武田の使者という者が、と控え目に告げた小十郎の目に、戸惑うような色を見て政宗はひとつ瞬いた。
「よ、伊達の旦那」
「使者って───テメエか」
こいつは驚いた、と本気で隻眼を丸くして見せると簡素な旅装束の赤髪の忍びは、軽く肩を竦めて見せた。
「何で驚くわけ? 俺様武田の忍びよ」
「だが………いや、まあ、とにかく上がれ」
一国の使者にするには気易い仕種で手招くと、数年前とまるで変わらない姿の忍びはじゃあ遠慮なく、と気の抜けた笑い顔を見せた。テメエ老けねえな狐が化かしに来たんじゃねえのか、と軽口を叩きながら、ああもう五年か、と政宗は薄く眼を細めて上がり框に座り込み下女の運んで来た桶で泥だらけの足を洗っている肩を見た。町人のようにぎゅうと引っ詰めて結った橙の髪が、ひょこひょこと揺れていた。
「hum……和睦か……」
「長曾我部と毛利は大分以前から同盟を結びっぱなしだし、豊臣と島津が手を組んだという話もあるんだ。相変わらず三河の勢力は安定しているし北条は取り込まれたまんま、上杉は──今ちょっと疲弊しているみたいだけど、軍神があのままで終わるとも思えないっしょ。織田は不気味に動きがないし、放った間者もね、戻っちゃこないけど」
「ha、そりゃうちだって一緒だ。安土城は現と地獄の境なんだとよ。迷い込めば戻らねえ」
「まあ、そんなだからね、是非とも、とのうちの大将のご意向だ。あんたのとこは随分強引にでっかくなってるみたいだし、武田の力なんか屁でもないってとこかもしれないけどな」
「テメエ本当に和睦する気あんのか?」
「俺様は書状を運んで来ただけの烏だよ、いいも悪いもあるわけないでしょ」
「つまり、武田の誘いを退けるんならテメエの赤い頭塩漬けにして送り返してやりゃあいいってことか」
「したけりゃそうすれば? 非道なりと虎が吠えても痛くも痒くもないってんなら」
端座したまま出された茶を呑気に啜り、眉一つ潜めずに忍びはふうと湯気を吹いた。
「あれ、茶柱」
「………おい、小十郎。テメエこんなのに手ずから茶ァ淹れてんじゃねえよ」
「右目の旦那が淹れた茶って茶柱立つわけ?」
「いいだろどうでも。そんなことより、今すぐ返事は要るのか?」
「旦那の一任で決められるんなら返答を頂いて帰りたいけどね、そうじゃないなら俺は一足先に戻るよ」
hum、と呟き脇息に肘を突いて政宗はじろじろと忍びを見た。
「……ひとつ、訊いていいか」
「俺に答えられることなら」
「何故今更だ」
五年前、最後に見た時よりも赤みの強いように思われる明るい色の目が、ゆっくりと瞬いた。年を取った風にも見えず、出で立ち以外なにひとつ変わりはないと思っていたが、そう言えば幾らか痩せたか、と記憶の中の姿と照らし合わせて思う。忍びだけあってもともと躯の薄い男だったが、頬の肉が精悍を通り越して少々痛々しい程に、痩けた。
「前にこっちから同盟の誘いを掛けた時、テメエんとこの虎はきっぱりと蹴ったんだぜ。それを今更ってのは、何でだ? どこかに戦でも仕掛けようってのか。どこだ? 徳川か? 上杉とは休戦の申し入れでもしてあるのか。じゃなきゃああれに、尻から食い付かれんじゃねえのか」
「俺が答えられることは少ないな」
小さく苦笑して、ただ、と忍びはすと表情を真摯に改めた。
「五年前のことなら、大将の意向というよりは真田と武田の家臣の意向だったと思ってくれ」
「……what?」
「本気で判んないのか? 無茶苦茶だな、竜の旦那。あんた真田の旦那叩き殺しておいて首も返さずに、弔い合戦だと息巻く連中の気が立ったままのとこに和睦の申し出したところで、はいと呑めるわきゃあないでしょう。真田幸村はあんたに討たれたけど、伊達に下るほど武田が疲弊していたわけじゃない」
まあ、大将は、ちょっとは考えたみたいだけど、と首を竦めた忍びの顔には僅かに戯けた調子が戻っている。
「uh……、猿飛?」
「はい、なんです?」
「テメエはどうなんだ?」
「どうと言うと?」
「どうって、真田側の家臣筆頭だろうが、テメエは。佐助は某の忍びだと、何度聞かされたか判りゃしねえ。なのになんでテメエは今ここにいやがる?」
「真田の旦那がいなけりゃ大将の命を受けるんだ、当たり前でしょうが。お仕事だよ」
「俺が憎くはねえのか?」
「はあ? なんで俺如きがあんたを憎まなきゃならないんだよ」
解れて落ちた橙が揺れた。
「真田の旦那もそうだったけど……あんたもその口か? 忍びは人に非ず、心なんてものを求めちゃいけないよ。忠心に見えるものでもそれはそういう仕組みだというだけであって、否も応もないだけなんだから」
でもまあ新しい主を探すのもしんどいし、大将が居て助かったかな、と笑った顔のその赤い目はのっぺりと平坦なままだ。以前会ったときには忍びの癖になんともよく喋る男だと思ったものだったが、今ここに座している使者は、同じようによく喋る口を持ってはいるものの、酷く忍びらしく思えた。
「………忍びは確かに感情では動かないし、感情を露わにすることもないが」
じっと赤い目を見ながら低く殊更ゆっくりと言い聞かせるように声を向け、ちらりと己が右目を見遣れば其れもまた静かな眼差しで赤を見ている。政宗は忍びに視線を戻した。そう言えば髪もこんなに赤かっただろうか。本当に夕陽のような橙の、そんな髪がまたはらりと解ける。
「だからと言って、心がないわけじゃねえ。……俺の親父が死んだとき、後を追った連中の中には、親父に仕えた忍びも幾人も混じってた」
忍びは心を忍ぶだけだ、お前はそういうものに巡り会っていたと思ったんだが、と隻眼を細めて見せれば、赤い目をゆっくりと二度瞬かせて、忍びは驚いたように声を僅かに跳ね上げた。
「竜の旦那」
「正直、テメエがのうのうと生き延びて、しかも未だ武田に居るってのに、驚いた。疾うに姿を消してるか、真田を追って死んだものと思ってたんだがな」
戦で噂も聞かねえし、と続ければ、聞いているのかいないのか、じっと政宗を見ていた目がもう一度瞬いて、僅かに緩んだ。
「───大将が、戦に俺を呼ばないだけだ」
「Huhn?」
「危なっかしくて任せておられぬ、んだと」
そうかあれはそういう意味か、と呟いて、忍びは湯飲みを脇に置き、つ、と両手を畳に突いた。
「まあ………そういうことで、ご検討の程、宜しく」
「なんだ、帰るか? 一晩休んで行けよ。心配しなくても寝首なんざ掻かねえぜ。テメエ如き不抜けた忍びに、俺の首が取れるとも思ってねえしな」
「いや、戻るよ。………それから、これは、武田ではなく、武田信玄からの個人的な頼み事なんだけれど」
だから書状はないんだけど、と声を潜めて、両手を突いたまま忍びは続けた。屈んだせいか僅かに影になった面のうち、上目に見る赤い目が、どんよりと光る。
「真田幸村の遺骨を返却願いたい」
「hum?」
「こちらできちんと弔ってやりたい……と、仰せなんだ」
「それはお前の頼みでもあるのか?」
ぐっと低頭した頭が僅かに上がり、ちらりと見た目は赤く赤く、あの二槍使いの背よりも赤く。
薄らと笑んだ口元は見えはしなかったのに、其れが嗤ったのは何故か判った。傍らの右目が警戒心を高めたのに気付き軽く手を上げて止め、政宗は太刀に伸びそうになる自身の手をぐっと握って堪えた。
「───これの返答は持って帰りたい。今、返事をしてくれ」
ひとつ、大きく息を吸い、溜息のようにふは、と吐いて政宗は肩を竦めた。
「そうしてやりてえのは山々だが、真田の墓ならもう四年も五年も前に、どこかの烏に掘り返されて、疾っくに盗まれてんだよ。だからあいつの骨なんざ、奥州には、ねえ」
返したくたって返せねえ、だが烏に突かれ食われたなんて、気の毒で武田にゃ言えやしねえ、だから首を返さなかったんだと言えば、忍びはあっさりと了解して頭を下げた。
「じゃあこれで退散するよ」
「土産の一つもなくて悪いな」
「先遣りも寄越さず急に訪ねたのはこっちだ、書状を受け取って貰えただけでも充分に土産だよ。出来れば早いうちに結論を出して欲しいけど」
「OK、月が終わる前には」
「頼むよ」
にこりと笑い、つと立った忍びを追って政宗は立ち上がる。不思議そうに見る目に見送りくらいさせろと言えば、変な旦那だ、と苦笑が返った。
「旦那」
草履を履き、笠を被ってぽんと荷を肩に担げばもうどこから見てもただの旅人だ。気配すら無造作で、そんな姿で赤い髪ばかりが浮いた忍びはくるりと振り向き羽織の袖の内で腕を組んだまま支度を眺めていた政宗を見た。
「俺はあんたを恨んじゃいない。武田の大将の為を考えれば真田の旦那は無念だったろうけれど、それでもあんたを恨むようなお人じゃない。あんたと戦いたくて戦って、そうして散ったんだからある意味本望だったろう」
「ああ、そうだな」
「あんたとうちの旦那では背負うものが違い過ぎた。その差が出たのかもしれない」
「俺が奥州筆頭でさえなけりゃあ真田が勝ったとでも言うのか?」
「さあ、それは判らないけど」
ちらりと苦笑のように目を細めて、それから再び忍びは真摯に政宗を見上げた。のっぺりとした、感情の閃くこともない目が、ほんの僅か───燃え立つ。
「けど、俺は昔っから、あんたが嫌いだよ。気が合ったためしがない」
「………hum」
「でも今日はちょっと感謝しちゃったよ」
「an?」
まあ、こっちの話だよと笑って、じゃあねと手を振り忍びは踵を返した。敷居を跨ぎ出た所で、どうやら勝手口から回ったらしい小十郎に捕まって、弁当を持たせられている。政宗が思う以上に、意外に人の好い右目は忍びの目の生気の無さを気にしたのだろう。
軽く遣り取りをして弁当を受け取り、礼を言って忍びは消え去ることも飛ぶこともせずにてくてくと歩き、去って行った。門を越えてからは烏の宝の隠してある穴蔵を目指し、ただひたすら駆けるのかも知れなかった。
「……小十郎」
「は」
呼ぶと、直ぐにやって来る右目に政宗はゆるりと視線を落とした。
「いいのか、行かせて」
「は?」
「放っておけばあれは死ぬぞ。お前、気に入ってる風じゃねえか」
「あれは政宗様の敵です」
いっそ穏やかなほどの口調で言い切り、小十郎は生真面目なままもう姿の見えない忍びの赤を探すように視線を向けた。
「武田と手を組もうが、万が一あれがあなたの下に付こうが、それでもあれは敵です」
「何故そう思う」
「俺ならば、主を討った相手を味方などとは思わぬ故」
家も軍も関係がないのだ、ただ一人、主と定めた相手のためだけに生きるも死ぬも決めているのだと判りきった答えのように言う右目に、政宗はそうか、と頷いた。
「───ただ、」
「ただ?」
「後を追うことも知らずにいるのであれば、それは哀れだと───少々、絆されました」
「そうか。……小十郎」
「は」
「俺が死んだら、仇討ちなんざ考えなくて構わねえ。ただ、さっさと後を追って来い」
「そのつもりでおります」
ご安心を、と頷く右目に薄く笑って、政宗は踵を返した。
烏は虎の元へは戻るまい、と呟いた声が届いたのか否か、右目は何も言わなかった。
20061114
槁木死灰/形は槁木の如く心は死灰の如し
虎児を二頭とも竜に食われた虎
文
虫
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