足下の白砂がさらさらと崩れる。
着替えた覚えもないのに戦装束はいつの間にか失せて、得物のひとつも携えてはいない。ぼんやりと光満ちる世界を眺めてふと振り向くと、大きな大きな川が横たわっていた。
「旦那、どうぞ先へおすすみなせえよ」
向こう岸が見えない、けれどそのさらさらとした流れは海ではない、美しく澄んだ水に小舟を浮かべた船頭が、視線に気付いたのか細い煙管を口から放して光に白く姿を隠す道の先を指差した。だいぶん距離はあるようにも思えたが、けれど酷く身体は軽い。重い鎧を纏って行軍することを考えれば、いくらでも、どれだけでも歩いて行ける気はした。
だが。
「市は」
船頭は、ええ、と僅かばかり頓狂な声を上げ、それから渋く歪めた口にぱくりと煙管を咥えた。
「いいから、旦那、あの明るいほうへ早くお行きなせえ」
「しかし、市を待たねば」
「ひいさまなら疾っくにここを抜けて行ってしまいましたよ」
どこへ、と尋ねると、ひいさまのゆきさきへ、と答えて船頭は目深に被った笠を更に引き下げた。口元は苦く歪んだままだ。
「どうしても奥方を追いたいとおっしゃる」
「無論だ! 市は私の妻なのだ。一人にしてはおけぬ」
泣いておるやもしれぬ、と先だって酷く冷たい言葉を掛けたままだったまだ幼き妻を思い俯くと、船頭は深々と溜息を吐いて、仕方がありませんなあ、と先程とは反対の方向を指差した。振り向く。そこにも道は続いていた。けれど拳大の石がごろごろと転がった乾いた地面はひび割れて、草の一本もないその先は、そこだけ先に夜闇に侵されてでもいるように、ただただ暗く、何も見えはしなかった。
酷く腥い風が吹いた。
「………市!」
「ご覚悟召され、殿」
囁く船頭の声はもはや聞いてはいられない。あの闇の裡、あの腥い風の向こうに妻がいるというのなら、その手を取って先程は済まなかったたたかいに気が立っていたのだ許してくれ泣かないでくれと、涙を拭ってやらなくてはならないのだ。
今まで一度もしたことがなかったそんな軟弱な心の裡を赤裸々にさらけて慈しむことも、今なら出来る気がしていた。
今、この、酷く軽い身体でなら。
うつくしく輝く光を輪郭に纏わせた高潔な男が地獄の住まいに戻ったばかりの女を追って駆けて行くのを眺め、その光が容易く闇に飲み込まれるまでを見送って、船頭はひとつ溜息を吐き、ぎい、と船を出した。
20061030
初出:20061006
文
虫
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