「嫁御を?」
 間抜けた顔でぽかんと返すと、佐助はうん、そう、とこくりと子供か動物の様なあどけない仕種で頷いた。
「結婚したい子がいるんだ」
 幸村は幾度も瞬いた。夢かと思うが醒める気配はなく、持ち上げた指で己の頬を抓れば目の前に座った佐助が変な顔をした。無論、痛い。
「旦那、旦那。痣になっちまうよ。夢じゃないから」
「……その様だ」
 幸村は手を下ろし、手持ち無沙汰に座り直して意味もなく咳払いをした。
「その……佐助」
「勿論、忍びが婚姻なんて馬鹿げてるってのは、判ってる。籍だって無いし、だから真似事でしかないんだけど」
「お前の身元ははっきりとしておろう」
「そうは言っても、所詮地侍だぜ。それに、甲賀者となった時に、そっちの方では俺は死んだ事にされてるからね」
「……初耳だぞ」
「言う必要も無かっただろ。今となっては、親類縁者が残る訳でも無し」
 お家断絶って奴、と肩を竦めて、佐助は僅かに小首を傾げた。
「だからね、せめて旦那に、許可を頂きたくて」
「おれの……許し等得ずとも……」
「だからって、お館様になんてのは、筋が違うだろ。家族を持つってだけの話で、別に仕事だって今まで通りだし、何にも変わる事なんかないんだけど」
 幸村は口を噤んだ。仕事の上では何も変わらぬ、それはそうだ。守らねばならぬ者が出来る分、より一層身を入れて働く様になるのかも知れないが、佐助は芯からの忍びである。身内よりも任務を優先させる、それも今までと変わりがないだろう。寧ろ、家族となる者が、些か不憫に思われる程だ。
「……一つ、条件がある」
「何?」
 佐助は背筋を正して言葉を待っている。いつになく神妙な顔だ。
 嗚呼此れは本気なのだ、と小さく溜息を吐いて、幸村は表情を引き締めた。
「嫁御を、大切に致せ」
「それだけ?」
「それだけ、等と言える軽い事ではないぞ。嫁御の為に働き、嫁御の為に生きよと言う意味だ」
 佐助はぱちぱちと瞬き、それからそれは無理だ、とあっさりと首を振った。
「何故だ。家族を持つのだぞ」
「そうだけど、俺の命は旦那の為にあるんだよ。あんたの為に生きてあんたの為に死ぬのが、俺達真田忍びの役目だ」
「それは真田忍びの事だろう。嫁御には何の……」
 言い掛けて、幸村ははたと口を噤んだ。
「………もしや、」
「嗚呼、うん。隊の子だよ」
「何だと」
「駄目かな」
「誰だ。おれの知る者か」
 知ってるかな、と首を傾げて、佐助はちゃこだよ、と馴染みの無い名を口にした。
「ちゃこ」
「そう。二年くらい前から、ちょいちょい手伝いに来てる子だけど、普段は里に居たからね、旦那は馴染みがないかな」
「……未だ半人前であると言う事か」
「いや、技は一人前だけどね、躯も小さくて弱いんだ。白子なんだよ。髪の色が灰色っつうか、茶色っつうかね、目玉の色も薄いし」
「まさか、だから茶子、」
「そうそう」
 顔を顰めれば、忍びの名前なんてそんなもんだって、と佐助は笑った。
「そもそも物にもなりそうにもねえようなのはね、ろくな名前で呼んじゃあ貰えねえのよ」
「しかし、技は一人前なのだろう」
「うん。天稟は有る様に思ったから、師匠にも付けて貰えてなくって雑用ばっかさせられてたけど、里に行く度ちょいちょい俺様直々に鍛えてやってたし、彼れは戦忍にしろって、上の連中にも言っといたし。こないだの戦から、正式に隊に迎えたんだけど」
「それは、お前の嫁御にする為に」
 違う違う、と手を振って、佐助は表情を改めた。
「私事を仕事に持ち込む様な事は、しねえよ」
「それは、判ってはおるが」
「真田忍びにならなくても良かったんだ。里の奴らは、彼れの弱さでは真田忍びは務まるまいってね、言ってたし。それを選んだのは、ちゃこだよ」
「お前が居るからか」
「違うよ」
 あんたが居るからだよ、と真顔で言った忍びに、幸村は不可解に首を傾げた。
「しかし……お前の嫁御であろう」
「ばか。それと此れとは関係ないでしょ。よしんばちゃこがあんたを好きだったとして、あんたの嫁御にゃなれんでしょうが」
「む、そ、それは」
 何気ない失言に赤面して、幸村は慌てて手を振った。
「すまぬ、妙な事を言った」
「良いけど。……まあ、つまり、手伝いに来ている間に、真田幸村なら主として不足はないと、そう思われたって事です」
 ふと頬を弛めた佐助に、そうか、と頷き、幸村は顎を引いた。
「ならば、その忠義に応える為にも、精進せねばな」
 佐助は何が嬉しいのか、目を細めて笑う。
「そうだね。旦那がそう言うお方だから、あいつらも皆付いてくんだよ」
「お前もか」
「ん、うーん……どうだろうね」
 曖昧に肩を竦めた佐助にそれ以上追及せずに笑って、幸村は話は終わり、と一つ頷いた。
「嗚呼、佐助」
 軽く低頭して立ち上がり掛けた忍びを呼べば、首を傾げた佐助は再び膝を落とした。
「何です。未だ何か?」
「いや、うむ……その」
 ごほん、と態とらしい咳をして、幸村はじっと見慣れた忍びの顔を見る。普段と何も変わりがない。幸村よりも若くも見えれば、十も年嵩にも見える、歳の判らない男だ。
「…………幸せになれ」
 言葉を探し、結局陳腐な祝福しか浮かばずに、言い慣れない言葉を歯の浮く思いで告げれば、佐助は大きく瞬いて、それから何故か、くしゃりと顔を歪めて無理矢理に笑い、黙って頭を下げた。
 
 
 
 
 
 佐助の言葉通り、それからも何も変わる事はなかった。
 佐助は一日の休みも取らず翌日から普段通りに仕事をこなし、甲斐へと使いに出しても厭がりもせず、帰りも急ぐでも無く寄り道をして、幸村へと甘味を買って帰った。
 ただ、聞けば祝言を、と言い出した彼の日から、数日ばかりは夜の勤めを辞して屯所に引き籠もって居たと言うから、嫁御と全く語らいを持たずにいた、と言う事ではないのだろう。
 昔馴染みの男の、己には未だ想像すら付かない家庭と言うものに気を向ければ酷く浮ついた奇妙な気分も味わったが、しかし態度の変わらぬ佐助を見れば、その気持ちも落ち着いた。
 ふた月ばかりそうして日が過ぎて、久し振りに甲斐から手合わせをしたい、出ては来ぬかとの文を授かり、意気揚々として出発の準備をしていた夜に、幸村はふと、傍らで荷物を改めて居た佐助を見遣った。
「そう言えばお前、お館様には報告したのか」
「へえ?」
 ぱちぱち、と瞬いた佐助に、此の調子では何も言ってはおらぬな、と一つ眉を顰め、幸村は溜息を吐いた。
「ちゃこの事だ」
「嗚呼、」
「言うておらぬのだな」
「まあ、そりゃ」
 仕方のない奴だ、と溜息を吐いて、幸村はぎ、と槍へ被せた革の鞘の紐を縛る。
「では、此の機会におれから報せよう。構わぬな」
「え、良いよ」
 幸村は眉を吊り上げた。
「何が良いものか! お前、お館様に普段どれだけ目を掛けて頂いているか、」
「いや、そうなんだけど、もう良いんだって」
「もう、とは何だ!」
「死んじゃったから」
「死ん───」
 怒鳴り掛けた言葉を、幸村は息ごと喉に詰めた。硬直した主を余所に、佐助は静かに胡座を掻いた姿勢でいる。
「何だと、お前、いつ………何故おれに」
「下忍の一人二人死んだとこで、一々あんたにご報告申し上げは、しねえだろ」
「しかし、お前の嫁御であろう!」
「関係ないよ」
「お前───!」
 かっと激高し、幸村は身を乗り出して佐助の胸倉を掴んだ。
「関係の無い事など、あるか!! 他の者ならいざ知らず、佐助、お前の嫁御であろう! お前の家族であろうが!! お前、おれが、それ程薄情に思うて───」
「ち、がうよ、旦那、そんな事、思ってなんか無い」
「何が違うと言うのだ!! お前は、おれが、どんな気持ちで……いや、お前、どんなつもりで、嫁御など!」
「───惜しんだからだよ」
 胸倉を掴ませたまま、佐助は俯いた。近く寄せていた顔に、橙の柔らかな猫毛が触れる。
「何を惜しむと、」
「………あの子の気持ち」
 幸村は強く眉を寄せた。胸倉を掴む手はそのままに、幾分か弛めて乗り出していた膝を進め、寄り添う様にして、旋毛を見ながら低く囁く。
「ちゃこは……いつ、何故」
 佐助は暫し沈黙し、それからふた月前、と答えた。
「あんたに、祝言を、て許しを得てから、四日後に」
 幸村は大きく瞬いた。
「何だと……祝言を上げて直ぐに、死地へでも向かわせたのか。……しかし此の間の戦の後からは、さほど大きな動きは、何も」
「だから、」
 忍びの声が、普段よりも随分と細く、頼りない。
「彼の戦の傷で」
「佐助、お前」
 幸村は胸倉から手を離し、そのまま平たい肩を掴んだ。俯く顔を覗き込む。
「死に逝く者の、願いを叶えてやったのか。好いておると、応えて欲しいと、そう乞われたのか」
 そうなのだな、と確信を持って断じれば、佐助はゆるゆると頭を振った。
「違うんだ、……旦那。あの子が好きだったのはね、あんたなんだよ」
 意味が判らず、幸村は眉を顰めた。佐助は俯いたまま、訥々と続ける。
「忍びだって、女は女だ。彼れは己の醜さを気に病んでいた。二年前に手伝いに出て来た時は、元々見窄らしい形してんのに、武具を仕立てる金も持ってねえし、そりゃもう襤褸襤褸でさ。隊から忍び装束は渡されてるけど、寸法だって合わねえし、それを直して欲しいって頼む事も出来ねえでさ、自分で直すもんだから、またちぐはぐで可笑しい事になっちゃってて、ほんと、笑えるくらい滑稽な奴だった。だけどその次に呼んだ時は、髪も梳いて、装束も改めて、紅なんか差してさ……痩せっぽっちの餓鬼だけど、膚だけは白えからね。別嬪にゃ程遠かったけど、まだ見れる様になっててさ、戦に借り出されてるってのに……何でか判る?」
「……いや」
 幸村は頭を振った。佐助は俯いたまま、ふ、と口元で笑う。
「前の戦で戦うあんたを見て、なんて綺麗なお方だろうって、いっぺんで惚れちまったんだってさ」
 そんなお方の元へと参じるのに、見窄らしい己が居たでは恥ずかしい、釣り合う様に等と恐れ多い事は言わぬが、せめて見窄らしい忍びを飼うものよと、主が陰口を叩かれる事のない様にと。
「女ってなあ、怖いねえ」
 一途な健気さをそう評して、佐助はまた笑った。幸村はゆっくりと力を込めて肩を引き、その顔を上げさせる。佐助はふた月前の夜と同じ様に、くしゃりと顔を歪めて無理矢理に笑った。
「勿論、あんたと直接まみえるなんて事も、夢にも思った事はねえ筈だよ。実際、あんたは彼れを、知らなかったろう?」
「……そうだな」
「それに、不満があった訳でもねえよ。真田忍びになれた、それだけでもう、天にも昇る気持ちだったんだろうな」
 しかし天稟があるだけはあって、決して手柄に逸った訳ではなかった、と佐助は言った。
「彼れは女だったけど、忍びだった。だからね、己の役割を果たしただけだ。自らの命の使い所がたまたま真田忍びとしての初陣だった、それだけだ」
 そしてたまたま命を拾い、けれど最早助からぬ傷を負って、此の上田に戻った、それだけの事だ。
「……俺が訊いたんだ。死の床で、最後に一つ、どんな我が儘でも良いから叶うとしたら何が良いって、訊いたんだよ」
 お嫁さんになってみたい、と、まるで少女の様な事を言った、実際未だ少女であるくのいちに、この期に及んでも主と添いたい等とは夢にも言えぬ人ならざる身に、頷く義務は無論、無かった。長たる佐助が、瀕死の下忍の譫言に、付き合ってやる義理もまた、無かった。
「俺が、叶えてやりたかったんだよ」
 幸村は黙したまま、再び視線を落とした佐助を見詰めた。憐憫か、恋情か、それは知らぬがしかし、何某かの動揺を覚えたからこそ、最早死に逝くしかない娘の願いを聞いたのだろうと、そう思う。
「最期の夜にね、もう彼れは朦朧として何も判らなくなってて、俺があんたに化けて頭を撫でてやったら、判んねえ癖に、襤褸襤褸の顔で笑ってさあ、」
 ひとつ、息を止める様に言葉を詰めて、それから佐助は溜息の様に囁いた。
「長様、て呼んだ」
「───馬鹿者!!」
 それ程までに心を砕かれ、心を寄せぬ者等ある訳がない。
 幸村は佐助を掻き抱き、乱暴に胸に抱き締めた。
「泣く程後悔するなら、馬鹿な真似をするな!」
 抱き寄せた背が震える。縋る事も知らずに膝に押し付けられた手に、ぽつりと涙が落ちた。
「………女ってのは、怖いよね。何でも知ってやがるんだ、あいつらは」
「馬鹿、そうではなかろう。ちゃこは、お前の心に応えたのだ。心を砕いたお前に」
 佐助は緩く頭を振った。ず、と鼻を啜る。
「ちゃこはね、こう言ったんだ」
 幸村は腕を弛め、胸に抱え込んだ頭を見下ろした。ずる、と額が滑り、橙の細い髪が胸元に散る。
 膝に置かれていた手が床に落ち、まるで悔いる者の様に丸まっていた背が、ますます小さくなった。
 
 ───うらやましい、おささま
 
「彼れと俺は同じ穴の狢だったんだ。だから、あいつが痛めば俺も痛い気がして、傷を舐め合うつもりだったんだ。浅ましいよ。ちゃこの為じゃねえよ。単に、俺が」
「佐助」
「あいつは俺の醜さを知ってた。俺がちゃことは違うって事も、浅ましい同情も優越感も知ってた。知ってて、それで───赦したんだ、彼れは、」
「佐助!」
 優しい女だった、と囁いた言葉に被せて強く名を呼び、幸村は肩を掴んで引き剥がし、涙声の様子からすればささやかに過ぎる一粒の涙の筋だけを残した顔を見詰めた。
「───何だ、同じ穴の、とは。お前とちゃこがまるで違う等、当然だろう。寧ろ似ている所を探す方が難しいではないか。なのに」
 嗚呼、と喉奥で呟いて、ふいに佐助は口元ばかりに笑みを乗せた。乾いた目に盛り上がった涙が、そのままぼろりと慌てた様に頬を伝い、あっという間に落ちて消える。
 
「あんたはなんて、綺麗なお方だろう」
 
 じっと奇妙な笑みに顔を歪めた忍びを見詰め、それから幸村は今度はゆっくりと、けれど力強く痩身を抱き寄せ、柔らかな橙の髪に頬を付けた。祝言を上げたい等と、もう二度と此の男の口から聞きたくはないと思う。
 それからほんの少しだけ、なんと浅ましい男だろうと幸村は思った。涙一つで幸村の安堵と安定を呼び起こし、死んだくのいちへと対する罪悪感を共に掻き立て共有させた。それを全てとは言わぬが、けれど確実に、胸の裡の幾らかで、打算をして涙を見せた。
「───お前は卑怯で、浅ましい」
 囁けば、小さく頷きが返される。幸村は眉を顰める様にして、苦笑した。
「おれの自慢の忍びだ」
 他の誰の物にもなるなと囁いて、返事がないのを承知で幸村は、ひやりと冷たい耳を噛んだ。

 
 
 
 
 
 
 
20080218
惑わしの悪魔