シ ャ イ ン

 
 
 
 
 
 

 人を殺めることが恐ろしくはないのですか、と問うたのは甘味屋で相席となった娘だった。幸村が武人だと見て私の従兄弟が戦に徴兵されて先だって戻って参ったのですがとそう言ったのだったか。
「あの子は変わってしまったのです。立派な躯をした頼もしい男でしたのに」
 今はただの乱暴者です。思う通りにならなければ暴力を振るうのです。おれは八人斬ったと威張るのですそれの何が偉いと言うのでしょう。
 それはいけないと思ったから、ならば某が行って諌めてやろうと言うと娘は驚いた顔をして、それから歪んだように笑った。
 御武家様はお優しいのですねと愚痴を零した非礼を詫びて、娘はそそくさと勘定を済ませ行ってしまった。
 某は何か悪いことを言っただろうかと佐助に訊けば、別に悪かないけど誰もがあんたみたいに清廉潔白でいられるわけじゃあないんだよと忍びは宥めるような声色で言って、それから心ここに非ずといった様子で席を立った。
「ちょっと気になるんで、あの娘を尾行てみます。忍隊の奴を護衛に付けておくんで食ったら勝手に帰って」
 どうしたと言えばそう答えるので、ならば某もと腰を上げ掛けると佐助は慌てて止めた。あんたみたいに気配だだ洩れのお人が居たらバレちゃうでしょと幸村の肩をがっしと掴んで止め、忍びはひらひらと手を振って勘定を済ませさっと店を出て行った。
 
 忍びはその夜遅くなってから戻り、番所に寄ってたんで遅くなりましたと前置きをして、娘の従兄弟とやらが疾うに殺されていた事を幸村に伝えた。
 袂から血と吐瀉物の臭いがしたんですよとやりきれないと言うような溜息を吐いて、娘は大人しく捕縛されたと佐助は小さく首を傾げた。
「余計なことだったか?」
「いや、人を殺めたのならば相応の罪であろう。放置は出来ぬ。小さな秩序の綻びでも見逃せば、積もり積もってやがて武田の威信に拘わろう」
 今は乱世、人の命の移ろいは早く実際この手も数多の命を奪っては来たが、それでも兵でもない町民が、戦場でもない場所で、人を殺めて構わないという道理はない。
「……縛り首になろうな」
「まあ、ねえ……人一人殺めたんだから、それは」
「しかし同情の余地はないか」
 佐助は笑って、じゃああんたが嘆願してあげて下さいよ、島流しで済むように、と言ったので、幸村はでは早速と頷いて、文机へと向かった。
 
 
 
 忍びだけが気付いた血の、死の臭いに当てられたのか、その夜夢を見た。
 己は鬼神の如く戦場で愛槍を振っていて、なんと珍しいこともあるものだと滾り駆けるそれとは別の意識がそう考える。戦場の夢を見ることなど稀だ。そもそも幸村は、あまり夢を見ない。
 一人斬る度肉の骨の血の重さがずんと腕に響く。人の脂にまみれた刃先はもう疾うに鋭さなど無くて、時折飛んでくる火矢を払えば一瞬ぼうと燃える程だ。
 時折名乗りを上げる腕に自信のある武将に名乗りを返して斬り、突き、なぎ払い、そうして敵陣の奥深くまで飛び込んで───背後にふいに現れた気配に、敵に忍びがいたかと獣じみた勘のままに槍を振るった。ずんと馴染みある、感触。
 
 命の。
 
 遠心力でぐるりと躯を返し追撃の刃を振るい掛け、幸村はぐんとその手を止めた。鍛え抜いた肉が軋みを上げる。けれど構えなかった。振り下ろすわけには。
 なぎ払われ地に臥す躯に見慣れた深い緑の忍び装束を纏い、血溜りの泥に沈む橙の髪が、真っ赤に、真っ赤に、濡れて。
 
 
 
 ───人を殺めることが恐ろしくはないのですか。
 
 
 
 夢だと知っていたのに叫びを上げて飛び起きて、ひうひうと乾いた喉を鳴らしながら、幸村は眠りの中で六文銭が揺れていた胸元に掌を擦り付けた。脂汗でねっとりと濡れている。ざらりと触れるほとんど完治した傷は、先だっての戦で、敵兵の爪が膚ごと肉をこそげていった痕だ。
 たった一度、たった一つの命を殺めただけで命をもって償わなくてはないとしたら己は一体どれだけ死なねばならぬのか。無間地獄に堕ちたとしても、それでも永劫償えぬほどの罪であると言うのか、それは。
 娘の歪んだ笑みが脳裏にこびり付いて離れない。
 持つ者は己がものを奪われるのを嫌うという。奪われたくなくば持たねば良い。娘は優しい従兄弟との美しい思い出を持っていた。それを奪われ悲しみと憎しみに暮れた。
 己の忍びの縒った紐は、文机の引き出しに六文銭に通されて、きちんと仕舞ってある。次の戦に使うのだ。黒い縒り紐はまだ一度も血を吸っていない。
 
 其れはおれのものなのだ。
 
 さすけ、と舌の張り付く口で呟けば、こん、と小さく小さく、天井が叩かれた。
 幸村はそれに安堵して、考えることを止め汗に湿った褥に横になった。湿った夜具は明日には己の忍びが干してしまうだろう。
 それから手合わせをして、共に茶を呑み、昨夜はどんな怖い夢を見たんだよと少しからかわれるかもしれない。主にも気易い、幸村がそれを許す、幸村の忍びだ。
 
 一滴、墨を落としたようにじわりと胸の裡の水に何かが滲み、けれどほんの僅かのそれは直ぐに薄れて姿を消して、幸村はその墨の色すら見ることは出来なかった。

 
 
 
 嗚呼おれは其れのために人を殺めたのだ。

 
 
 
 
 
 
 
20061117
It pressed me It blamed me
シャイン/鬼束ちひろ

清廉であるなら歪むしかない