「だから言ったのに」
今日はいい天気だからと、外気が躯に障ると渋る小姓に開けさせた唐紙の向こうでいつの間にか縁台へと腰掛けていた仏頂面の風来坊に、信玄は臥したままちらと目を向けて笑った。
「何処から入った、前田の童っぱめ」
「あんたの弟子、大変そうだよ」
だから言ったのに、と繰り返して、慶次は片胡座を掻いたまま溜息を吐いた。傾けた頭につられ、肩へと乗っていた重たげな髪が、もさり、と縺れて落ちる。相変わらずの簪は、朱を塗り直したのかつやつやとしていた。
世の中が乱れに乱れる再びの乱世だからこそとでも言うように、慶次の姿は変わらず華美だ。いい加減に羽織る絹も、白虎の毛皮も一見変わらぬようでいて、新調されている。
「戦うことしか知らないなんて、間違ってる。何であんたも誰も、他のことを教えてやらなかったんだよ。こうなることは、あんたの事だ、よくよく判ってたんだろう?」
「そんな事を言いに、わざわざ甲斐まで参ったか」
「心配だったんだよ」
「幸村が、か」
「あんたもだよ」
ふ、と顰めていた顔を崩し、慶次は不安げに眉を下げた。土足のまま座敷のほうへと身を乗り出し、その外界の逆光に薄らと影になる顔で、信玄を見詰める。
良い男振りになった、と信玄は思う。益々腕も立ち、彼方此方の陣営から、誘いも掛かっているだろう。
戦嫌いのことだ、早々簡単に受けはすまいが、大して付き合いも思い入れもないであろう武田にまでたまたま苦労する幸村を見掛けたからと、わざわざやってくるほどのお人好しだ。此が付き合いの深い、例えば島津や徳川からの招聘であれば、悩みながらも槍を取るやもしれぬ。
何より、上杉から招聘が掛かったとしたなら
「なあ……病気、大丈夫か?」
「さて」
信玄はくつ、と小さく喉を鳴らして笑った。
「神仏のみぞ知る、と言った所か」
「死ぬなよ。真田の為にもさ」
「童っぱ。彼れを見縊るでないぞ」
信玄は幾分か真摯に、慶次を見遣った。
「此の武田を全て負って立とうというのだ、悩み苦しむは当然の事。平然と受け止めるようであれば寧ろ、儂は彼れを選ばぬわ。苦難を乗り越えてこそ、一人前の漢と言えよう」
「だけど、本当に辛そうだったんだ。あいつは未だ若いよ。あんたがいなきゃ」
「儂がおらぬでも、幸村はいずれ武田を負って立つ武士となろう。お主にどう見えておったかは知らぬが、儂は彼れを甘やかし放題にした覚えはないぞ。儂の教え、全てその胸に刻んでおるのであれば、足りぬものなど何一つ、ない」
慶次は苦々しく沈黙した。
「………死ぬ気か?」
「さて……しかし甲斐の虎の命、喩え神仏といえどもそう易々と狩れるものではないぞ。それよりも、お主」
信玄は小首を傾げる童顔に目を細めた。
「……此の乱世、如何生き抜くつもりだ」
「如何……て、なんだよ。俺には戦なんか、関係ないよ」
「なれば何故今、此処におる。何処で幸村を見た? 戦場であろうが。お主、相も変わらず戦見物と称し、天下の動きを見て回っておるのか?」
「そんな大したもんじゃないって。単に……喧嘩は、楽しいからさ」
「お主の友の命が火種とあってもか」
慶次は再び黙った。唇を噛むかと見ていれば、ちらと視線を落としただけで、すぐに上げられた顔には笑みさえ浮かぶ。
妙な所ばかり老成したな、とその笑顔に信玄は小さく嘆息した。
「秀吉は関係ないよ。それに、家康は友達だぜ? 俺が三成に付いてあいつと戦うなんて、そんなこと言ってるんじゃ、」
「上杉は西軍に付いた」
慶次は小さく息を呑んだ。信玄は天井を見上げ、ゆっくりと瞬く。
「………お主、軍神と盟約があるのではないか」
「盟約なんて、そんな大層なもんは」
「上杉を頼むと、言われてはおらなんだか」
「───戦をしろなんて言われてない」
「そうであろうな」
彼れはお主を愛でていた、と呟き、信玄は深く息を吐く。胸から上る苦い息は、薬の味であろうか、病の毒であろうか。
「……何処ぞへでもゆけ、童っぱ。下界は戦火に乱れておる。しかし直に、平和な世も訪れよう。少しばかり現世を離れ、隠遁しておれ」
でなくば見たくもないようなものばかりを見る、と囁いて、信玄は本格的に目を閉じた。
虎のおっさん、と途方に暮れたような声が呼んだが、信玄は応える事も出来ず眠りに落ちた。
20090928
初出:20090726
けいちゃんは武田のことはどうでもいいけど見掛けたらほっとけない
強いていうなら慶→館
文
虫
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