胡座を掻いた背中にくっつくように座った大の男が、幼子のように佐助の筒袖を掴んでゆすゆすと揺する。
「………旦那、止めてよ」
「…………」
無言の訴えを無視して苦無を揃えていた佐助は、幾度目かの溜息を吐いた。
「駄目です」
「佐助」
「ほら、すっげえ鼻声じゃねえの」
もともとだみ声に近い発音が益々酷く濁り、さもすもけも全てが濁音に聞こえる。加えてがらがらに枯れた喉が如何にも風邪声で、佐助は眉を顰めた。
「大丈夫だ」
「何処がだよ。兎も角、駄目ですから。留守番してて」
「お館様は、佐助が良いと言えば良いと、申されたのだ!」
途端ぐえほぐえほ、とぐしゅぐしゅに湿った咳をした幸村に、佐助はやれやれと額を抱えてぐるりと半分だけ向き直った。
何を思って信玄が佐助の許可を取れと言ったのか、正しい意図は判らない。判らないが、佐助が許可など出す訳はなく、それを信玄が知らぬ筈もないのだ。
つまりあの古狸は己で此の暑苦しい弟子を説得することを放棄したのだ、面倒臭いから、と察し、佐助は心底厭そうな顔をした。
「ほら、もう寝なよ。あんたが治る頃には、勝ち戦引っ下げて帰って来ますから」
「佐助え!」
「怒鳴らないで下さいよ。つか、声出てないよ」
「風邪などで戦にゆけぬなど、お館様に申し訳が立たぬ!」
「だからさあ、それは旦那の自己管理のなってなさなわけでしょ」
真冬に近い時期だというのに、毎日半裸で鍛錬をする幸村は、それだけならば日課である。大して躯に障りがある訳ではない。
しかし先日、本人曰くはついうっかりと、庭園の池へと落ちたのだ。氷こそ張ってはいなかったが、鯉の動きが鈍る程の低温であるには違いない。年寄りならば、そのまま心の臓が止まっていてもおかしくはない。
どうやったら城を挟んで練兵場の裏にある庭園のしかも池に、鍛錬中の主がうっかりと落ちる事が出来るのかは佐助には到底理解できない深遠な理由があるのだろうが、理解出来ないものは仕方がないので、まあいつもの通りに何か馬鹿をやったのだろう、と見当を付けている。
あながち間違いでもないらしく、その話を持ち出すと主は口籠もるが、我が儘全開になっている今は、どうも効果がないようだ。
「自業自得なんだから、戦終わるまでにちゃんと治して、お館様に叱って頂いたら良いじゃない」
「良いわけが、あるか!!」
「そんなでっかい合戦でもないんだしさあ」
「お館様も往かれるではないか!」
「お館様にくっついて歩きたいのは判るけど、」
「童のように言うな!!」
童そのままの我が儘ではないか、と顔を顰めて、佐助は真っ赤に浮腫んだ顔を覗くように首を傾げた。ずるずるとのべつまくなく啜り上げる鼻はかみ過ぎて擦れ、腫れぼったい瞼が座った目に半分掛かっている。此処に医者がいたのなら、力尽くでも布団へ放り込まれそうな形相だ。
「ぶっさいくな顔しちゃって」
「ぶ、不細工とはなんだ!」
「来てもいいけど」
「な、」
幸村は目を見開いた。側にいるだけでむっと感じる熱気が強くなったような気がする。
「本当か!?」
本当に脳味噌沸騰して死ぬんじゃないか、と喜色満面の病人を眺め、佐助は色も抑揚もない声で続けた。
「あんたの回りには普段よりたくさん忍びや足軽が付くよね」
「おれの足に付いて来れるならば、そうすればよい」
「ふらっふらのくせに何言ってんの。で、まあ、あんたを死なすわけにゃいかねえから、あんたの不調を補って、そういう連中が無用な傷を負ったり死んだりするわけだ」
それでいいならどうぞ、と殊更温かくも冷たくもない平坦な声色で言えば、幸村はぐっと言葉を呑んだ。
「………狡いぞ、佐助」
「なら言わせんなよ。言いたかねえよ、こんな下らねえこと」
「下らない事で悪かったな!」
どがん、と床板が割れるかと思うほど強く、唐突に拳を叩き付けた幸村はそのままの勢いで佐助の胸倉を掴んだ。爛とした目が明らかに熱に浮かされている。
「こうなったら、お前も道連れだ!!」
「はあ?」
「お前も風邪を引けば良いのだ! さすれば、戦にゆけぬだろう!」
様を見ろ、とでも言い出しかねないまるきり悪戯小僧の顔でにやりと笑った赤ら顔に、佐助はやれやれと肩を落とした。
「いいですけど、どんだけ調子悪かろうが、俺様は戦に往きますよ」
「何だと!? ならばおれも、」
「あんたと違って、俺は忍びだもん。調子悪いからお仕事行きませんなんて、動けねえ程の大怪我した訳でもないのに、言えるわけねえだろ。……ま、無事で帰って来る保証はねえけど、それでいいならどうぞ」
言葉の途中でぱっと離れた幸村は、一人半分ほども間を距離を開けてじっと口を噤んでいる。息を掛けては移るとでも思っているものだろう。
佐助は軽く肩を竦めて主に背を向け、再び苦無を揃え始めた。かちかちと、鉄の触れる音が響く。
「………佐助」
「はいはい」
「すまん」
振り向かぬまま、佐助は口元を弛めた。
「謝ることなんか、ないですよ。いつもの旦那なら、言う筈なかった事でしょう。風邪が頭に回ってんだよ」
「しかし、詮無き事を言わせた」
「そう思ってんなら、さっさと寝て風邪治して、ついでに忘れちゃって下さいよ」
恥ずかしいったらないよ、餓鬼みたいな戯言なんて、と笑い混じりに軽く言って、佐助は手にした苦無を背後へ向かって振って見せた。
「まっ、心配しなくっても、俺様がちょいちょいっと勝ち戦にして来てあげますから」
「己を過信するでない」
「それ、そっくりそのままお返ししますって」
肩越しに振り向き、へへ、と笑って見せると主は不細工な風邪顔のまま、うむ、と鈍く頷きもそりと立ち上がった。
「寝る」
「はいはい、お大事にね」
「うむ。……佐助」
ん、と首を傾げると、幸村は難しい顔で見下ろした。
「無事に戻れよ」
大きく瞬き、佐助は破顔する。
「ほんと、さっさと寝て治しなよね。戯れ事に煽られてんじゃないよ、調子狂っちまう」
ぱたぱたと手を振って、佐助は並べた苦無の脇へと最後の一本をことり、と置いた。
20090120
初出:20081229
おかんっていうより奥さんか彼女
文
虫
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