白い雷が地を叩く。流れる水より尚疾く抜かれる刃にその光が集まるたび、風魔の名の通り黒い旋毛が巻いて電撃を躱す。
いってえ、と呟いて、それからかすが、とひりついた喉がくのいちを呼んだ。ぐらと揺れた躯を黒い風が弾き、天の轟きがすうと薄まる。くのいちは大木の幹に背を打ち付けて、そのままぼとりと地に落ちた。
「かすが!」
叫べば、ずきりと肺が痛んだ。ひいひいと惨めったらしく喉が鳴き、幾ら喘いでも息が追い付いてこない。武帝を倒し疲労した躯での立て続けの大技、加えて禁術の負担が堰を切った様に痩躯に掛かる。
「かすがッ、立て!!」
無茶を承知で呼んでも、金の髪を散らばせた女はほっそりとした躯を襤褸の様に伏せたまま、ぴくりともしない。じわりと胸の裡に滲んだ忍びらしからぬ闇めいた感情に眦を尖らせて、佐助は悪魔を睨め付けた。
「……死ねよ、伝説だろうがなんだろうが、」
嗄れた声で告げ、ひゅる、と指の上で得物が踊る。呼吸を操ることもがくがくと震える躯を立てる事もままならぬのに、得物を操る指と風を睨む目ばかりが、未だ戦意を失っていない。
「悪魔なんざ……此の世にはいらねえ」
ふ、ふ、と音も立てずにただ風の気配が迫る。斬り付けても霞みのように肉が失せ、蹴り上げた時にはもうそこにいない。
己もかすがも自惚れでなく、戦国一、二を争う忍びの中の忍びである。その甲賀きっての使い手が二人掛かり、決して使ってはならぬと諄く言い含められた禁術まで用いておいて、なお子供の使い以下の真似しか出来ぬなど。
此れが悪魔、と嫌になるほど理解して、それでも佐助は肩を射抜いた刃にも瞬きをせず得意の空蝉も使わずに、手にした大手裏剣で眼前の胴を薙いだ。風となって消えるとは言え、肉体が無いわけではない。肉が在るそのときに、急所を突く事が出来れば或いは。
がちん、と大きく振られた忍者刀が額当てを弾いた。反射で身を伏せなければ両目をやられていただろう。しかし切れた額からどろりとぬめった血が垂れて、佐助はいてえ、と幾度言ったかも判らない呻きを繰り返した。かすがが隣にいれば、煩い少しは我慢をしろと、そう叱られていただろう。
突き上げられた切っ先を大手裏剣で受ければ、きき、と火花を散らせて滑らされた刃がそのまま腕に突き立つ。防ぐその動きを利用して確実に傷を付けられる、その一見無茶苦茶な型に戦慄する。余程の疾さがあったとして、普通ならば今は退く。
大振りな型は忍びの動きではない。けれど忍び以外の何者でもない。
糞、と呟いたその時、ちりと首筋に痛みを感じて佐助は咄嗟に身を伏せた。襟首の髪一房と共に、項を皮一枚割かれけれど毒突く事もせずに後ろ足で蹴り上げる。手応えはない。代わりにぐんと脇腹目掛けて迫った刃にぐっと足を踏ん張り筋肉を締めて、内臓へと届かぬうちに止める。思わず唇の端が上がる。思った通り、幾ら悪魔とはいえ忍びは忍び、武人ほどの膂力はない。
暗殺だけではない。戦場を駆け、武人を相手に戦い続けた佐助だからこそ出来た。武人相手であれば、幾ら肉で噛んだところで串刺しは免れないところだ。
噛んだ刃をそのままに腕と得物の鎖とを咄嗟に相手に絡め、佐助はもう片手の大手裏剣を深々とその肩に突き立てた。ごきりと鎖骨の砕けた手応えが響く。ぶわ、と一瞬拡散仕掛けた風魔の躯が、ぶれた視界が戻るように焦点を結ぶ。
喉元から突き出た苦無の先を、とと、と音を立てて水の様に血が滴った。
「死──ね、」
悪魔の項から喉仏までを、渾身の力で残った飛苦無で突き刺した女の汚れ頬を腫らした顔が、切れ始めた黒雲の合間から差す月明かりに照らされて、酷く美しく見えた。
其処で佐助の意識は一度途絶えた。
「佐助、……佐助っ」
肩を揺すられ、いてえ、と呻いて瞼を開けば、此方も這々の体と言った様子のかすがが嗚呼、とか細く喉を鳴らし、唇を噛んだ。
「生……生きてた、か。しぶとい奴、だ」
毒突き、ひゅうひゅう、と細く呼吸の音をさせて半ば蹲るかすがの膝に、佐助は頬を寄せた。ぎくり、と固まる痩躯を余所に、細腰に腕を回して腹に顔を付ける。
「な……何を、お前! こんな時に、」
ばし、と力無く後頭部が殴られたが埋めた顔を上げず、佐助はかすが、と名を呼んだ。
「帰、れる」
え、と呟く声が力無く草臥れている。さすけはつと流れた涙がくのいちの腿に落ちて行くのもそのままに、湿った息を吐いて続けた。
「帰れる……」
良かった、と震える息で続ければ、何を馬鹿な、と呟いたかすがは、そのまま倒れる様に佐助の上に身を伏せて、ふるりと震え、泣き声を洩らした。
「けんしん、さまぁ……」
「帰れる、んだ、……かすが」
「謙信様………」
「良かった、な、……俺も」
もう帰りたい、と囁けば、ぎゅうと背に縋る様に抱く腕に力が籠もった。血の臭いがする。炎の臭いもする。このままでは山を下りる前に焼け死ぬだろう。けれどもう力がない。
嗚呼、でも、帰れる、旦那、と囁いて、佐助は瞼を上げた。くのいちの輪郭を赤々と照らす炎の降らせる火の粉に、金の髪がちりりと焦げ付く。
「かすが……」
「……ああ」
「彼奴、は」
「………死んだ筈だ、が、いなく、なった」
腕を解けば、目元を真っ赤にしたかすがは血に汚れた掌を開いて見せた。
「喉を貫かれて、生きている筈もない……だが、何処にも」
「そう、か」
深く嘆息して、けれど今、此れ以上戦う事など無理だと佐助は頭を振った。一刻も早く、此処を去りたい。そして甲斐の地に戻りたい。
帰巣本能の様なものかと考えていれば、口から出ていたのか小さく笑ったかすがが馬鹿を言う、と囁いて、佐助の頬に触れた。血塗れの手が涙を拭う。
「佐助……動けるか」
「いや」
「……私も、お前を抱えては」
「うん」
「佐助」
ふっと顔を歪めたくのいちに小さく笑い、佐助は大丈夫だよ、と空を仰いだ。
「お迎えが来た」
「え、」
続いて見上げたかすがの上に、ばさりと羽撃く風が打ち付け、思わず目を庇った腕を猛禽の爪が掴む。
「お前……迎えに来てくれたの」
こんな、火に巻かれた山にまで、と震える声を上げたかすがにもう一度小さく笑い、佐助は己が烏につつかれ急かされるままにごろりと身を返し、辛うじて動く左腕を差し出した。焦燥も露わに掴んだ大烏が、大きく羽撃く。ぐんと躯が浮き、ぐるぐると振られながら下を見遣れば、続いて大梟がかすがを連れて羽撃いた。ぽたぽたと己の爪先を伝って血が落ちる。
熱風に煽られぐんと高度を上げながら、少しでも炎の無い方を選び飛ぶ烏にさすが俺様の鳥、と笑って、佐助はふっと燃える山を見下ろした。
天王山の頂上近く、炎に囲まれながら未だ燃え上がっていない場所の闇に、目が吸い寄せられる。隣を飛んでいたかすがもまた、同じ場所へと目を向けた。
その、闇が、ふいに濃さを増したかと思えば、突然火を噴きあっという間に周囲を巻き込んで爆発する様に燃えた。
「いけね、」
呟ければぐんと飛ぶ速さが上がる。逃げる様にぐんぐんと山を後にする烏と梟を見れば、熱風を背に必死に羽撃き次に来る爆風から少しでも遠離ろうとしている様子だ。佐助は上手く動かぬ手で烏の足首を掴んだ。寸瞬遅れて、ぐんと背を押した風に躯が軋む。
「……ってえ……! 腑出ちゃうって……っ」
「馬鹿! 出るか!」
「だって、俺様、腹に穴、」
言って噎せ混み、気遣ってかゆるゆると高度を下げた烏を腕を振って止め、佐助は少し上を飛ぶかすがを見上げた。
「なあ、かすが」
「……なんだ」
「御伽噺ってな、おっかねえな」
ふ、と溜息を吐いて、かすがは北を見た。
「早く帰らねば、悪い子はまた、悪魔に連れて行かれるんだ」
「そりゃ、勘弁願いたいねえ」
喉を鳴らし、佐助は山間に点る村の灯をちらと見遣り、其れからゆるゆると暗くなる視界に従い目を閉じた。
次に目覚めた時には主の心配げな怒鳴り声が聞こえるのだと、そう信じていた。
20071211
よるはおばけのじかん
文
虫
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