武田信玄、墜つ。
その報に震撼したのは武田だけではない。しかし最も早く動いたのは、武田であった。
幸村は灯りも灯さぬ本堂で冷えの上る床に一人背を丸めて座り、遠くざわざわと騒がしい声を聞いていた。武田を捨てる者等の騒がしさなど聞いてはおれずに引き籠もったというのに、此れではなんの意味もない。
信玄の死の衝撃で狂った幸村が、狂いが冷め第一に思った事は、全軍を上げての弔い合戦であった。速やかに行軍すればまだ、引き上げる最中の織田には追い付けた筈だ。武田との戦いで疲弊した織田に、各地で留守を守っていた武田配下の軍全てが食らい付けば、易々と勝利出来ただろう。
しかし幸村の声に返された応えは、鈍いものだった。
信玄に賜った恩も忘れ、最早武田は此れまでと、去って行く者の多さに幸村は愕然とした。皆、己の命が、土地が惜しいのだと幸村と同様に残った武田家臣が悔しげに地団駄を踏む様に、それが武士であるのかと足下が崩れる思いで幸村は吼えた。その声に恐れをなしたかここ二、三日は、周囲もすっかりと距離を置き、幸村の側へやって来るのは忍びばかりになっている。
その忍びもまた、一人二人と、知った顔が消えて行く。最初は武田忍びが、次には、真田忍びが。
武田の忍びが姿を消すのは、判る。彼等は信玄へと仕えていた者達だ。忍びは忠義では動かぬ。家に着いていると思えば人に憑く、そういう者等だ。よりましとしていた信玄が居なくなった事で、次の家を探して去ったのだろう。
だが、真田忍びが憑くは幸村の筈だった。しかし彼等は、無言で去る。まるで信玄亡き後の幸村には用がないと、信玄こそが幸村のよりましであったのだと、そう言われているようでいつか師を越えねばと日々精進していた己はなんであったのかと、それもまた幸村の気落ちに拍車を掛けた。
それでも半分ほどは残った真田忍びも、こうして幸村が引き籠もっていれば段々と数は減るだろう。無論引き籠もり続けるつもりはないが、けれど最早引き留められぬ去る者等は、幸村からすれば裏切りも甚だしい不穏分子だ。放出出来るのならば今のうちに、全て放出してしまったほうがいい。忠義のない者など、火種に過ぎぬ。
幸村はじっと暗い本堂の、本尊の座す辺りを見詰めた。闇に紛れて見えぬ不動明王の、鋭い眼差しが此方を向いている気がする。
彼れは信玄の姿なのだ。
信玄は頼もしく逞しい師ではあったが、決して怒りの化身ではなかった。だが憤怒の明王の、それを信玄は己とした。全ての小さき者への慈悲とそれを踏み躙る不条理への憤怒、それが武田の熱の源だ。
不条理を許さぬ武田の、その要であった者達の心は、概ね偽りであったことは、知れた。だがそれを経て残った者等の火は本物だろう。
信玄を落とし炎の勢いは衰えたが、それでも熾火は消えぬ。風が立てば、再び大きく燃え上がる。
かた、と引き戸が音を立てた。幸村は頭を巡らす。注視したことに気付いたか、手燭を持って現れた男は引き戸を大きく開けた。廊下の光が本堂を薄らと照らす。
「真っ暗だねえ」
笑みさえ含むようないつもの声が、のんびりとそう言って足音もさせずに近寄った。そのまま幸村の眼前を通り過ぎ、傍らの燭台へと火を移す。
「目が悪くなっちまうよ。気を付けてよね」
躯は大事にしないと、と囁く男の橙の髪が、火に濡れたように光り、揺れる。
ふいに、幸村の胸の裡に何とも言えぬ昂りが押し寄せた。
幸村は無言でにじり寄り、忍びの細い腰へとしがみついた。薄い下腹に顔を押し付け、着流しの下のしなやかな筋肉を掻くように布地を掴む。
「───去るな、佐助」
忍びは僅かに絶句したようだった。逃がすまいと力の限り痩躯を締め上げ、喉奥から絞り出した声は長らく発声していなかったせいか、醜く嗄れた。
やがて、肉の薄いひやりとした手が、そっと後ろ頭を撫でた。両手が項を触り、肩に掛かり、それからやんわりと屈んだ忍びの痩せた腕が、頭を抱く。
「行きません」
旦那の処にいるよ、と囁く声は酷く酷く優しくて、幸村はゆっくりと目を閉じた。
忍びがこうして主の頭に触れ、その腕に抱くのは初めての事だと気持ちの片隅で思ったが、幸村には最早どうでもいい事だった。
幸村は忍びの躯を引き寄せて、油も敷かぬ艶のない板間へ押し倒し、弛んだ合わせから覗く首元の骨へと噛み付いた。
忍びが小さく濡れた声を上げ、それがまるで泣き声のようだと、真っ暗な熱に浮かされた頭がぼんやりと思った。
20090205
病む身
文
虫
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