めくらの片恋

 
 
 
 
 
 

 いつだったか、介錯を、己の忍びに託した事があった。
 己が腹を切るような事になったときには首を託すと、そう言ったことがあったのだ。
 
 幸村はゆっくりと息を吐いた。広い何もない部屋の中、乾いた畳からしんと冷えが上る。火鉢は持ち込んでいない。屋敷中がひそりと静まりかえっている。
 戦の後始末は済んだ。武田の領地には上杉の手がしずしずと広がり、近いうちにこの、虎の居た屋敷にも軍神が訪れるだろう。
 上田はどうなっただろうか、と考えて、父と兄が素早く引き籠もったのだから領民に不安を掛けるようなことにはなるまいと緩く頭を振る。この度の戦で勝利を上げたとは言え、上杉も相当に疲弊した。雪の足音も間近だ。少なくとも春までは、これ以上の動きはあるまい。
 
 幸村は上田には戻らず、甲斐に残った。
 兄は幾分か腰を据えて説得をしたかったようだが急ぎ領地に戻らねばならず、上田の防備を整えたなら直ぐに迎えを寄越すから、早まったことはするなとそう言い置いて後ろ髪を引かれながらも父と共に去った。
 父はお前の思うようにしろと言ったが、ただ、付いて来る者の行く先だけはきちんとしなさいと、まるで小さな子供に言い聞かせるかのような声で言って、幸村の頭を撫でた。昔は酷く大きく感じていた手が今や幸村と変わらない程の、幸村よりもずっと細い年を取った手になっていた事に、少しばかり感慨を覚えた。
 お館様大事でこの何年もただひたすらに駆けていて、決して蔑ろにしたつもりはなかったものの、己が親を顧みることもしていなかった。
 幸村の手勢は真田隊の一部と、真田忍隊の一部だ。真田隊は父と兄と共に上田へ帰したから、あとは忍隊の者たちが残るだけだ。
 彼らは真田隊とは違って完全に幸村だけの手勢で、だから、上田へ戻れと言っても貴方と長が居る限りは甲斐から離れることは出来ないと、頑なに止まってしまっていた。
 しかしそれでも、幸村が直々に上田へ戻り真田へ仕えろと言えば、そうでなくとも他の主を探して生きろと言えば、彼らは頷き去るだろう。
 放っておけば幸村を追って命を絶ってしまうのに間違いはなく、それだけの忠心を向けられている自覚はあるが、しかし主命を持って生きよと告げれば、彼らはそれに背くことをすまい。その後に幸村以上の主を得るか、そうでないかは、最早幸村の知る所ではない。
 
 端座した膝の先に、冷たく鞘を光らせて在る懐剣を見詰める。白装束に身を包んではいない。腹を切るなら然るべき場所で、然るべき者の前でと決めている。だから今、この鞘を払って命を絶つつもりはない。まだ配下の行く先を決めていない。
 
 忍隊の者たちは、いい。生かすことは出来るだろう。上田に戻すのが一番だろうか、それとも仇とは知りながら、天下を見据えて上杉に下れと、そう命ずるのがいいのだろうか。
 どれにしても、幸村の後を追う、それだけは避けることが出来るだろう。
 武士とは違う形の忍びの忠心を幸村は好ましいと思っていた。彼らは心を秘め、己の規範に反することも、主の命とあらば忠実にこなす。命令さえ誤らなければ、こちらの心を汲み従う。恐ろしく従順で、且つ自由な魂を持っている。忍びに心が無いなど嘘だと幸村は思う。彼らの心は見えないだけで、誇り高く、武人などよりも遙かに、深い。
 
 嗚呼、だが、だからこそ。
 
 幸村はひとつ、溜息を零した。
 生きろと命ずれば、あの、己が半身とも呼べる影もまた、生き延びようとするだろう。けれどそこであの忍びの心は死ぬのだ。
 自惚れだとは思わない。あれは幸村の忍びだった。幼い頃から共に居て、そうと意識した訳ではないのに少しずつ手懐けてしまった獣のようなものだった。狗か、禽か、いずれにしても、幸村の手からしか餌を食べないものだった。そういうものにするつもりはなかったのに、結局───そう、なった。
 
「旦那」
 
 すと障子が開き、聞き慣れた声が掛けられた。火鉢持って来たよ、と許しもなく入り込んだ幸村の禽は、よいしょ、と間抜けた掛け声を掛けて小さいながらも灰の詰まった重い火鉢を置いた。行儀悪く足で障子を開けたのだろう。直ぐに身を返して、開け放していた障子を閉めに行く。
「旦那、ご飯食べてないでしょ。駄目だよ食べなきゃ。それにこんなに寒い部屋にずっと居て、風邪引くよ」
 炭を熾しながら穏やかな口調で言う禽は、返事を期待している訳ではなさそうだ。幸村はああ、うむ、と生返事をして、腕を組んだ。視線の先には変わらずに、懐剣の鞘。
「───隊の連中の行き先、決めた?」
 幸村は顔を上げた。声に違わず穏やかな表情を浮かべた禽は、橙の髪を緩く撫で付けて、少しばかり品が良く見えた。禽なりに、喪に服しているつもりなのか着ているものも忍び装束ではなく、薄灰の着物だ。
 お館様が居れば、と、その姿を眺めながら幸村は唇を噛む。
 信玄が居れば、幸村が黄泉へと発った後も、喩え飛ばない禽でも駆けない狗でも、そっと側に置いてくれた事だろう。禽の魂を損ねない方法で、良いように、生かしてくれただろう。
 それだけの懐の広さを持ち、且つそれだけ禽を慈しんでくれていた。禽に言えば全力で否定するのだろうが、信玄は草の者であるにも拘わらず、この禽を幸村と変わらずまるで息子の様に慈しんでくれていた。
 本末転倒であることは承知している。信玄が居れば幸村もまた、死ぬか生きるか等と思い悩まずに済むからだ。
「ほっといたらあいつら、旦那を追って腹切るからねえ」
 死なすには勿体ない腕なんだし、みんな未だ若いし、生かしてやんなきゃな、と口元に穏やかな笑みを掃いたまま言う禽は、まるで自分はそこに含まれていないとでも言いたげだ。幸村が死ぬにしろ生きるにしろ、自分だけは、共に往けると信じているような。
 あの、介錯をさせてくれと言ったその約束を、その為には幸村が死んでもお前は生き延びねばならないなと言った約束を、禽は忘れてしまったのだろうか。
 所詮口約束で命じた訳ではないのだから強制力はないが、幸村などよりずっと物覚えの良い禽は、いつもならば吃驚するほど沢山のことを、細かに記憶している。
「………前に、奥州に行った時にね、」
 黙り込んでいる幸村に、火を熾した炭をゆるゆると掻きながら世間話の様に禽が口を開く。
「独眼竜から言われてた事があるんだ」
「……政宗殿から?」
 漸くまともに口を開くと、禽はふっと苦笑の様に眉を寄せて頷く。
「もし、武田が何処かに負けるような事があって、旦那が浪人にでもなるならね、独眼竜の所に来いって」
 俺が天下を見せてやるからって、と囁いた言葉は、奥州の竜の口から聞けばどれだけ甘美だったか知れない。けれど禽の穏やかで低い声を通せば、惹き付ける力が削がれた。禽が、そうして欲しいと望んでいるわけではないからだろう。
「………某は、お館様の天下しか、見たくはない」
「うん」
「独眼竜は良い国を造るだろう」
「……そうだね」
「軍神も、───もしかすれば豊臣も、民に悪くはせぬかも知れぬ」
 そうだね、と頷く禽に、だが、と幸村は目を伏せた。ばち、と炭が爆ぜる音がする。
「───だが、それでも、伊達の、上杉の天下がどれほどのものやらと、そう思う気持ちが拭えぬ」
 この禽にとって己が全てであるように、武人真田幸村にとって、武田信玄が全てに過ぎた。おれは為政者には向かぬ、と幸村は静かに思う。
 信玄の造る、民が飢えず何にも脅かされることのない、そんな国を強く望んだ。けれどそれならば、それだけを望むならば、信玄でなくとも民を導いて行ける者であるのなら、天下を獲るのは誰であっても構わない筈だ。望みを託した信玄が倒れた今、奥州王の誘いに応じ竜に望みを掛けても構わない筈だった。
 しかし幸村は信玄の造る国、信玄の獲る天下にしか興味は無かった。それにしか光を見出すことは出来なかった。喩えそれで民が飢えるとしても、死ぬとしても───そんなことは、二の次だった。
 ただ、己が信じ己の全てであった先導者の助けに少しでもなればと、そのために、この命はあるのだと、そう。
 天下を獲った後のことなど、戦の無くなった世のことなど、本当は一つも考えていなかった様な気がした。
「おれはめくらだな、佐助」
「………ん?」
「おれには天下など見えぬ。おれにはお館様しか見えておらぬのだ。そう、気付いた」
 天下を思い描けるような器ではない、と言えば、禽は小さく肩を竦めた。
「別に、いいんじゃないの? 旦那は勘が良いんだから、下手に頭使わなくても構わないって」
 それだけの主に恵まれていたって事なんだし、と寂しく笑う禽に、幸村はふいに胸が詰まって両手を伸ばした。そのまま頭を掴むようにしてぐいと引き寄せると、どふ、と胸に額を打ち付けた禽が妙な呻きを上げる。幸村は構わずに禽が顔を上げてしまわぬよう肩をぎゅうと抱いてその橙の髪に鼻先を埋めた。いつもはにおいのないその頭から、僅かに油の匂いがする。髪を撫で付けていたせいだろう。
「………なあ、佐助」
「はい、なんです?」
 この格好苦しいんだけど、と文句を言いながらも大人しく腕の中にいる禽に、幸村は囁いた。
「お前、独眼竜の所へ、ゆくか」
 もぞ、と動くまま腕を弛めてやれば、乱れてしまった橙の髪を額に落として明るい色の双眸を瞠り、色の無い顔で禽が凝視した。
 息も忘れているようなその顔に、嗚呼、これは約束を忘れていないのだと幸村は思う。ただ、来るなと言わないでくれと無言のうちに叫びながら、笑みの下に怯えをひた隠して忘れたふりをしていただけなのだ、と。
「………冗談、」
「冗談ではない。そうしろと言いはしないが、お前が真田の他に主を探したいと言うのなら、奥州へゆけと、そう命じる」
 政宗殿ならお前に悪くはしないだろう、と言えば、禽は狼狽えたように視線を彷徨わせた。唇が震える。べったりと畳に座り込み、両手を突いている途方に暮れた子供のような様に胸が痛む。いつの間にか酷く細く感じる様になった躯は、幸村がすっかりと大人になった証拠だ。この禽は元々、酷く薄い躯をした男だ。
 
 嗚呼、嗚呼、おれは此れを生かしてやりたいのだ!
 
 躯も魂も心も損なうことなく総て総てその儘に、生かしてやりたいのだ。けれどその為には己が生きていなくてはならない。己が死ねばこの禽の裡の何かが死ぬ。
 父の言っていた事はこれかと幸村は強く眉を寄せた。幼子に言い聞かせるような言葉で、けれどどれだけの難題を残して行ったのだろう。その慧眼に、今更ながらに頭が下がる。
 しかし己はこれ以上生きて居たところで、何をよすがに居ればいいのかが判らない。己には天下は見えない。戦う理由も無くした。戦わぬ真田幸村など、ただ息をするばかりの肉塊だ。理由無くして血を流す程には、幸村は堕ちる気はなかった。一度堕ちればもう二度と這い上がることの出来ない血腥い路であることを、重々承知した上だ。
 それが、己が魂の奥深く、何処か薄暗い所をひやりとした指先で突いていることも、知ってはいたが。
 
 佐助、と呼べばびくんと大きく震えて禽は俯いた。
 幸村はもう一度腕を持ち上げて、その背骨のごりごりとした背を引き寄せ強く抱いた。禽の躯がとても冷たいことに、今更のように気付く。酷く寒がりで火鉢を欲しがるのは、幸村ではなく禽のほうだ。
 
 この禽のよすがは自分なのだと、
 その先に何が無くとも己が居ればいいのだと、
 
 恐る恐ると言った様子で肉の薄い掌が背に回されて、親に縋る子供のように幸村の着物を握った。
「後生です、から。黄泉でも、何処でも、お供させて下さい、………幸村様」
 幸村は強く目を閉じた。
 出会ってから初めて、己が忍びがあわれに思えた。

 
 
 
 
 
 
 
20061203
比目の魚