ぱっちり、と目を醒ましたら覗き込んでいた乳母と兄の顔が見えた。
ぱあっと明るく泣き笑いになった乳母のみちが弁丸様、と呼び、反対から覗いていた兄はほっと頬を緩ませたもののどこか気遣い気な顔のまま、弁丸の額を撫でる。
「あにうえ、みち」
「弁丸、何処も痛まぬか? おかしなところはないか?」
「弁丸は腹が減りました!」
「何、腹が」
途端吹き出して笑い出した信之は、そうか腹が減ったか、だが先ず粥からだな、とさするように弁丸の肩を撫でた。その手の温かさと優しい動きに首を傾げながら、弁丸は傍らの白髪の老人を見上げる。確か城勤めの医者だ。
「お前、木から落ちたんだよ、弁丸。三日も目を醒まさないから、甲斐にまで早馬を出してしまった。数日のうちに、父上も戻られるだろう」
「えっ!?」
医者に言われるままに舌を出していた弁丸は、目を瞠って兄を見た。兄は可笑しそうに目元を弛めている。
「そんな! 父上にはお役目が!」
「しかし、今は戦もない時期だ。武田のお館様はご慈悲のあるお方であるし、きっと戻って来るよ。覚悟しておけ、弁丸。父上の説教は恐ろしいぞ」
「説教など怖くはありません!」
「おお、それは困るな。怖がって貰わなければ説教の意味がないではないか」
「え、えっと、それは、父上に叱られるのは怖うござりますが、弁丸のせいで、父上とおやかたさまにご迷惑を」
「それだけ心配を掛けたのだよ。佐助もずっと心配をして、この三日お前に付ききりだったのだぞ」
ほら、礼を言いなさい、と示されて見遣ると、布団の足下から更に向こう、部屋の隅に近い灯台の影に、浅い緑の着流しにいつもなら城に居る間は括っている橙の髪をわさりと下ろした忍びが、じっと端座していた。縮こまっているように小さく目立たなく気配もないその姿と影の濃い顔に、弁丸はぱちくりと瞬く。
「さすけ」
僅か、佐助が俯いた。かと思えばきっと上げられた顔にはありありと怒りが浮かんでいて、弁丸は兄に支えられて上げていた頭を反射的に逃げるように逸らした。
「この、馬鹿野郎ッ!!」
まさに雷が落ちたかのような怒鳴り声に、来るのを判っていたというのにびっくんと震えた弁丸だけでなく、支えていた兄も、医者も、医者を手伝い手拭いを絞ってたみちも、一様に竦んで忍びを見た。果たしてこれがいつもは穏やかに、愛嬌良く笑っている少年の細い躯から発せられた声なのかと信じられない思いで三者三様に目が向く中、弁丸だけがあわあわと両手を彷徨わせる。
「さ、さ、さすけ、今は夜ではないか? もう少し静かにせねばみなが起きてしま、」
「あーあー夜中だね!! 城中があんたを心配して眠れずにいるから心配は無用だよ!! ていうか俺言ったよな!? 柿の木は脆いから勝手に登るなって言っただろ!? なんで言うこと聞けないんだこの馬鹿主ッ!!」
「だ、だって、さすけはそれがしよりおもたいのに平気で登るじゃないか。ちゃんと、さすけが登ったことのある木を選んで……」
「ほんとに馬鹿だなあんた!! この俺様とおんなじにあんたが登れるわけねえだろ!? 登りたいならちゃんと登れる木を探してやるから待ってろって言ったじゃないかよッ!!」
「さ、さすけ」
ぽんぽんと罵声の飛び出す赤髪の忍びにぱちぱちと瞬いて、弁丸はあわあわとしたまま飛び起きた。そのまま兄の腕を抜け這いずって布団の端まで行く前に、あーあー何してんのと再び怒鳴りながらもさっと寄った忍びの手が支える。
「急に起き上がるんじゃないよ! 頭打って三日も目が醒めなかったんだぞ!? これ以上馬鹿になったらどうするんだよ! 眩暈は!? 吐き気とかないの!?」
「さすけ、平気だ、だから心配するな」
「心配してんじゃなくて怒ってんの!!」
「うん、それがしがわるかった。だから泣くな」
ぴた、と息を呑んだように唇を閉じて、よくよく見なくては判らないほど静かに、はたはたと涙を落としていた忍びが、黙った。弁丸は眉尻を下げてその顔を見上げる。
「わるかった、さすけ。ごめんなさい。泣かないで」
「…………、」
先程のように小さく端座したまま俯いて、ゆるゆると両手が顔を覆った。背を丸め声もなく震えている忍びの己よりもずっと広い肩に両腕を回してぎゅっと抱き締め、弁丸は何度もその背を撫でる。
ごめんなさい、と何度も繰り返して囁ければ、やがてぐす、と小さく鼻を啜った忍びが、うん、もういいよ、と小さく優しく呟いた。
「あー、頭痛い」
「さすけ、泣き過ぎだ」
「眠てえ」
「寝れば良いではないか」
「あんたのお守りしなきゃいけないのに寝とぼけてらんないでしょうが」
「それがしのせいか」
「他に誰のせいだってんだよ」
ぎろりと睨まれてごめんなさいと素直に謝り、弁丸は濡れ縁に胡座を掻いている佐助の隣にぺったんと座った。今日の佐助は武士の子のように袴を付け、癖の強い橙の髪はぎゅっと引っ詰めて結い上げている。城にいる間、つまり弁丸といる間は、佐助はいつもこうして武士のような格好をする。
もう二年ほどの付き合いにはなるのに、佐助の忍び装束姿を、弁丸は片手で数えるほどしか見たことがない。
「昌幸様は明後日の夕刻には到着なされるそうだよ」
「甲斐にそのままお戻りにはならなかったのか」
「上田まで戻らせといて蜻蛉返りさせる気かあんたは。なんて親不孝なお子だろう」
「そ、そういう意味ではござらん! それがしのために、父上のお役目がだな、」
「まあ、精々お説教してもらってよ。俺が言っても聞かねえからな、弁丸様は」
けけ、と歯を見せわざとらしく意地悪く嗤った忍びに、弁丸はぷうとむくれて垂らした足をぷらぷらと揺すった。
「さすけぇ。それがし団子が食べたい」
「まだ駄目。お医者がいいって言ってからね」
「もう元気だ」
「昨日起きたばっかで何言ってんの。ほんとはまだ布団で寝てなきゃいけないってのに」
「だってつまんないんだもん」
三日も目覚めなかったと言われたところで弁丸にしてみればよく寝てすっきり目が醒めた、という程度の自覚しかない。吃驚するくらい大きかったというたんこぶも寝ている間に綺麗に腫れが引いて、今は触ってもほんの少し裂傷の跡があるだけだ。大して痛くもない。なのにただ怪我人なんだから寝ていろと言われても、承知しかねるのだ。粥ではなくきちんと飯を食い鍛錬もしたいのを我慢しているのだから、少しくらい我が儘を言ってもいいと思う。
などと正直に言えばまた佐助に叱られるだろう。今度こそ鉄拳制裁が出るかも知れない。他の者の前では猫を被っている様子だが、割に、この忍びはよく怒鳴るし手が早い。
勿論、弁丸が叱られて然るべき悪戯やへまをしたときだけの話だが。
「そんなに閑なら兵法の勉強でもしたらあ? 先生呼んで来てやろうか」
うええ、と厭な顔をして弁丸は肩を竦めた。
「遠慮するでござる」
「弁丸様が遠慮か! 似合わないなあ、こりゃいいや」
「なにがいいのか判らんでござる。全然よくない。用兵がへたくそだと叱られるから厭だ」
「ってちょっと、そこが下手でどうすんだよ、未来の武将が」
「それがしはお館様のお役に立てればそれでいい」
「いや、だから、お役に立つ為になあ………まあいいか」
はあ、と溜息を吐いて面倒臭そうに肩を竦め、佐助は胡座の膝に頬杖を突いた。
「あんたは将来戦場に出るんだもんな」
「無論だ! 早く出たいくらいだ!」
「元服も済んでないのに何言ってんの。ていうか木から落ちて死に掛けるようなお人は駄目です」
「さすけ、しつこい」
へへえ、と笑って、忍びはふと首を傾げるようにして空を見た。天守の方だ。
「………俺、あんたんちの紋は好きじゃないな」
「え? 六文銭か?」
不敬を咎めずに瞬き、弁丸は眉を下げる。
「どうして?」
「死にに行く為の紋だろう」
「死にに行く紋ではないぞ! ふしゃくしんみょう、即ちしんみょうを惜しまず」
「あー、受け売りはいいの」
ひらひらと片手を振って、佐助はつまらなそうにどこか重たげな瞼を更に目に被せた。酷く眠そうな、うつらとした表情に括りきれなかった髪が掛かる。
「あんたは、武田のお館様の為になら死をも恐れず戦う覚悟だろ?」
「無論!」
「死にに行くってことじゃないか」
「………ううん?」
「身命を惜しまずというのはそういう事だよ。己を生かす方を知らない者程使えない者もないね」
お武家様としては立派かもしんないけど、といつになく愚痴の色の濃い佐助に、弁丸は首を捻る。
「忍びのほうが、命を大事にしないって……」
「忍びは臆病者ですよ、弁丸様。もちろん命を使って得られる結果が必要だったり、命を使ってでも賭けに出なくてはならない時なんかは躊躇いはしませんが、お武家様の様に誇りやしがらみで命を落とすことはしないよ。忍びは道具だけどね、生きて動く道具だから壊れたらちょっと修理が利かないし、新しいのを作るのに、結構時間も金も掛かるんだ。死に時を過っても別に誰も惜しみはしないが、でもいい使い方をした方が得だよ」
俺は武家にはなれないなあ、とぼやいて目を閉じてしまった佐助に、弁丸はうう、と呻いて頬を掻いた。言葉の端々を咎めて言いたいことは色々とあったが、愚痴に文句を付けても仕方がない。それよりいつもは飄々と大人びているこの忍びがどうしてこれほど拗ねているのか、それが判らない事の方が問題だ。
「そ……それがしは、戦場に出てお館様の力になって、お館様のご上洛をこの目で見るのだ」
「あ、そう」
「だ、だから、そう簡単には死なぬ! それがしは死なぬぞ、さすけ!」
「そうしてくれると有難いね。こんな心臓が潰れそうな思いを何度もしてたら、ほんとに胸が潰れてあんたより先に俺が死んじゃうよ」
吐く息に交えて一気に洩らされた言葉に、弁丸はぽかんと目を丸くした。佐助は変わらずに目を閉じ頬杖を突いたままだ。その疲れた顔に隈が浮いている。
三日、ほとんど寝ていないのだ。飯を食っているかも怪しいからと、恐縮する忍びを無理に弁丸と共に食事を取らせたのは兄だが、成る程、必要な事だったのかも知れない。
「さ、さすけ、ちょっと待ってろ!」
言ってぽんと濡れ縁を飛び降りると、ちょっと走らないでよ! と叱る声が追ってきた。それに構わず弁丸はばたばたと、先日落ちた柿の木を目指す。
見れば、散らかっただろう葉や枝は綺麗に片付けてあったが、確かにばきばきと枝が折れていて、生木を晒して痛々しい。
弁丸はきょろきょろと周囲を見回して誰もいないのを確認し、よし、と頷いて柿の木に手足を掛けた。
「さすけえ!」
色濃い気配が近付いて、ぱたぱたと戻って来た主の声に佐助は瞼を上げた。途端その腕に抱えられた艶のある実に、ぎょっと目を剥く。
「ちょ、弁丸様、それ」
「今日は落ちなかった!」
「そう言う問題じゃねえだろ!?」
馬鹿かッ、と怒鳴ると少し首を竦めて、けれど弁丸は物怖じせずに堂々とした表情で近付いて来た。何をどう言えばいいのかと迷っている間に、手を取られて掌へとぽんと柿が乗せられる。それから弁丸は少しばかり困った顔をして、佐助の胡座の間に残りの実を落として柿を握らせた手を両手でさすった。
柿を握らされた手が、震えていた。
「………あんまり無茶をしないでよ。心臓が潰れちゃうよ、弁丸様」
「でも、木登り禁止なんて、さすけは言わなかったぞ」
「だから、俺が見てるときだけにしてくれよ。見てなかったら、危ない時でも助けてあげられないだろう」
「じゃあ、次からはそうする。だからさすけはずっとそれがしと一緒じゃなきゃ駄目だぞ」
怪訝に見上げると、主はにかっと満面で笑った。
「さすけは戦忍なんだろう?」
「……昌幸様にでも聞いた? まあ、戦うのがほんとのお仕事ですけどね」
「それがしの忍びだから、さすけは戦忍だと父上がおっしゃっていた。他の忍びは真田にも武田にもいっぱいいるから、それがしと一緒に行く忍びは、戦う者でなくてはって」
佐助は僅かに眼を細めて笑う。成る程、忍ぶには向かないこの容姿の、一見忍びとしては不向きな自分が正室の子でも跡取りでもないとは言え、若君の側に上げられた理由が判った。
この、将来確実に武将となって戦場を駆ける主に生涯掛けて付いて行くならば、確かに戦う者でなくてはならないだろう。彼の働きは戦場にあるのだ。その場に共に参じる事が出来なければ、助けになることは出来ない。
「だから、さすけが一緒に居れば良い。それがしが馬鹿をしそうになったら、さすけが見ていて止めてくれれば良い!」
「え、何その他力本願」
「そうすればさすけも怖くないだろう?」
首を傾げる様に、ええ? と下手な笑みを見せて、佐助は僅かに黙った。
「………なんか、幾つ心臓があっても足りない気がしてきたぞ」
「大丈夫だ! さすけは強いから」
「何、その宛てのない保証」
「それがしも強いし!」
「うわ、自信満々だねえ、弁丸様」
「さすけが一緒なら、命の無駄遣いをしなくて済むんだろう? それがしは身も命も惜しむつもりはないけど、でも佐助がそれは無駄死にだって思ったときには、ちゃんと言うことを聞くぞ」
だってそうじゃなきゃお館様のお役に立てない、とにんと唇を引いて笑う幼い主に、佐助ははは、と力の抜けた笑いを洩らした。
「参るな、弁丸様」
「む。参ってもらってはこまる」
「じゃあ、弁丸様は、武士の心と忍びの頭を持ってお館様のお役に立つんだね」
「うむ」
「無敵じゃないの」
「うむ!」
まだ手をさすっている、まめだらけの手が温かい。子供の小さな手だというのに、ごわごわと皮の厚いそれは日々の鍛錬の賜だ。いつか死に行く為の、それまで生きる為の鍛錬だ。
「………判ったよ、弁丸様。付いてくよ」
だから兵法くらいちゃんとしてよね、と小言を言えば、幼い主は真っ赤になって狼狽えた。
20061202
黄金のろくでなし 大いに結構!! 進め!!
I CAN BE SHIT, MAMA/THE YELLOW MONKEY
文
虫
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