稜線、遠からず

 
 
 
 
 
 

 がた、と立て付けの悪い引き戸を鳴らして開けて、流れ出る埃臭さに佐助はうええ、と顔を顰めた。入り口の引き戸を開け放ち、座敷へ上がって縁側もまた開け夜風で空気を洗い流す。
 持ち帰った火種で竈へ火を入れ、少量の米と水で薄い粥を作る間開け放していれば、部屋の中の空気は大分澄んだ。ぷんと飛んだ蚊を追い払い、障子を閉めて板戸を立てる。それから欠けた椀に粥を盛り、引っ張り出した円座へ胡座を掻いて佐助はふう、と一つ溜息を吐いた。
 久々の我が家だ。
 しかしもう戻る事もあるまい、と粥を啜りながらぼんやりと煤けた梁を眺め、佐助はずる、と洟を啜った。夏も目前だと言うのに、押さえた鼻の頭が冷たい。手先も冷えて、少し痺れるようだ。妙な類の緊張が、解けない。
 誰かを招く事などない家だが、此処に部下が来ると、忍びらしさの無さに驚く。主などは、余りの物の無さに驚いたものだ。城にある佐助の部屋には細々とした忍び道具がたくさん積んであったから、それと比べれば確かに、此れで暮らしていけるのかと思う程には質素な家だ。
 長屋の住人からは、ふらりと出て行っては幾日も、時には幾月も帰らぬ遊び人、とそのように認識されている。差配だけが佐助が猿飛と二つ名を持つ男である事を知っていたが、その本人もまた、二つ名を掲げる身だ。今は引退したとは言え、かつては佐助とも、肩を並べて戦場へと向かった事がある。
 せめて差配には挨拶をしようか、と考えて、佐助は直ぐにやめやめ、と頭を振った。気付かぬ男ではないだろう。佐助が戻らねば、矢張りそうであったかと、そう思ってくれる相手だ。ならば無用な事をすまい。何処から情報が漏れるとも限らぬ。
 
 明日、真田は大阪へと討って出る。
 
 とは言え密かな行軍だ。各所へ潜ませている軍と少しずつ合流して、入城する頃には、赤備えの大軍が地を埋め尽くす。
 しかしそれでも、大阪にて待つ徳川の兵には敵わぬだろう。戦は数が全てではないが、圧倒的な幾千幾万の兵力差では、やはり限界は来る。
 城攻めであると考えれば、全ての幸運が味方したとして、もしかすれば徳川総大将は、落とせるかもしれない。一人で幾万の兵の相手は出来ぬが、対面するのは一度に精々数人だ。一度も気を緩ませる事なく突き進む事が出来れば、或いは、とそう思わせるだけの物を、佐助の主は持っている。
 しかしその後に控える人物が問題だ。奥州の竜はいつの間にか天下人と成ろうとしている家康と手を結び、彼方側についているのだと言う。いつ何処で出て来るかは判らないが、幸村がいるのならば、出て来ぬ訳はない。そこで主が勝利出来るかどうかは、それこそ神のみぞ知る事だ。
 佐助はもう一度、ず、と洟を啜った。風邪を引いたわけではないが、妙に鼻が詰まる。何やら妙な病を得ただろうか、と考えながら椀の底に残る粥を眺めていると、ぽた、と水滴が落ちた。瞬く。ぽたぽた、と水滴が続く。
 佐助は箸を握ったままの手で、目を拭った。明日から続く行軍の先で、真田は、真田に従った武田の残兵は、皆、死ぬ。
 
「………死にたくないなあ」
 
 主に聞かれては怒鳴られそうな事を呟いて、佐助はぐず、とはっきりと湿った鼻を鳴らした。俯いた首の後ろが凝り固まって痛い。明日の為に働き詰めて、今宵はゆっくりと城で休めという主の言葉を丁重に辞して、こうして自宅へ戻ったのだ。そしてもう、上田と甲斐の地は二度と踏めない。
 佐助は甲賀者とは名ばかりで、生まれも育ちも信州だ。甲賀の忍びであった師匠に拾われ仕込まれたから甲賀の術を使うが、甲賀の里など見たこともない。
 その故郷を捨てて、水の腐った臭いのする、あのじめじめとした土地で、死ぬ。
 連れて行く兵達も同様だ。
 武士ならば皆、大局は知っている。最早天下は徳川のもので、此の最期の戦で万が一にも家康が落ちる事があったとしても、その一族か、もしくは独眼竜が漁夫の利を得る。奇跡が起きて勝利したとして、佐助の主は、それに付き従った者達は、皆悪として裁かれる。乱世は最早終わりだというのに、その乱世にしがみつき天下を乱す、その罰だ。
 それを知って尚義憤に燃え、立ち上がった者達だ。後世の者達はもしかすると、その彼等こそ正義と褒め称えるやも知れぬ。
 しかし、その武士に使われ付き従う兵は違う。彼等は皆、此の戦に勝ち主達が天下を獲ると、それを信じて共に往く。
 無論難しい戦である事は承知だろう。万が一にも生きては帰れぬと、そう知ってはいるだろう。信玄に世話になったと、その一族に天下を獲って貰いたいのだと、勝てば幾らでも褒美が貰える、そんな甘言に乗せられたふりをして、彼等こそが義憤に燃えた忠臣だ。武田が天下を獲るのだと、未だ夢見る美しい者等だ。
 そんな彼等を佐助の主は、殺す。
 武士の身勝手な自殺に付き合わされる兵の、命の行き先は暗い。
 佐助は、此の戦を率いる幸村の裡にあるのが、単なる私怨である事を知っていた。信玄を落とし、主は箍が外れた。溢れ出たものは主の裡には一欠片もなかった筈の翳りで、上目に天下を睨め付ける、その目が酷く暗かった。
 それでも乗り越えて行ければ清濁併せ呑んだ逞しく強靭な兵へとなれたかもしれない。しかし佐助は、それを己が望んでいなかった事に気付き、驚愕した。
 主に何かを望むなど、無いことだと思っていた。あるがままの輝きを見ながら、ただ付いて行くだけの筈だった。しかし輝きを失った主の姿に、佐助は指標を失った。
 惑う己は光に吸い寄せられた虫のようだと思う。急に失われた光に、夜虫である癖に夜に惑い、何も出来ずにふらふらと漂う間に物事はとんとんと進み、気が付けば最早引き返せぬ死への道行きへと連れ込まれている。
 佐助は最後の粥を呑み込んで、こん、と椀を置いた。縁へと乗せた箸が、ころころと転がり、一本が床に落ちる。
 ごほ、と一つ咳をして、佐助は頬を濡らす涙をもう一度拭った。死にたくない、とまた呟く。
 けれど佐助は知っていた。恐らく己は、生き残る。根拠はないが、確信はしていた。それは酷く暗い予感で、考えると涙が止まった。
 佐助は顔を上げた。そう言えば信玄が死んでから一度も、涙を流すことが無かったと思う。信玄の為に流す涙はなくとも己の為に泣くことは出来るのかと少しばかり自嘲して、それから佐助は目を閉じた。力強く頭を撫でる、大きな手を錯覚する。錯覚以外で此の手に触れる事は、もう出来ない。次の戦で死なずとも、いつかは来る死の先に、けれど信玄は居ないだろう。
 
 己は地獄へ堕ちるだろう。
 
 佐助は目を開けた。空虚な目の奥で、響く怒号と悲鳴を聞き流しながら真っ暗に燃える大阪城を見る。
 真田は夏の間に、全て死ぬのだ。
 死にたくないな、と三度呟いて、しかし瞳からは、もう涙は零れることはなかった。

 
 
 
 
 
 
 
20090205
看る目