春日山の狐達を統べる主の事を、かすがは大きくてすらりと美しい、輝かんばかりの銀狐だと称する。
かすが自身も銀狐ではあるが、その毛色は年経て抜けた様な淡い黄色をふんわりと混ぜた白だ。しかし春日山の主は、銀雪の様に混じり気の無い、蒼みすら帯びた白だと言う。それはまた、どれだけ立派な毛皮であろうともちっとも暖かくなさそうだな、と佐助は思う。
対して佐助の主である幸村には、それが大きな白虎に見えるらしい。お館様程ではないが、と前置きをして、それでも大きくすらりとした、神気を纏う虎だと称する。
比較に出されたお館様こと甲斐の虎にも、見た目は白虎だな、と何かを含んだ笑みで答えられた。
奥州の黒龍には彼れは一つも欠けた所の無い鱗が蒼く光る白龍だと言われ、奥州王たる隻眼の青龍はと言えば、面白げにぞろりと並んだ鋭い歯を剥き出して嗤うだけで、答えてはくれなかった。だから奥州では、彼れは龍だと言う事になっている。
しかし佐助には、それはひとに見えるのだった。
他にひとと言えば尾張の魔王くらいのものである。だから彼れは現の者では無いのやもしれぬが、しかしひとに見える、それ以上の事は佐助には判らない。
幸村が下がるのを待ち、こっそりとならばお主には何に見える、と虎には見えていない事が前提の様に訊いて来た信玄にはひとに見える、と答えたが、大虎は面白そうに、お主、目耳と鼻ばかりは本物だな、儂とは逆じゃ、と謎めいた事を言われただけだった。
逆、と言う事は、信玄は心で、魂で、彼の特異な存在を嗅ぎ取っているのであろうかと考えながら、佐助は若い銀狐を侍らし、ゆっくりと杯を傾けながら信玄と話しをしている謙信を見た。
横でうっとりととろけた目でいるかすがには此れは狐に見えているものだろうし、相手をする信玄とその横で真面目くさった顔でいる幸村には、虎に見えているのだろう。だが、佐助には矢張り、ひとに見えるのだ。
かすがや黒龍の言う蒼く輝く輪郭等見えず、幸村の言う気圧される程の神気も知らぬが、目の前に座るのは、ほっそりと小柄の、佐助ですらその気になれば喉笛を噛み切れそうな、しかし実際其れをしたなら腰に下げた刀で一刀に伏されてしまうであろう、僧形のひとだ。
「遅うなってしまったな。寝所を用意させる故」
会話が途絶えた折りに、ふっと夜空を見上げて信玄が言えば、謙信はそうさせていただきましょう、とにこりと微笑み頷いた。その微笑を向けられた信玄に、視線で射殺せる程の憎悪を向けたかすがは、寝所を手伝ってやりなさいと優しく言葉を掛けられた途端、弾んだ声で良い返事をして、ぴょんと立って走って行ってしまった。先程まで真面目にしていた筈の主は、今はうとうとと半分寝てしまっている。
「ほれ、幸村、起きんか。寝床へゆけ」
「………む、此の幸村、お館様がおられる限りはぁ……」
「儂ももう休む。……すまぬな、謙信。先に失礼させて貰うぞ。お主の寝所が出来るまで、そうだな……此の佐助にでも、相手をさせておれ」
「え、」
ぴょんこ、と思わず耳を立てれば、断る間もなく此方を見詰めた謙信に、にっこりと微笑まれて釘付けにされた。耳を立てたついでに伸ばした背が、ざざざ、と毛を逆立てて、またさささ、と静かに戻る。
「おがふとくなっていますよ」
それ程緊張せずとも取って食いなどしないと言う軍神に、けれど二人切りにされて、緊張するなと言う方が無理だ。影から様子を窺っている訳ではない。真正面からやり合えば、此方に分がないのは当然だ。
此方へ、と手招きをされて、幾分か迷い、けれど逆らう術など無く、佐助はそろそろと近くへ寄って腰を下ろした。ほっそりとした手が持ち上がり、額へと触れる。冷たい手だ。
「よいけなみですね」
武田は良い忍びを飼っている、と玲瓏なる声が囁く。
「うえすぎのしのびもみなせいけつですが、おまえはしのびになるためにうまれてきたようなからだをしていますね」
「………はあ、」
忍び、と佐助は首を傾げる。武田の、真田の狐の一族は皆主達とは違う役割を担って住処の土地を、住まう者を守るが、忍び等と呼ばれた事は初めてだ。
上杉の狐達も忍びと呼ばれているのだろうか、と考えていると、謙信がふっと面白いものを見たかの様な顔をした。
おや、と思えば伸ばされた両腕が、首に巻き付く。首筋に溜まる毛に、鼻が埋められた。
「わ、ちょっと、お召し物に毛が付いちゃいますって……」
「なに、おまえはよくけづくろいをしてあります」
毛など抜けませんよと笑って、謙信はゆっくりと佐助の背を撫でた。かすがに見られでもしたら、憤死されそうな姿だ。しかし狐に見えているのならば、鼻を寄せ合って毛繕いでもしている様に見えるものか。虎に見えるならば、まるで食われでもしそうな光景なのだろうが。
「おまえ、わたくしをなんとみます」
「へ?」
「きつねか、とらか、りゅうか、しかか、うさぎか、それとも」
佐助はぱちぱちと瞬いて、鼻先に押し付けられている洗い立ての様な着物の匂いをすん、と嗅いだ。
「ひとに」
「ひと」
「坊さんに見えてますけど」
「そうですか」
ふふふ、と笑う息が耳を擽り、思わず首を竦めれば腕が緩んだ。
「……ねえ、ほんとのとこ、どうなんです」
「ほんとうのところ、とはなんです」
「あんた、何者なん………」
「さっ、佐助ぇ!!」
低く囁いた問いなど掻き消す勢いで響いた怒鳴り声に、佐助はびくんと尾を立てた。ばさばさばさ、と木々で寝ていた鳥達が飛び立つ。
「真田のだ、」
「ぅおのれ軍神!! 確かに狐の肉は美味なものだが、佐助はただの狐ではない!! やらせぬわッ!!」
「いや、ちょっと待って、て言うかあんたさり気なく怖い事言ってるって知ってる?」
「佐助を離せ!!」
「いや、此のひと多分狐の生肉とか食わないから、ってちょっと、ねえ! 煩いって!! 夜中、夜中!!」
実際は虎も寝静まる朝方ではあるが、寝床に移動する間に目が醒めたのだろう幸村の咆哮に首を竦めると、たおやかな手が耳を塞いでくれた。見上げれば、謙信はふふ、と笑い、ゆっくりと身を離して座り直した。
「おまえはよいあるじをもっていますね」
「………そりゃ、どうも。狐獲って食う様なお人じゃないって、信じてたんですけどねえ」
「ばっ、そ、それは、昔の事だぞ、佐助! 今は狐は一切食わぬ!」
「はいはい、食ってりゃ臭いで判るって」
溜息を吐き、幸村の炎の気配に紛れるようにして戻って来た軽い足音を耳聡く捉えてさり気なく謙信から離れると、かすがが白い尾を靡かせながら現れた。
「謙信様、寝所の用意が整いました」
「ごくろうでしたね、つるぎ」
「いいえ、此の程度、何の苦労でもありません!」
さあ此方へ、と若虎と赤狐の存在等ない顔で主を誘い歩き出した銀狐に隣り合い、謙信はゆっくりと森の影へと歩み去った。上杉の者が見れば仲睦まじい銀狐二匹であろうし、武田の者なら白虎とそれに付き従う狐の、まるで自分達主従の様に見えるのだろう。
「無事か、佐助!」
「あ、うん」
駆け寄った幸村に生返事を返して、佐助はもう気配のない暗がりを見詰めた。
「………彼のお方ってば、何者なんだろうねえ」
「何とは、軍神であろう」
きょとんと返した幸村を、佐助は思わず見上げた。幸村は未だどこかあどけなさを残す目で、首を傾げる。
「どうした、佐助」
「いや」
佐助は僅かに笑った。
「旦那はほんと、良い勘してるよ」
「む?」
怪訝そうな幸村に何でもないよと笑って、佐助はじゃあ寝ましょうか、と主を誘った。
成る程、神か仏か、毘沙門天か、と胸の裡で呟いて、けれど己の目には唯のひとに映るのだと、佐助はいつかの信玄の言葉を思い出していた。
20080117
あきめくら
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文
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