遅咲き枝垂も散るのはなし

 
 
 
 
 
 

 館の大広間だけでは収まらず、庭にまで繰り出した武田の兵達の喧噪は離れの部屋にまで切れ切れに届く。
 信玄は箱庭に一本しなだれた影を落とす桜の月明かりに白い花を見ながら、口元に笑みを乗せてゆっくりと杯を傾けた。夜風にふわり、と枝垂れ桜の枝が揺れる。
「佐助」
 暫く一人桜を眺め、風に乗って流れて来た幸村の叫び声を聞いてくつくつと喉を鳴らし、信玄はその愛弟子と共に今夜此の館を訪れているはずの忍びを呼んだ。
 ざああ、と風が鳴る。未だ青葉も幼い木々の枝がしなり揺らめき、渡り廊下から開け放した座敷を通り濡れ縁を吹き抜けた風を袂が孕んだ。
 その思わぬ冷ややかさに、む、と首を竦めてふと目を遣ると、庭先に細い影が立っている。
「猿飛佐助、参上致しました」
 生真面目に言って、佐助は直ぐにくなりと力を抜いた。
「何よ、大将」
「なんじゃ、遊びに出ておらんかったのか。お主にも小遣いは出たであろう」
「ええ、居ないと思ってたなら呼ばないで下さいよ」
 んもう、と唇を尖らせてやって来た佐助に隣を叩いて示すと、忍びは失礼しますよ、と口ばかりは断って腰を下ろした。板間に手を突き、足をぶらぶらとさせている。
「幸村は皆と機嫌良くしておっただろう。こっそり花街にでも出れば良かったものを」
 今なら見咎められまい、と堅物な主の元ではろくに女遊びも出来ぬと嘆いている忍びににやりと笑うと、佐助は肩を竦めた。
「いやあ、武田の主立ったお方が皆さんお集まりで酔っ払ってなんて、今火でも掛けられたら大事でしょ。こんな夜に働かなくてどうしますってね」
「その割に、寝ておったろう」
「寝てませんよ。言い掛かりなんて酷えなあ」
「嘘を付け。寝癖が付いておる」
 佐助は澄ました顔でつんと顎を上げた。
「引っ掛かりませんよ、そんなの」
「なんじゃ、つまらん」
 ふん、と鼻を鳴らし、信玄は使っていなかった杯を取り、差し出す。ちらと見た佐助の問う目に頷いて軽く振ると、佐助はぺこりと首を折るように頭を下げて、受け取った。信玄は未だ手を付けていなかった銚子を傾け、それに酒を満たす。
「呑め、呑め。今夜は無礼講よ」
「お仕事だって言ってんのに」
 ちらと覗いた手首には手当ての跡がある。着込んだ装束の下は、未だ癒えぬ生々しい傷が、幾つも隠されているはずだ。微かに膏薬の臭いもする。
 此れでは忍べまいが、屋敷の警備には構わぬのだろう。躑躅ヶ崎館ならば、端から端までの気配を、此の忍びは逐一把握しているはずだ。
 杯に唇を近付けた佐助が、ふっと動きを止めた。信玄は素知らぬ顔で己の杯を空にする。
「どうした、儂の酒は呑めぬか」
 己は己の呑み差しから酒を注ぎ、しれと問うと佐助は眉を顰めて信玄を見た。
「眠り薬入ってるんですけど」
「そうか? 気付かなんだ。此方の銚子は空にして構わぬぞ」
 ええ、と不満げに声を上げて、ほれ早く呑まぬか、と勧めれば忍びは溜息を吐いて杯を空にした。顔を顰める。
「折角の良い酒が台無しじゃないの」
「味はせぬと聞いたが」
「そりゃ、普通の人ならそうだろうけど……って、矢っ張り大将の仕業なんじゃねえの」
 はて、と惚けて見せて、銚子を取り上げると佐助は慌てて杯を背後に隠した。
「此れ、結構強いよ。あんまり呑んだら俺様だって、寝ちまうって。居眠りして屋根から転げ落ちるとか、格好悪過ぎる」
「今宵はもう構わぬ。武田にも、忍びはたんとおるぞ」
「いや、けどね……」
「誰か、おるか」
 は、と短く返事が聞こえたと思えば既に庭に影が控えている。
 その夜闇に紛れる影に頷き、信玄は隣の橙頭にわし、と手を乗せた。
「佐助は今宵は儂が預かる。此れの穴は、適当に埋めておけ」
「承知」
 短くいらえを返し、助けを求めるように伸ばされた佐助の手などなかったかのように、影は瞬時に掻き消えた。佐助が武田一の忍びであることに間違いはなくとも、他の者達も手練れが揃う。実際、上田から主についてやって来た先の戦の功労者が今夜ばかりは宴に混じっていたとして、警備に穴など空かぬのだ。
「もう、大将ー。何のつもりですか」
「今宵はゆっくり酒を呑み、ゆっくりと眠って行け。女の膝でなくてすまぬがな」
 佐助はきょと、と目を瞠り、それからふう、と器用に片眉を下げた。
「労って下さるんですか。そりゃ、有難いんですけどね」
「ほれ、呑め」
 ついと傍らの杯を取り薬の混じる酒を満たして渡すと、佐助は恨めしそうに信玄を見た。
「大将の膝枕で寝ろなんてことじゃ、ねえよな?」
「生憎と、男を寝かす膝は持っておらぬな」
「俺様だって、男の膝で寝る趣味はねえよ」
「明日は幸村を連れて、湯治にゆく。お主もついて参れ」
 はあ、と聡明な忍びは溜息を吐いた。
 此度の戦で未だ癒えぬ傷を負ったのは、信玄でも幸村でもなく、佐助だ。信玄と幸村だけならば湯治など必要ないと、それを知っているのだろう。
「諦めろ。此度のお主の働き、褒めてやらねば他に示しがつかぬ」
「だからって、こういう形は良くないですよ。贔屓贔屓」
「何、お主を褒めたところで贔屓だと吠える狭量な漢など、此の武田にはおらぬわ」
 下賤の身でありながら、武田の重鎮にも佐助殿と下にも置かぬ扱いを受け、それでも思い上がるところのない忍びに働き過ぎではないか、此の度の働きまさに鬼神の如し、傷を負ったのなら浅い筈もないと進言してきたのは勘助だ。聞けば、下の者達からお館様へ進言して頂きたいと請われたらしい。
 普段は憧れの眼差しで見はしても、状態を隠すのに長ける忍びの身など案じぬ者達だ。忍びの働きに守られた此の戦を、余程気にしているのだろう。
 下の者達がそう考えているのであれば、不安を取り除いてやる意味でも目に見える形で佐助を労ってやらねばならない。無論忍隊皆へ褒美を渡し、傷付いた者には医者を遣わした。
「皆の為と思い、傷が癒えるまでは暫し休め」
「………なあに、それ。真田の旦那は何にも言ってなかったけどなあ」
 唇を尖らせ、けれど信玄の言葉に含みを感じたか、佐助は渋々と言った様子で杯を空にした。ふう、と吐いた息が酒精を込める。
「失礼」
 ふいに、一言言ったかと思うと己の杯を満たして口に運んでいた信玄の膝に、ころりと猫のように軽い頭が乗った。
「なんじゃ、男の膝は厭なのではなかったか」
「大将こそ、男は乗せないんじゃなかったの」
 へへ、と庭へと顔を向けたまま目を閉じて笑い、佐助は小さく躯を丸めた。
「お布団汚すのもなんでしょ。ちょっと寝たら、部屋に引っ込ませてもらいますよ」
「此処で寝て行って構わぬぞ。部屋ならある」
「あ、そう? んじゃ、お言葉に甘えよっかな。お部屋に引っ込むときに、起こして」
 忍び小屋の布団は硬いんだよね、と小さく笑って、佐助は口を噤む。信玄はふ、と頬を弛ませて杯を傾け、片手でゆっくりと柔らかな橙の髪を撫でた。
 箱庭の桜が、夜風に揺れながらはらはらと花弁を散らした。

 
 
 
 
 
 
 
20090419
おやすみなさいよいゆめを