下界は疾うに春爛漫といった風情だが、山の上ともなれば未だ雪が残る。空は春模様の暖かさで、しかし吹く風は冷たい。
ゆっくりと足を進めていた幸村は、ふうっ、と白く凍る鼻息を吹いて、ぐるりと背後を見た。
「佐助、大丈夫か」
ひたひたと岩場を伝っていた狐は、僅かに覗かせた舌をぱくり、と仕舞い、幸村を見る。
「うん、平気平気」
頷く仕種はいつもの通りだが、普段はぴんと立っているはずの耳は力無くその尖った先がしおれている。どことなく肩も落ち、傷が塞がったばかりの躯は毛並みも乱れて、見窄らしい様子だ。
「もう少しで着くぞ。頑張れ」
「平気だって。ほら、ちゃっちゃと登らないと、日が暮れちまうよ」
ちょいちょいと器用に前足を振って追い立てる佐助に、うむと頷き前を向いて再び歩き出した幸村は、ふと気が変わってもう一度振り向いた。俯き加減で付いて来ていた佐助が、首を傾げて幸村を見る。
「何、旦那……って、ちょ、」
のしのしと戻り、項の皮を噛んで持ち上げると佐助はくるりと身を丸めた。
「な、なあに、旦那。一人で歩けるって」
「無理するな」
未だ何か言おうと口を開き掛けた気配はあったが、結局佐助は溜息だけ吐いて黙った。矢張り辛かったのだな、もっと早くこうしていれば良かった、と幸村は胸の裡で思う。
冬が明けて間もなくに突如襲撃してきた徳川の大軍に、未だ冬眠から醒めきらぬ者達を庇って果敢に応戦した狐の一族は、多くの者が傷付いた。幸い死んだ者はいなかったが、取り分け深い傷を負った佐助は冬の飢えから落ちた体力のせいかなかなか傷も塞がらず、暫く寝付いた。
漸く傷は塞がり食べ物も多く手に入るようにはなったものの、なかなか治り切らぬ怪我と回復しきらぬ体力に、信玄に暫し森を離れる許しを得たのは昨日のことだ。
出発は今朝早くであったが、供も付けずに何処へ行くのだ、今の己では足手まといになると散々煩かった佐助も問い質すにも疲れたのか、もう何も言わずにいる。しかし佐助の事だから、漂う硫黄の臭いに行き先を察したのかもしれなかった。
「着いたぞ、佐助」
やがて雪が姿を消し、ほんのりと温かな岩場の向こうからもくもくと流れる湯気を見て、幸村は佐助を下ろした。佐助はぶるぶる、と躯を振り、それからとことこと岩場を登る。
「温泉かあ」
「初めてか?」
「うん。お猿さんなんかだと、時々浸かりに行くって言うけどねえ。俺様忙しくって、こんなとこまで来ないもの」
「傷に効くのだぞ」
ふうん、と頷いて、佐助は促されるままに湯へと近付き、そっと前足を触れた。
幾度かぴちゃぴちゃと温度を確かめ、そろそろと前足を沈めてざぶり、と湯に浸かる。
虎には程よい深さだが、狐では足が届かぬらしい。すいすいと泳ぐ佐助を見ながら、幸村は傍らへと座った。
「此処はな、おれが見付けたのだぞ。おれの他は、お館様しか知らぬのだ」
「へえ?」
つい、と波紋を広げてやって来た佐助は、岩場にかしかし、と前足を掛けた。ぷかりと湯に浮かぶ尾が、ゆらゆらと揺れる。
「秘湯ってやつだ」
うむ、と幸村は自慢げに笑う。
「おれとお館様の他は、お前だけだぞ!」
「そうかあ」
細めた目は、いつもの緑が疲れにか少しばかり濁る。
「それはまあ、他にも知る者はおるかも知れぬが、しかし此処で誰かに会ったことはない。近くに温かい洞穴もあるのだ。数日、のんびりとできるぞ」
「ごはんは?」
「おれが獲ってやろう」
ふうん、と頷いた拍子に浮力に流された前足が岩場から離れ掛け、佐助は慌てて岸にしがみついた。泳ぎが不得手なわけではないから溺れることはないだろうが、少々浸かりにくいかもしれぬ。
幸村はのそり、と立ち上がり、そっと湯へと入った。
「うわわわ、ちょっとお!」
ゆっくりと座ったつもりだったが急に増えた水嵩に、流され掛けた佐助を慌てて引き寄せる。ざああ、と岩場を流れて行く湯に、嗚呼もったいない、と嘆いた狐を笑って、幸村は背を示した。
「佐助。おれの背に乗れ」
「ええ、そんな、恐れ多い」
「浮いているよりは楽だぞ。どうせおれも浸かるのだ。丁度良いではないか」
まあそうだけど、とどことなく不満げにして、佐助は小さく溜息を吐いた。
「んじゃ、失礼しますよ」
つい、と背後に回った狐の小さな足が、ふよふよと軽く背に触れる。と思えば慎重に毛皮に登った佐助は、背の真ん中でそろそろと身を伏せた。
「どうだ?」
「丁度いいよ」
流石旦那、と軽い口調で言って、小さな顎がぺた、と後頭部に乗った。湯の温かさに幸村は目を細める。黒黄の縞の長い尾が、こんこんと湧き出る湯をゆるゆると掻いた。
「此処の湯は飲むなよ。腹を壊す」
「はあい」
「少し下った方に清流がある。少しばかり味が付いている水だが、もう少し浸かったらそちらに行くぞ」
「水飲みながら浸かるんだ」
「そうだ。でなくば目が回る」
背中に寝そべる躯が軽く、腹は柔らかい。
ふう、と佐助が感嘆の息を洩らした。
「気持ちいいねえ」
「そうであろう。躯が万全ならば大した距離でもない。好きに浸かりに来て構わぬからな」
ふふん、と鼻を鳴らした幸村に、佐助はくつくつと笑った。
「その時はお誘いしますよ」
「む? おれの都合に合わせずとも構わぬぞ。お前とて、手隙のときはあろう」
「だって俺様一人じゃ足が届かねえもん」
溺れて湯でも飲んだら腹壊すんでしょ、と言う佐助に、それもそうか、と幸村は頷いた。
「ではいつでも、浸かりたくなったら遠慮なく申せ。付き合ってやろう」
お願いしますよ、と何が楽しいのかまた笑った佐助に首を傾げながら、幸村はうむ、と重々しく頷いた。
20090423
船首は虎のあたま
文
虫
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