賤の田長の羽を摘む

 
 
 
 
 
 

 とすとすと、図体の割に小さな、有り体にいって元気のない足音が耳に届いた。いつもならばどすどすと威勢良く廊下を踏んで家人に叱られる甥っ子のものだろう。他にこの屋敷には大変に軽い足音しか立てないまつと、まつ曰く甥っ子そっくりだというどすどすとした音を立てるこの自分と、数人の家人しかいない。家人もとすとすと優しげな足音しか立てないが、けれどこの元気なくとも遠慮もない足音は甥っ子のものだろう。
 案の定、ばし、と手入れがよく滑りのいい襖を開けて(きっとまた後で屋敷が傷むと家人に叱られるのだろう。利家もよく叱られる)ぺたぺたと裸足で畳を踏み、背後にどた、と座った気配がした。しばし逡巡した気配があり、それからへた、と丸めた背に寄り掛かられる。
 またでかくなったなあ、と考えながら利家はそのまま自慢の得物を磨き続けた。研ぎ師に出さねばならないが、その前に手ずから磨いておかねば気が済まない(研ぐことだって、本当は自分でやりたいのだ。皆が挙って止めるから、仕方が無く本職の元へと出しているだけで)。
「………利」
「なんだー?」
 明朗快活を絵に描いたような甥っ子の、萎れた声に利家はそれでも手を止めず、ゆっくりと槍を磨く。呼んだ切り甥っ子はまた黙ったままだ。
「……魔王さんってさ……」
「信長様かー?」
「うん」
 こくんと頷いたように、くっついている背が揺れた。猫の腹のように温かい背は大きくともまだ子供で、着物越しに、利家の裸の背にこりこりと背骨が触る。ぐんぐんと背は伸びていてその図体と奔放な仕種に合わないのかこう言えば皆怪訝な顔をするが、慶次はまるで猫のようだ。体温も、ぐりぐりと肉の下で動く背骨の感触も。
「信長様がどうかしたのか?」
「うん。……魔王さんってさ、そんなに酷い奴かい?」
「酷い?」
 うん、そう、と頷いたように背が揺れて、首の後ろを逢髪がさわさわと擽った。利家は首を竦めながらちらりと肩越しに甥っ子を見遣る。
「誰かに何か言われたのかー?」
「……………」
 沈黙は答えたくない証拠。
 利家はそうだなあ、と胡座の上に槍と手を下ろし、目を上げた。開け放した障子から庭が覗く。その向こうの景観は立ち上がれば美しくなだらかに広がるが、ここからでは空しか見えない。薄青い中を、鳶がくるくると飛んでいる。
「厳しいお方だぞ」
「………うん」
「だが、偽りのないお方だ」
「…………」
 暫しの沈黙の後、もぞ、と背が動き懐くような仕種で振り向いた甥っ子が肩越しに覗くように利家を見た。本当に猫のような甘え方をするなあと考えながら何気なくその顔を覗いて、利家は大きく目を瞠る。
「慶次? どうしたんだ!」
 何が? と首を傾げる様は変わりなく無邪気だというのに、青醒めたいつもは血色の良い顔も、うっすらと浮いた目の下も隈も、何よりもその、ぽかりと穴になってしまったかのような、平坦な目も。
「何かあったのか! 誰かに苛められたのか?」
 子供の喧嘩に大人が出て行くなど馬鹿げたことではあるし、勿論慶次もそんなことは好まないが(生意気にも一端の粋人を気取って、『無粋』だなどと言う)、けれどこの甥っ子にこんな目をさせるような喧嘩がただの喧嘩の訳はない。
 そう言えば、どことなく煤の臭いがする気がした。土の青い匂いも。
 利家は畳に槍を置き、慌てて甥っ子の肩を掴み頭から足まで眺めた。怪我はないようには思える。先程の足音も、元気はなくとも乱れはなかった。
 利家は眉を下げた。
「怪我はないか? 腹は痛くないか?」
「平気だよ。どうしたんだよ、変な利だな」
「飯はどうした? 食ったか?」
「大丈夫だよ」
「大丈夫には思えん! おーい、まつー!」
「本当に大丈夫だよ、利! 減ってないよ!」
 慌てて両手でぱし、と口を押さえてきたその掌がとても冷たい。利家は再び驚いて慶次を見た。騒ぐのを止めたのに気付いたらしい慶次は、ほっと肩を上下させて手を下ろす。その手が畳に落ちる前に掬い上げると、怪訝な顔をされた。
「利」
「変なのはお前だ。隠し事はなしだぞ、慶次」
 ごしごしと、冷たい手を擦ってやると慶次は困ったように小さく首を傾げたまま為すがままでいる。
「………何にも隠してないよ」
 誤魔化しの言葉は嘘を吐きたい証拠だ。隠し通したい証拠だ。探って欲しくないと、心配させたくないと、けれど本当は知って欲しいと、そんな心根の優しい葛藤が言わせた偽りだ。
 利家は慶次の目を覗いた。無邪気で優しくて曇りの無い目が、曇るを通り越して、今は真っ暗だ。ざんざんと雨が降って仕舞えばいいのに、それもまた乾いたっきりだ。これでは晴れない。
 けれど変なところで頑固なこの甥っ子に(恐らくは、今よりもずっとずっと幼い頃に親を亡くしてしまったことや、そんな幼子の膚にもちくちくと刺さるお家の中での騒動や、利家に当主のお鉢が回りその自分の元へと落ち着くまでの慌ただしい環境が、屈託のない彼に妙な頑迷さとお家嫌いを植え付けたのだろう)、幾ら問い質した所で結局は己のしたいようにしかしてくれないのだろう。
「慶次ー」
 ぱちくり、と素直な目が瞬いた。利家は真剣にそれを見詰める。
「いつでも、某はお前の味方だからな」
「………まつ姉ちゃんに叱られてるときも?」
 うっ、と言葉に詰まりうろうろと視線を彷徨わせて、利家は口の端を引き下げた。
「ずっ、ずるいぞ慶次! それとこれとは話が別だ!」
「ははっ、ごめん」
 知ってるよ有難う、と笑って、甥っ子は掌の中からそっと己の手を引き抜いた。のそり、と立ち上がる。これからまだまだ背が伸びて、どんどん厚みが付いていくはずの、今は未だ細くしなやかな影。
「じゃあ、ちょっと出掛けてくる」
「おいこら、慶次。たまにはちゃんと家にいろ。この間もちょっとと言った切り戻らないから、探しに行こうかと思っていたところだったんだぞ」
「子供じゃないんだから」
「なら尚更だ。お前もそろそろなあ、お家のために」
「その話は後で! じゃあな、利」
「あっ、こら待て慶次!」
 表情だけは晴れたふりでへへっと笑い、どたどたと部屋を出て行った甥っ子を廊下に躯半分はみ出して見送り、利家はうーん、と唸った。
 あと数年もすれば、あれは猫ではなくなるのだ。虎か、狼か、獅子か、鷹か。
 願わくば曇り無く、野生のままに野を駆ける、そんなものになって欲しい。誰ぞに下手な足枷など付けさせたくはない。
 
 
 槍の手入れも途中のままにごろごろと畳に懐いて、利家は結局まつにも何も言わずにただ慶次を行かせてしまったことを叱られた。
 慶次のことならまつにも関係がありますのに、と、影でこっそりと洩らしたまつの言葉など、無論利家は知らない。

 
 
 
 
 
 
 
20061106
しずのたおさ/しでのたおさ/ほととぎす
子で子にならぬ時鳥