白の欠け眼

 
 
 
 
 
 

「三成、まだやっていたのか?」
 建前はどうあれ、実際のところは十万の三河武士の牽制のための人質に違いない己が一番風呂をもらうわけにはいかないと、足軽たちと共に遅い風呂を済ませて戻った家康は呆れた声を上げた。部屋に居座った普段は何事にも執着のない友は、碁盤の詰め碁とじっと睨みあっている。
「解けないのなら明日竹中殿に参ったと言って解を教えてもらえばいいだろう」
「馬鹿を言うな。これは半兵衛様が私に出してくださった問題だ。解けなかったで済むものか! 半兵衛様を失望させるくらいなら死んだ方がましだ!」
「また極端なことを……軍師殿はお前のそういう生真面目なところをからかっておられるのだと思うぞ?」
「貴様の浅慮な頭であの方のお考えを断じるなど不敬にも程があるぞ、家康!」
「そういうつもりはないがなあ……」
 半兵衛との付き合いなら三成よりも家康の方がずっと長い。家康はけれんの強い皮肉な口調で鎧ったあの男の稚気を知っている。家康は遠い目をした。忠勝を欲しがった半兵衛に誘拐され、苦手なくすぐりで散々に笑わされたのは忘れられない思い出だ。
 とはいえ、あれで本気で忠勝が豊臣に下ると考えたわけではないだろう。あの頃忠勝を欲しがる国は多かった。その中に豊臣もいるのだと、それを示したに過ぎない。
 家康がまだ幼君であったせいもあるだろうが、半兵衛は忠勝が納得した上で豊臣に下ることを望んでいた。力づくで従えたところで被害甚大の戦をした挙げ句に戦国最強を不穏分子として抱えこむことになる、その危険をよくよく判った上だろう。
 現在は織田が滅びた後天下統一に乗り出した豊臣に敗れた徳川ごと、半兵衛は忠勝を手に入れることには成功した。ただし不穏分子には違いない。忠勝は三河と家康の守護神だ。家康に反旗を翻す気はないが、この己の号令一つで牙を剥く可能性は残している。結局秀吉のものとはならなかった忠勝を、半兵衛は強かな仮面の下でいつでも警戒している。
 しかし忠勝ほどの忠臣を疑いの眼差しで見られるというのも気分がいいものではない。半兵衛は胸を裡をなかなかには覗かせぬ人間だが、此の豊臣の王である秀吉は彼を誰よりも信頼している。また言葉少なでいて、右腕たる軍師を誰よりも理解しているのも秀吉だ。半兵衛の疑念は秀吉に伝播し、さすれば豊臣の兵は、忠勝を疑いの眼で見るだろう。
 豊臣は徳川のように上も下もない一致団結の軍ではないが、王たる秀吉の号令一つで白も黒となる軍だ。徳川に非がなくとも、秀吉が否と言えば鍛え上げた長槍の穂先は、揃って此方を向くだろう。
 半兵衛はどうか知らないが、少なくとも秀吉は徳川を信じていない、とうっすらと眉を顰め、家康は碁盤と向き合う三成の向こうに敷いてあった布団へと歩み上掛けを捲った。ふわあ、とひとつ欠伸をする。
 豊臣に来てから出陣の回数は爆発的に増えた。徳川を使い潰そうとしているのではと初めこそ懸念はしたものの、どうもそうではないらしい。圧倒的な力を見せつける戦ぶりを信条としている故か、豊臣は仕掛ける戦が多いのだ。その上天下を総べようとしている今だ、あちらから仕掛けてくる軍も多い。
 その上昼は昼で朝から晩まで忠勝や皆に付き合ってもらって鍛錬を重ね、近頃は夜も節々が熱を持ち酷く軋んで眠りが浅い。ずっと豆狸だとからかわれる程の短躯であったのにここに来て急激に伸びているそのせいだと医者は言うが、それにしたって痛いものは痛い。
「おい、家康。付き合え」
「勘弁してくれ、明日も鍛錬だ。お前も寝たほうがいいぞ、三成」
「まさか寝る気か貴様」
 まさかも何も、普段なら疾うに布団の中にいる時間だ。こんな時間に三成がここにいること自体が珍しい。何の因果か時折褥を共にすることもあるが、そのときには大抵家康のほうが三成の部屋を訪れ、深夜に温い風呂を借り、それから自室へ戻ってくる。三成はその頃には夢の中だ。別に待っていてほしいなどと思ったことはないが、ちょっと不公平な気もしないでもない。
 しかし体力のある無しで言えばどう見ても己のほうが頑丈なのだし、寝不足で倒れられても困るとそのあたりはもう大分前に諦めた。三成らしいといえば、らしい。三成は媚びるような気の遣い方はしない。
 無論共に朝日を拝むなどといったむず痒い事態に陥ったことはないし、そもそもそういう関係でもない。いつだったか三成を庇って傷を負った後に怒鳴られ詰られ気が付いたらそういうことになっていた、というだけだ。
 何故そういうことになったのかは家康にもよくは判らないが、戦の後で互いに少しばかり興奮していたのかもしれない。
 以降時々、触れ合い躯を重ねることがある。下になることは断固拒否されてしまったからこちらが受け入れるばかりだが、別に出せればどちらでもいいような気がするからまあ不満はない。第一、過保護な家臣に囲まれ育った家康は花街にも足を踏み入れたことはないし、人質生活ばかり送っていたため耳年増ではあっても女など知りそびれたままだ。無論小姓を抱く機会もなかった。右も左も解らぬ身で誰かを抱こうなどと、どうしていいか判らない。
 そんな話を三成にしてみたら、女も抱けぬなどどこで気を逃がすのだと怒られてしまった。女に興味はないようだが、体調管理の一貫として女中を呼ぶことくらいはあるらしい。少し意外で恋人はいるのかとどこぞの風来坊の真似をして訊いてみはしたのだが、くだらんことを訊くなとまた怒られた。
 慶次の言を真似するつもりもないのだが、恋人でも妻でもない女と躯を結ぶ、というのが理屈は判っても理解が出来ない。三河の皆に愛妻家が多いせいかもしれないし、まだまだ己が童であるからかもしれない。
「おい、起きろ家康! 人が訪ねて来ているのに寝るなど無礼にも程がある!」
「………わしのことは気にせず、勝手にやっててくれて構わんぞ。放っておいて寝せてくれ。今日は少し眠れそうだ」
 怒鳴る三成に背を向けもぞもぞと布団を躯に巻き付けて、家康は疾っくに重くなっていた瞼を下ろした。風呂上がりのせいか全身が程良く温かく、節々の痛みもない。久し振りに朝までゆっくり眠れるかも知れない。
「………何をするんだ」
 そう思ったというのにばりっと布団をはがされて、家康は眉をハの字に下げ仁王立ちの友を見上げた。
「貴様……私を無視して寝入ろうなどといい度胸だ」
「無視なんかしてないだろう。布団を返してくれ」
 伸ばした手が布団を掴む前に、ひょい、と避けられて家康は溜息を吐いた。そのまま鋼のような筋肉の下には骨しかないような引き締まった腕を握る。
「おわっ!?」
 余程想定外だったのか珍しく妙な声を上げて倒れ込んできた素早さが売りの男を隣に引きずり込み、家康は一重の裾が乱れるのも構わずに手足を絡めた。こういう時には伸び始めた手足が有り難い。少し前の己では三成を押さえ込むなど無理だった。
「な、何をする、離せ!!」
「今夜は此処で寝ていけ、三成」
「冗談だろう!?」
 冗談じゃないぞ、と目の前の端正な貌が崩れるのも厭わず獣のように歯を剥く男を真顔で見詰め、家康はぱたりと瞼を閉じた。布団は剥がされたままだが、人一人抱え込んでいるためか寒くはない。
 なるほど三成では抱き心地がいいとは言えぬが、見るだに柔らかな女を抱いて眠ればそれは気持ちがいいのかもしれぬ、と考え、家康は顔の真ん前で離せ寝るなと騒いでいる男の声を子守歌に、速やかに眠りへと落ちた。
 
 
 
 
「おい………家康」
 本当に寝てしまった、と怒りに沸騰する頭を抱えたまま絶望的に呟き、三成は握りしめていた布団を手放した。がっちりと絡んだ四肢は成長途中の肉付きで、日々太くはなっているもののまだまだ骨が柔らかだ。褥を共にした際も僅かな転た寝の合間に痛みに呻いて目覚めることもあったから、めきめきと伸びている躯が痛むのだろう。
 なるほど道理で近頃欠伸ばかりしている筈だ、と眉を顰め、痛むならば医師に薬でも処方させるべだろう、と寝ている男に再び憤る。
 一見暑苦しいように見える家康の躯は実際に抱けば程良く温かだ。大して温かくもないと思っていた己の躯も、家康に言わせれば共寝をするには心地よいらしい。他人と比べたこともなかったが、冷血と囁かれる己の血も、さほど冷たくはなかったらしい。
 三成はそろりと眠りに上下する家康の背に手を置き、ゆっくりと撫でた。しばらくそうしていると、落ち着いた寝息が次第に小さくなり、やがて手足が弛緩した。
 普段は偉そうに説教などするくせに、無意識の部分での此の男は甘えたがりな童のようなところがあると三成は近頃学習した。半兵衛が飼い猫にするように柔らかに撫でると緊張が弛緩する。起きているときではくすぐったがるばかりだが、こうして寝ていればそれが顕著だ。
 なんとも危うい男だ、と項に指を触れくすぐると、家康は僅かに首を竦めた。擽りに弱いのは何も起きているときばかりではないらしい。
 その仕草にじわりと熱を感じぬでもなかったが、寝ている相手を転がし準備をしてやり犯すなど面倒過ぎる。
 三成は絡む四肢をどけ、少しばかり年下の男の腕の中から抜け出した。放っていた布団をぼそ、と乱暴に落とす。丸まった布団は家康の肩と頭ばかりを隠し、裾の乱れた下半身は剥き出しのままになったが寒ければ目覚めて己で直すだろう。大体頑丈な男だ、この程度で風邪は引かぬ。
 三成は碁盤に向き直り、灯火を引き寄せ再びその前に端座した。ちらちらと小さな火に照らされる碁石が光る。家康の私物だが、そういえば誰ぞに貰った大事なものだと言っていた気もする。壊してくれるなよ、と苦笑していた顔を思い出し、三成は小さく鼻を鳴らした。物などどれでも同じだ。それが秀吉から賜ったとでもいうなら別だが、そうでないなら等しく無価値だ。
 しかし今は、家康が碁盤を持っていたことは幸いだった。三成は碁盤どころか碁石の一つも所持していない。大谷に訊けば恐らく持ってはいるのだろうが、病がちのあの男に付き合わせるわけにはいかない。家康などと違って、夜はゆっくりと休んでもらわねばならない。
 三成はじっと碁盤と睨み合った。じり、と灯心の焼ける音に混じり、此の狭い部屋の主の小さなくしゃみが聞こえた。

 
 
 
 
 
 
 
20100927
初出:20100922

わかってる気になってるみつなりと実は全然わかられてないいえやす
いえやすさんのせっくすはスポーツの気がする
みつなりさんは家康とも女中さんとも実は結構真剣にお付き合いをしている
無論伝わってません