を堪えている様にも思える。呻き一つなくただ息を詰め、溜息を洩らす佐助に幸村は眉尻を下げ、ゆっくりと蠢かせていた指をゆるゆると引き抜いた。
途端、微かに喉が鳴る。強張った肩の後ろに宥める様に鼻先を擦り付け、もう一度奥へと差し込むと、つう、と苦痛の声が僅かに鼓膜を叩いた。
「───に、やってんだ、俺」
弱々しい、泣き声じみた声に、僅かに湿った、それでも体臭のまだ湧かない膚に鼻を押し付けて目を閉じていた幸村は、ぱちり、とひとつ瞬いた。顔を上げて忍びの横顔を覗く。佐助は先程と同じく、俯き掌に目元を隠したままだ。
「佐助?」
ふっと、顎が上がり手が外れて、怪訝そうな目が顧みた。
「なに?」
己の洩らした呟きに気付いていないのか、とその目をじっと覗いて判断を付け、幸村は否、何でもない、と首を振った。それから未だ怪訝そうに見ている佐助をもう一度見詰めて、そっと額を寄せ唇の端に口付け、体内から指を抜き去る。
「だん、な?」
「すまぬ、佐助。やはり我慢が利かぬ」
「あー、はいはい、んじゃ、口か手か、」
「すまぬ」
白々しく苦笑を混じえたいつもの調子の声を半ばに、謝罪を繰り返して幸村は忍びの胴を掴みぐるりと返した。向かい合って胡座を跨がされ、佐助が見開いた目をぱちぱちと瞬く。
「ええ? ちょっと、未だ厭だって! 痛ぇのは勘弁って言っただろ」
「だから、すまぬと言っておる」
「あ……謝りゃなんでもいいってこっちゃねえだろ! あんたいつからそんな横暴に、」
ぐいぐいと肩を押し遣る手を其のままに、がっちりと胴を抱えたまま幸村は佐助の顔を見上げた。
「直ぐ済む」
「………あのなあ」
「もう暫くの辛抱だ」
「……否、別に、辛抱してるつもりはねえけど、てか、辛抱したくないから言ってんだけど」
「佐助」
背を抱き寄せて、どす、と頭を胸に付ければ、気構えが無かったのかうっと息を詰め、其れからそろそろと細長い指が旋毛の辺りの髪を掻き回した。
「すまぬ」
「謝んないで下さいよ。俺が、無理にあんたの言いなりになってるみたいじゃないの」
「無理はないのか」
「ないよ。厭なら厭って、断りますって。こんなの俺様のお仕事じゃねえもん」
俺はお小姓じゃないんだからね、と先程と同じような事を繰り返して、佐助は小さく嘆息し、立てていた膝を落とした。胡座の上に座り込む。
「俺が応えたいと思うから、して居る事です。旦那が気に病む事じゃ無いよ」
覗き込む目は宥める様で、幸村には其処に嘘も欺瞞も見出せなかった。
「すまぬ」
「だからさあ……」
「否、そうではないのだ。おれは、お前が厭がるかも知れない等、考えた事もなかった」
「はあ? 忍びだからって其処まで何でも有りじゃねえんだけど」
「ん、言い方が悪いか。そうではなくて」
首を傾げ、言葉を探して幸村は一つ唸った。
「……厭がるにしろそうでないにしろ、お前に我慢を強いる事になるとは考えても居なかった」
「我慢ってほどの我慢なんか、無いですがね」
「嗚呼、否、そう言う意味でなく………言葉に出すと違ってしまうな」
腰を捉えていた腕を背に絡めて肩に口元を埋め、ぎゅうと抱き締めて幸村は目を閉じた。
「お前がおれを好きだ等と、考えた事も無かった」
はは、と笑う声がする。
「そんなの、当たり前の事だからじゃないの」
「そうかも知れん。だが、改めてそう思えば、嬉しい」
そうですか、と少しばかり間の抜けたいらえが返り、其れから背に流れる髪を手持ち無沙汰に指が弄る。
「……それで、何か、変わったりでも、すんの」
顔を上げて目を覗く。普段は幾らか重たげな瞼に隠れる目は意外とぱっちりと開いて居て、其れを知って居るのはこうして間近で顔を覗ける者だけだろう。大して長くは無い、けれど多い睫が、濃く目を縁取る。
地味ながら、人形の様に整った配置で目鼻口が収められて居て、髪の色が派手だからと余り諜報に積極的では無い此の忍びが、実の所何にでも化けられる素地を備えて居るのだと、幸村は知って居た。戦忍で無ければ、死ぬ迄、誰にも何にも真の姿を悟られる事無く居られたのかも知れない。
「旦那」
「何も変わらぬ」
頷いて見せると、嗚呼そうそりゃ良かった、とにこりと笑って佐助は幸村の鼻の頭に噛み付いた。
「痛いぞ、佐助」
「嘘吐け、大して噛んでねえよ」
「生意気だ」
「いつものこった」
ならばこうしてやる、とえいとばかりに押し倒すと、くつくつと喉を鳴らして笑った佐助は両の腕を伸ばして幸村の首に絡めた。
「別に、あんたは俺の事なんか、なんにも考える事はねえよ」
「馬鹿にしておるのか?」
違うよ、とふと笑みを収めてじっと見上げ、それから佐助は僅かに目を伏せた。口元に、自嘲めいた笑みが走る。
「あんたの其れは、信頼だと思ってる。別に、俺の思い違いでも構わねえけど」
あんたの信頼は心地良い、と囁いて、再び見上げた目にはあからさまな誘惑が揺らめいて、幸村は僅かに首を傾げ、其れから覆い被さる様にして橙の髪の掛かるこめかみを噛んだ。
羽を広げた大鷲の様だと微かに笑って、佐助は硬く鍛えられた、けれど未だ未だ若くしなやかな肩をゆっくりと撫でた。
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20070126
文
虫
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