「……や、生き残っちゃいましたよ、みっともねえ」
がら、と板戸を開けた信玄へ照れた笑いを浮かべながら言って、佐助は身を起こし掛けた。
それを寝ておれ、と手で制し、信玄は枕元へと腰を下ろす。薬の臭いに混じり、薄らと、乾いた血の生臭さが鼻腔を撫でた。
「折角、大将に褒めて貰ったのにねえ」
「何、お主の働きが見事であれば、また幾らでも褒めてやろう。ともあれ、よくぞ息を吹き返してくれた。また武田、真田の為、存分に働くがよい」
はいはい、忍び使いが荒いね、と笑い、佐助は幾らか間を置き息を吐いた。
「真田の旦那がさあ、羨ましがっちゃって、しょうがないのよ」
「うむ?」
「某も死ぬならば、お館様にお褒め頂く働きを見せて死にたいってね」
信玄は顎を撫でた。
「儂は、彼れを死なすつもりは無いがのう」
「またまたあ、冗談ばっか」
へらへらと笑う忍びの目には他意は無い。信玄はじっと忍びを見下ろした。
「お主の目には、儂が幸村を捨て駒と扱うておる様に映るか」
「あー……そう言うのとはちょっと違う様に思いますけどね、別に、飛ばせようとしてるわけじゃ、ないでしょ」
「翼をもいでおると言うか」
「違う違う。あの人には最初っから翼なんかないんだって。設えてやんなきゃさ。でもあんた、そうしてやる気なんかないでしょ」
うん? と片目を眇めると、佐助は唇の端を吊り上げて嗤う。
「でも、まあ、精々死なせない様にお願いしますよ。あんたが真田の旦那をあんなのにしてんのも、俺様なんかが考えも及ばない、遠大な理由があんだろうし」
「お主は疑り深いのう」
「仕事柄ってやつでしょうよ」
「戦場に出る以上、お主が死に掛けた様に、死ぬ時には死ぬものだ。儂も幸村もな」
そりゃそうですけど、と小さく息を吐いて言葉を切り、呼吸を整えて佐助は再び口を開く。多弁な忍びも、息を吹き返したばかりでぺらぺらと口を利くのは辛いのだろうが、まだ話し足りない様であったから、信玄は止めずにそのまま見詰めた。
「あんたは死なないで下さいよ」
「さて、人の身なれば、必ずとは言い難いのう」
「必ずですよ。その為なら、俺は幾らだって生き返ってあんたの敵を屠ります。あんたに死なれちゃ、真田の旦那はこけるからね」
「ふむ」
「武田の弱みは其処だね。あんたで全部が決まってる。……ま、他の側近方はいいとしましょうよ、立派な殿様方だからね。でもうちの旦那はねえ……」
「彼れは未だ若い。そう言ってやるな」
「そう言う物にしちゃってんのは、お館様でしょうに。まあ、それは今はいいんです」
喉に絡まる様に掠れた声を空咳をして整えて、佐助はまた少しばかり息を吐いた。伏せた瞼に、信玄は掌を乗せる。
「辛ければ、話は後で聞くが」
「あー、改めてするような話じゃないでしょ。……あのね、武田と違って、真田の旦那がこけたら、真田は終わりですよって、そういう話」
信玄は片眉を上げた。瞼を塞がれた忍びは、口元に笑みを揺蕩わせたまま続ける。
「彼の人じゃなきゃ、真田隊は動きませんよ」
「お主はどうじゃ」
「あー……旦那がそうしろって言うなら、ま、お館様の為に働いてもいいですけどね」
でも、下の連中の士気までは上げらんないよ、と続けた佐助の瞼から掌を退けると、真っ直ぐな目が見上げる。目を見ている様に見せ掛けて、いつもは僅かに視線を外す忍びの、その視線は珍しい。
「真田隊の働きは得難いものだが、その為に、儂が幸村を従えている様に、お主は思うか」
「まさか。あんたそんなにあくどくないよ。手放しで可愛がってるとも思わねえけど……大体、見込みがないなら、真田隊召し上げて旦那なんか相手にしてないでしょ」
「充分あくどい様に聞こえるのう」
「そう思いたければ、そう思って下さって構わないですよ」
ふふ、と笑う佐助に、信玄は口元を緩ませ、ふん、と笑み混じりに答えた。
「さて、お主がこんな事を言っていたと、幸村へ告げ口すればどうなるか」
「うわ、止めてよ、俺様殺されちゃうよ!」
「どれだけの裏切りを受けたとして、彼れにお主は殺れぬ」
「それはどうか判んないけど、どのみち熱く一発ぶん殴るくらい、するでしょ! 今殴られたら洒落じゃなく、死ぬって」
早口に慌てた序でに咳き込んだ佐助にくつくつと笑い、信玄は懐手を組んだ。
「ちょ、もう、笑ってるし……っ」
「冗談じゃ、幸村には内密にしておこう。安心せい」
「そりゃ、有難いこって」
うむ、と頷き、信玄は童にする様によしよしと橙の髪を撫でた。
「余計な心配をせずに、今はゆっくりと養生致せ。幸村を悪い様に扱いはせん。彼れもお主も、儂にとっては息子の様なものじゃ」
「………あのねえ、大将」
猫の仔の様に目を細めて髪を撫でられていた佐助は、そっと口を開く。
「俺様は、真田の旦那だけじゃなくって、あんたの事も結構、心配、してんのよ」
「うむ?」
「実のご家族を差し置いて、旦那や、たかが草の俺なんかをね、息子と呼ぶしかないあんたが」
割と、心配、と囁き目を閉じた忍びに暫し沈黙を返し、信玄はそうか、と低く呟き橙の髪から手を引いた。
「………ゆっくりと休めよ、佐助」
「はいはい、お情け、有難く」
閉じた目は開かず、薄い胸が小さく上下するのを見ながら、けれど気配が消えるまでは決して眠ることはないだろう忍びを暫らく眺め、やがて飽いて信玄は立ち上がった。
忍びの譫言は忘れたふりをしてやった方が良いか、と考えながら、信玄は柔らかな髪の感触の残る手を見詰め、緩く口元を緩ませた。
20070508
書いてる間に書きたかったことを見失った…
おやかたさまには太刀打ちできない(わたしが
文
虫
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