ふ、と意識が浮上する。頭の下に、肉の薄い、骨張った足の感触がある。
幸村はのろのろと瞼を上げた。まだ眠気が薄ぼんやりと頭の芯に絡んでいて、欠伸も出ない。寝起きはいいほうだからこういう状態は珍しくて、幸村はじっと動かぬままにぼんやりと視界に映る顎を眺めた。
佐助はにおいがしないなあ、と昔、まだ幼い頃に、そんなことを言って笑われたことがある。忍びににおいがあってどうすんのさ、と、忍びらしからぬ目立つ赤髪の年上の少年は、大きな口をにいと引いて表情だけで笑った。あまり声を上げて笑うということはしない少年だった。
においだけではないなあ、と、寝惚けた頭で幸村は思う。両手を腰の後ろに突いているのか少々身を逸らせ投げ出した足の腿に幸村の頭を乗せて首を捻り、佐助は開け放たれているのであろう障子の向こうから外を見ているようだった。表情は判らない。こちらに気付いているような様子はない。
けれどそれらは全て目から伝わるものだった。目を閉じればもう生き物の気配はなくて、躯が呼吸に動くこともなくて、ただ、それだけはどうしても止めることが出来ないというように、頭蓋の下で、けれど常人よりも遙かに微かでゆっくりとした脈が、ことんことんと打っているのだった。幸村自身の脈も低くゆったりとしたものだったが、この赤髪の忍びのものほどではない。
「旦那ァ、腹減ってない?」
唐突に、声を掛けられた。同じ姿勢のままで、声帯を震わせた分僅かだけ躯が揺れて、幸村はひとつ瞬き軽く首を回した。耳の後ろの骨に布越しに腿が当たる。
「……減っておらぬ」
「そう? でも夕餉まではまだあるから、なんかお八つでも食べる?」
「………いい」
目を閉じて呟いた幸村に、ふいに人の輪郭に浮かび上がった気配が首を巡らせて動いた。視線を感じる。先程までなら恐らく、見られていたとしても幸村には判らなかったに違いない。視線の気配ひとつさえ操ってしまう、そういうものになるために、どれだけの鍛錬が必要なのか、想像も付かない。
耳の後ろの骨に、ことんことんと脈が当たる。
「珍しいな、食い気より眠気? 昨日あんなに呑むから」
律儀に大将に付き合うからだよ、あの方お強いんだから、と笑みを含んだ声が言って、頬を擽っていた髪を細長い指が払った。さほど繊細でもない動きで、けれどほとんど幸村の皮膚には触れない、ただ髪だけを掬った指の気配は、しかしほんのりとした熱で伝わる。
「───あ、」
あった。もうひとつ。生き物の証が。
「………佐助は」
ん? と首を傾げるときと同じ声色でいらえが返る。幸村は小さく唇の端を吊り上げ微笑んだ。
「体温が低い」
「ま、肉ないしね」
「某も肉はないが、」
「旦那は鍛えてるから堅肉だろ。余計に体温上がるんだよ」
だからよく腹が減るんだって、と適当な口調で言って、畳に降りた手がざら、と僅かに藺草を擦って再び突かれたようだった。そう言うものなのか、と呟いて幸村は緩く閉じていた目をうとうとと瞬かせる。
「……ところで、何故膝枕なのだ」
「枕が見つかんなかったから」
「………押入に」
「勝手に開けるのもどうかと思って。畳にべったり倒れてるから何事かと思ったら寝てるだけだし、なにもないよりゃいいかと」
「そうか。世話を掛けた」
「何言ってんだか」
「子供のとき以来ではないか?」
「ああ? あー……そうかな、旦那が元服してからはないかもな」
幼い頃は泣き虫で弱虫で人恋しがる子供だったから、いつでも近くにいたこの忍びには、膝枕も添い寝も誰よりも多くしてもらった。
そういえば昔々のことではあったが、師匠であり主でもあるこの屋敷の主にも膝枕をさせたことがあったとふいに汗を掻く。膝の上に座り共に月見をしたこともあった。まったく、人恋しがるにもほどがある。なんとも無礼な子供であったと幸村はほとんど何の脈絡もなく反省した。
「なあ、旦那。今変なこと考えてたろ」
「かっ、考えてござらん!」
「そうかあ? まだ酒残って酔っぱらってんじゃねえの?」
「だから、考えてござらんと言って」
「だって心の臓がどっきんどっきんしてるぜ?」
なんかやらかして大将に怒られたときみたいだ、と笑う声に、幸村は瞼を上げて覗き込むその顔を見上げた。仕事か鍛錬かの手を休めて付き合ってくれているのだろうか、その顔には塗料でいつもの模様が描き込まれていた。
急な襲撃の際などに、泥を使ってでも必ず同じ位置へと入れるその印になんなのだと問うたときに、こうしておけば万が一逆光でも、多少なりとも眩しさを緩和出来るのだ、と言った佐助の目は、茶の様でいて僅かに赤い。夜目の利く目は強い光の前では、ほんの僅か、衰えた。そのほんの僅かが命取りになる、それが影の仕事なのだろう。
「胸の音など聞こえるのか?」
「なんとなくな。それに今は足の上に旦那の頭乗ってるし。大体旦那だって、槍持って振り回してるときなら、相手の息も脈も判るだろ」
「ああ……」
そうでござるな、と、戦いに際してなどいなくとも判るとは言わずに曖昧に答えて、幸村はしばしぼんやりと己の忍びの顔を見上げた。
「どうしたよ、惚けて」
「………においがしないと思って」
「ああ? またその話。」
小さく呆れたように肩を竦め、前にも言っただろお、と佐助はかくんと頭を後ろに倒した。反った顎の下が見える。
「忍びがにおいがあってどーすんだっつーの。ガキのときと変わんないな、あんたは。おんなじこと訊きやがる」
「なんでにおいがないのだ」
「俺様肉食わねえもん」
は、と呟いて幸村は目を泳がせ記憶を探った。あまりよく覚えてはいないし共に食事をすることもさほど多くはないから確実とは言えないが、そう言えば野菜や穀物の類しか口にしているところは見たことがなかったかもしれない。菓子は食べるようだが、それでも幸村や信玄が食べている横で、茶だけを啜っていることのほうが多い気がした。
「………肉を食わなければにおいがなくなるのか?」
「それだけじゃねえけど、ま、その辺りは秘密な」
「忍びの技か」
「そ。門外不出ってな」
大変なのだな、と口の中で呟くと、不思議そうに幸村を見下ろした佐助の手が、そっと瞼に触れた。素直に閉じても、その温かくも冷たくもない掌は影を作ったまま、ゆるく目の上に乗ったままだ。
「ちょっと寝なよ、旦那。なんか寝惚けてんだろ」
「ああ……」
そうする、と呟いて、幸村はぷつりと外側への意識の糸を切った。眠気に誘われるままに暗い所へひゅるひゅると落ちて行く。
どれだけの鍛錬を積み、どれだけの苦労をして、この躯を保ち忍びであることを続けているのか幸村は知らない。聞いたところで判るはずもない。けれど忍びはそう生まれついていて、そういう生き方しか出来ないように育つのだと聞いた。けれど佐助はまだ少年の頃から忍びの里を離れて幸村の側にいて、それはもちろん鍛錬も修行もありはするからずっと一緒というわけではなかったけれど、それでも他の忍びほどに命あるだけのものに成るには俗世に触れすぎているような気がした。
けれどそれでも今のこの男は、幸村の知る限り、最も優秀な忍びだ。
そうなるように努力をしたのは佐助本人の尽力で、その尽力は自惚れでさえなければ、全て、この自分の力になるためなのだと。
そう思うと申し訳がなくて、けれど同時に堪えきれない笑みが胆の底から込み上げて、幸村は小さく喉を鳴らした。
これは某の忍びなのですお館様、と、初めて信玄に佐助を目通りしたときに鼻高々に紹介した自分を佐助は苦笑でもって眺めていたけれど。
そうか、いい忍びだ、大切にせよ、と頭を撫でてくれた大きな手のあるじは、きっと何もかも見通していたに違いないと。
やんわりと微笑を浮かべたまま寝息を立てている様に、どんな好い夢を見ているのかと佐助が首を傾げていたことなど、無論知るよしもない。
20061104
嘆き 笑う
文
虫
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