離  杯  の  水

 
 
 
 
 
 

 はあ、はあ、はあ、とらしからぬ乱れた息を吐いて、けれど足音ばかりは殺した忍びが飛び込んで来ると、その場に居た半数が、一斉に顔を上げた。
「爺さん」
 半数の内の一人であった幸村は、未だ年若い己の忍びが、手当てを受けている此の老忍びを、その様に呼ぶのを初めて聞いた。
 幸村の姿など無い様に、ただ目を閉じ傷付いた老忍びだけを見てずかずかとやって来た佐助は、顔を上げた医師が止めるよりも早くぐっと瀕死の忍びの胸倉を掴んだ。だらりと下がった縫ったばかりの腕を、慌てて傍らに控えていた忍びが支える。
「起きろッ!! 此の耄碌爺が!!」
 ぎん、と鼓膜を振るわせた声に、ばさばさばさ、と夜の木々に止まっていた烏や梟が飛び立った。忍びが使うものだろう。
 その、飼い慣らした獣を追い払った張本人は、咎める周囲の腕を払い尚も続けようと大口を開き掛けて、それからにやりと頬を歪ませた。
「何だ、起きてんじゃねえの、人騒がせな爺さんだ」
 ぽい、と乱暴に離された手を誰かが咎める前に、ふっ、と腐った様な、死臭の混じる息を吐いた老人は、薄く開いた目を弓形に歪ませた。
「ふん………折角、彼の世へ渡り掛けたものを」
「馬鹿、此処まで生きといてそりゃねえよ。戦場で死なせてなんてやらねえ。あんたは、畳の上で死ね」
「冗談にしちゃあ、笑えねえな」
「冗談なんか言わねえよ。どうせその傷だ、もう跳べねえ。散々生きて殺したんだし、そろそろ怨念の供養でもして、のんびり隠居したらどうよ」
「馬鹿もんが、手前みたいな青二才、残してどうして隠居出来る」
「俺様みたいな優秀な忍び掴まえて、言ってくれるじゃないの。悪いけど、俺、もう霧だって使えるよ」
 瞬間、周囲の闇がざわめいたのを、幸村は肌で感じた。姿を現さずとも、真田の忍び長である此の老人の死に際に、忍び達が集まっている。
 忍び達を動揺させた張本人は、ぎらぎらとした目で未だ不敵に嗤っている。それを細めた目で見上げた老忍びは、くく、と喉を鳴らして嗄れた声で、佐助、と呼んだ。此の、喉を潰した様な声が、幸村は余り得意では無かったが、佐助は構わずにんまりと笑みを深めた。
「どうよ、大したもんじゃねえ?」
「嗚呼、大したもんだ。しょうがない、約束だ。今から真田忍隊の長は、手前だ、佐助」
 薄刃の様なひやりと研がれた殺気が、若い忍びに集中した。
 決して数は多くは無い。しかし先程の動揺とは別に、どう答える、返答によっては命は無いと、無言の圧力がじっと挙動を見守って、幸村は我知らず拳を握った。幾度も血豆の潰れた固い掌は、血と泥に汚れてざらざらとしている。
「はいはい、承りました、っと。ちゃんと昌幸様にあんたの口から伝えてよね」
「ふん、抜かせ。彼の方は儂にさっさと隠居して、佐助に座を譲れと前々から煩く申しておったわ」
 膨れあがった殺気と嫉視に思わず闇を一睨みすれば、嘘の様に静寂が返った。幸村はほうと息を洩らして、そんなものにはまるで頓着しない様子の佐助を見た。佐助は背を向けたまま、僅かに身を屈めて声を弛める。
「あんたのお年を、心配なされてるんだよ」
「知っとるわ。何十年、お側に仕えていると思う」
「はは、こりゃ、余計な事言ったね」
 戯けた様に肩を竦めて、佐助はくるりと踵を返した。
「んじゃ、精々死なないでよ」
「………今日は副長の」
「判ってますって。今直ぐ長ぶろうったって、どっかで刺されんのが関の山でしょ」
 大人しく隠れてますってとにやりと歯を剥く様に嗤って、普段見せた事のない顔ばかりを晒した忍びは、結局一度も幸村と目を合わせずに、陣幕を出て行った。
 
 
 
 
 
 上田へ戻り、忍び長屋の畳の上で、昌幸の命にて一介の忍びとしては異例な程に手厚い程の看護を受けた老忍びは、けれど結局、恢復せぬまま返らぬ人となった。
「彼の人でなけりゃ、生き返ったのかも知れないけど」
 こん、と蹴った小石が池に飛び込み、波紋を広げる。その波紋目指してゆるりと浮かび上がった鯉にでっけえ金魚だ、とひひと笑い、佐助は何処からか取り出したか、ぱらぱらと餌らしき物を撒いた。
「彼の方でなければ、とは、何だ」
「元々彼の人は、毒忍なんだよ。旦那は、会った事って、無いかな。足軽の格好してたり、忍び装束でいる事もあるけど、忍びの癖によたよた走って直ぐ息上げてさ、体力無いし力も弱いし、顔色悪いし息は臭いし」
「………見た事は無い、と思う」
「うん、まあ、見た事あれば、多分あんた死んでるしね」
 物騒な事を軽く言った忍びは、幸村を顧みて薄く笑った。
「毒忍ってのは、毒霧を吹き付けて来るんだけど、大体其れを、腹の中にね、隠してんだよね。戦忍は元々、忍びの中でも結構色んな毒に慣らされてる方なんだけど、毒忍ってのはもっともっと強い毒を含んでんの。一吹きで目を潰したり、肺を焼いたりね、そのくらい強い毒を腹の中に入れてても死なない、そういう連中なの」
「………凄いな」
「そう、凄いの。でも中毒が酷くって、大体毒忍ってのは、戦に出る様になってから数年で毒に負けて血を吐いて死んだり、毒に狂って仲間に始末されたりすんの。毒が命を食ってく迄の間、戦場に出て、後は死ぬの。そう言う、忍び。だから真田には居ないでしょ。忍びと言えど使い捨てる様な真似、真田の殿はなさらないから」
 ぱらぱらと、また餌らしき物を池に撒く佐助の淡々とした声に、ふいにぞっとして幸村はその手首を掴んだ。怪訝な顔で幸村を見た薄い色の目が、瞬く間に察してふと苦笑する。
「唯の米粉だよ」
 毒じゃないよ、と言ってやんわりと手を外し、佐助は再び水面へと目を落とした。
「けど、彼の人は生き延びたんだってさ。でも、毒に負けて其れ以上は毒忍なんか出来なかったから、毒を絶って、それでも生きてた」
「毒を絶つ等、出来るのか」
「出来るけど、七転八倒の苦しみだって言うよ。大抵、その途中で躯が付いてかなくて死ぬか、気が狂って死ぬんだ」
 だけどそれでも生きてた、と言って、佐助はしゃがみ込むと、膝に頬杖を突いた。幸村は真似るように、その隣にしゃがむ。到底、初陣を済ませた武将のする仕種では無かったが、咎める者が無いのを良い事に、幸村はそのままぱくぱくと水面へと口を覗かせる鯉と、その上に被さる二人分の影を見た。
「旦那には、彼の人、幾つくらいに見えた?」
 唐突な質問に、幸村は僅かに答えに詰まり、それから幾分か遠慮をして、六十くらい、と返した。佐助はだよね、と薄く笑う。
「ほんとは、まだ四十を二つ三つ越えたくらい」
「───嘘だろう!?」
「本当」
「だって、お前、爺さんと」
「見た目が爺だろ。それに俺様、結構彼の人恨んでたからさあ、当て付けって奴?」
「う、恨んでたって、」
「だって彼の人、俺の死んだ師匠に、真田忍隊に引き取ってくれって頼まれてたらしいのに、他の軍を盥回しにしてさあ。お陰で里は儲けただろうけど、俺は餓鬼の内に、何度も死ぬかと思ったよ。真田ほど忍びを大事にしてくれるとこなんか、ないからさあ」
 其処に実践の経験も浅い子忍びが紛れたとして、精々使いっ走りで潰されるのがおち、と肩を竦めて、佐助はくつくつと喉を鳴らして笑った。
「でもまあ、お陰で紛れた軍の忍びとその敵の忍びの毒とか、暗号とかさ、そういうもん、掠めて来れたんだけど」
「毒や暗号、というのは」
「うん。里によっても違うけど、例えば真田と武田でも、毒の配合なんかはちょっとずつ違うわけ。だから俺は、戦忍の中でも結構毒には強い方だし、相手の毒が判ってりゃさ、解毒の薬だって用意出来るでしょ」
 嗚呼、成る程、と頷けば、佐助は頬杖を突いたまま、首を傾げる様にして幸村を見た。
「そんで、そういう土台があって、今の俺様があるって訳」
「つまり彼の方は、最初からお前を次の忍び長にするつもりで」
「つうか、真田隊があんたの物になるって、そう決まってたから、あんたの忍びを忍び長に置きたかったんでしょ。俺が一番良い形で生きて戻った奴だったから、あんたの側に上げたんだと思うよ」
 は、と頬杖を外して背を伸ばせば、佐助は呆れた様に眉を下げた。
「何よ、気付いて無かった? 昌幸様は最初っから、その心積もりでいらしたんだと思うけど?」
「し、しかし、おれなど未だ未だ若輩で、」
「そりゃ、そうだ。初陣済ませたばっかじゃどう考えたって早過ぎだし、周りも納得しないだろ。だから、今直ぐじゃないだろうよ。つか、俺様だってこんなに早く拝命するとは思ってなかったよ。彼の人ももうちょっと、長く生きてると思ったしさ」
 俺だって未だ未だ若輩だよ、と小さく鼻を鳴らして、佐助はふいと視線を水面へと向けた。餌がもう降らぬ事を悟ったか、鯉の姿は無い。
 急に疲労したかの様な横顔を見遣り、幸村は意味もなく袴の皺を伸ばす様に、何度か膝を撫でた。
「佐助」
「ん?」
「居らぬ方が、良いか」
「……何が?」
「独りの方が良いか」
 緩く幾度か瞬いて、佐助は視線を上げぬまま、悪いね、と囁いた。幸村は頷いて、砂利を鳴らして立ち上がる。
「冷える前に、戻れよ」
「はあい」
 間延びした返事と肩越しに振られた手を横目に、幸村は踵を返して屋敷へと向かった。ざくざく、と一人分の足音が響く。
 その足音を聞きながら、佐助が萎れている姿など、そう見た事は無いなと思う。側に居てやった方が良い様にも思ったが、幸村が相手では、気を遣って泣く事も出来ぬかも知れぬし、そうであれば独りの方が、未だましかも知れぬ。
 けれど矢張り側に居た方が良いか、己が居らぬでは、他に縋る者は居ようか、と考えて、幸村はふいに冷えた気配に、ぶるりと身を震わせた。見回す。庭に設えた竹林の、屋敷の影の、其の闇の濃さ。
 何を考えるでも無く、幸村は踵を返した。槍は手に無く、帯刀もして居ない。ただ懐に匕首を潜ませるだけだ。
「佐助!!」
 砂利を蹴り付け駆け乍ら匕首を掴み鞘を払い、幸村は吠えた。ちらりと影が揺れたかと思えば、目の前に、橙色の髪が降って湧いた。
「誰の許しを得て、仲間同士争うか!!」
 持ち前の大声で叫べば、佐助目掛けて飛んだ薄刃が幾らか鈍る。幸村は難無く凶刃を弾いた忍びを足下に据えたまま、匕首を構えて闇を睨んだ。
「此の者が忍び長となる事は、父上のご命令である!! 甲斐のお館様もご承知の事だ!!」
 ちら、と見上げた明るい色の目が、微かに驚きを示した。それに頷いて、幸村は佐助の前へと出た。
「それでも異論がある者は、此の幸村が相手となろう! いざ尋常に、姿を現せ!!」
 いやいや、忍びにあんた、そりゃ無理でしょ、と呟いた佐助が小さく笑って、間も無く、一つ二つと、気配が消えた。
「もう、戻って来なくても、始末したのに。彼れ等は不穏分子ですよ」
「だからと言って、不満の有る者を全て炙り出したでは、真田忍びが半分にも減るわ」
「うわ、俺様ってそんなに人望無いと思われてんの?」
「人望の有る無しではい。お前も言っていたではないか、未だ未だ若輩だと。お前が皆の信頼を得るには、未だ、早いのだ」
 そりゃそうだ、正論だね、と言って、佐助は苦無を懐へと仕舞った。
「旦那も、大人になってくなあ」
「馬鹿にしておるのか」
「褒めてるんですよ、そんな捻くれた言い方しないでよ」
 どうだかな、とふんと鼻を鳴らし、幸村は佐助の腕を取った。
「戻るぞ」
「独りにしてくれんじゃ、無かったの」
「お前が一人になりたいのは、今の様な騒動に、おれを巻き込みたくないからだろう」
「いや、旦那がいたら泣けないし」
「嘘を吐け。おれが居らずとも、泣かぬ癖に」
 そんな事ないよ、とへら、と笑った佐助に、幸村は気難しく眉を顰めた。ぐいと腕を引き、半ば引き摺る様に歩き出す。
「泣かせてやるから、さっさと来い」
「ええ、何それ」
「今日は一緒に寝るぞ」
「ちょ、勘弁してよ! 小さい子供でもあるまいし、添い寝なんて」
「お前が添い寝するのではない! おれがお前に添い寝してやるのだ」
 飯も一緒に食うぞ、風呂も一緒だと言えば、渋々乍らに腕を引かれていた佐助は、うわあ、とぐるりと目を回す様にして、薄曇りの空を仰いだ。
「全然独りになれないじゃない」
「独りにはせぬ」
 握った手に、力を込める。
「………彼の方も、独りでは無い」
 忍びの死に様として、正しくは無かったのかも知れないし、それを彼の忍びが望んでいた訳でも無かったのかも知れないが。
「良かったな、佐助」
「……俺の我が儘だったんだよ」
「それでも、笑って許して下さったではないか。畳の上で、大勢に看取られて、そうして死んでくれたではないか」
 痩せて骨張った指が微かに力を込めて手を握り返し、その冷たい感触を熱い掌に受けながら、幸村は、屋敷までの短い間、決して振り向かずに居てやった。

 
 
 
 
 
 
 
20070704
この杯を受けてくれ
どうぞなみなみ注がしておくれ
花に嵐のたとえもあるぞ
さよならだけが人生だ