件      の      如      し

 
 
 
 
 
 

「入んなよ、真田の旦那」
 戸を叩こうと上げ掛けた手を制する様に、中から掛けられた耳慣れた、けれど久々に聞く声に、幸村はうむ、と呟いた。がらりと戸を開ける。
「久し振りだね、旦那」
 どうしたの、と笑う顔は、戦いと任務に明け暮れた苛烈な生活を離れたせいか、痩けていた頬が少しばかり肉付きが良くなって、青白かった顔色も、幾らか血の色を透かす様になっている。
 そのせいか、幾らか若返って見える己が忍びに、いや、何、と幸村は微笑み、促されるままに部屋へと上がった。佐助は傍らの手拭いを取って徐に手を伸ばし、火鉢の鉄瓶を掴むとやはり傍らに据えてあった急須に湯を注いだ。用意されていたらしいそれは、幸村の来訪の予感してのものだろうか。
「……今でも、忍び隊の者が、面倒を見に通っているのか?」
「いや、もう平気だし、断ったよ。全盲ってもね、こう、ものの輪郭は薄らぼんやり判るし、何たって俺様は猿飛佐助だぜ。目なんか見えなくたって、普通に生きてく分にゃ、何の問題もねえよ。ただ文が読めねえけど、下手くそで構わねえなら、書くのも出来るし」
 しかし、と言えば、変な顔すんなよ、と佐助は笑った。思わず頬を擦ると、またくつくつと笑われて、しっかりと此方を見据えている様にも思える色の薄い目を覗き、幸村は首を捻る。
「お前、もしや本当は、見えておるのではないか」
「まさか。だったらお暇頂いたりは、しませんよ。俺様は、働き者だったろ?」
「だが」
「旦那の気配なら、十里離れてたって判るんです」
「真か!」
 今度こそ吹き出して、佐助は顔を押さえて笑った。
「まさか! 判るわけないっしょ。烏が知らせてくれたんですよ、客があるって。それだけですよ」
 憮然とした幸村を、まあまあと宥めて佐助は淹れた茶を、つ、と押し出した。礼を言って湯呑みを受け取り、がぶりと呑むと急に喉の渇きが意識されて、幸村は湯呑みを一気に空にした。佐助が溜息を吐く。
「火傷するよ」
「大して熱くもないではないか」
「そりゃ、ぐらぐら煮立った湯じゃ、ないですけどね」
 やれやれと肩を竦め、二杯目を淹れながら、佐助はそう言えば、と軽い調子で口を開いた。
「戦があるって?」
 うむ、と頷き、幸村はふと居住まいを正した。
「大阪へ、攻め入る」
「そりゃ、また……遠いね」
「しかし、天下を獲るならば、避けて通れるものでもあるまい」
 そうだね、と呟く様に言って暫し沈黙し、佐助は軽く首を傾げた。
「豊臣が、身軽にあちこち出没出来る理由って知ってる?」
「いや」
「土地土地で、兵を徴集して、地元の人間を使ってその国を獲ってんの。現地調達ってわけ。六割は自軍兵だけど、残りを現地で召集すれば疲弊もないし、裏切りに気を配らなきゃないけど、それさえ何とか出来れば、土地勘もあるし事情にも通じてるしで、此れ以上の事はないよね」
「………どうやって、裏切りや内通を防いでいるのだ」
「電光石火の早業で、……と言いたいとこだけど、電光石火ってんなら、織田に一歩も二歩も劣るよ。多分、その巧い匙加減が、軍師の力って奴じゃない。ただ豊臣は元々の国が無いからね。そう言う意味で身軽だし、身の卑しい者も能力さえあれば取り立てるし、何より報奨金がね、いいんだよね」
 ふむ、と腕を組み、幸村は顎を引く。
「しかし、だからと言って、武田がそれを真似る事は、出来ぬだろう」
「そうだね」
「ならば、豊臣がどうあろうが、気にしても始まらぬ。そもそも此度は、此方から攻め入ろうと言うのだ。豊臣の侵略術に、惑う兵はおるまい」
 そうだね、ともう一度頷いた佐助の、妙に穏やかな笑みに幸村は怪訝に眉を顰めた。
「佐助」
「うん?」
「どうかしたのか。何か、気に掛かる事でもあるなら、お館様にお伝えするが」
「お館様には、いいよ。でも、旦那」
 何だ、と問えば、佐助は胡座を解いて身を起こし、片膝を突いた。
「今度の戦、旦那は行っちゃ駄目だよ」
 幸村はぽかんと瞬いた。
「な……何故だ? 訳を言え」
「行ったら、死ぬよ」
「何?」
「大阪なんて、遠過ぎる。そんな遠い所で死ぬなんて、寂しいじゃないの」
 軽い口調に、呆気に取られていた頭が回り始めた。途端むっと気を損ねて、幸村は眉を顰める。
「巫山戯た事を申すな」
「至って本気ですよ」
「お館様に何と申すのだ! そもそも、真田が旗印の意味、知らぬお前ではなかろう。武田の為に、お館様の為に身命を賭して戦うは、此の幸村が本望ぞ! お前の口出しする事ではないわ!」
 声を荒げ、血の上った頭を冷やす様に荒い息を吐くと、佐助はやれやれ、と肩を竦めた。
「そう言うと思った」
「佐助」
「でも、行かせないよ」
 言うが早いか、腰の後ろ、帯の結び目の辺りにつと這わされた手が翻り、ひゅ、と軽く風切り音がした。腕が伸びた様に錯覚するほど素早い振りの先に苦無を見て、幸村は咄嗟に飛び退いた、つもりだった。しかしぐらりと傾いだ躯が言う事を聞かず、おかしい、と思う間に深々と、肩口に苦無が突き立つ。
「さっ、佐助えッ……、お前、茶に何か……!」
「うん、ちょっと、痺れ薬。無駄口に素直に付き合ってくれて助かったよ。それに、悪いね、苦無にもちょっと質悪い毒、塗ってあるからさあ。解毒剤あるし、旦那の体力なら死にゃしないけど、ふた月はろくに起き上がれないよ」
 だから戦はお休みだね、と、急激に霞む視界の中でゆるゆると笑った顔は見た事もない程何の含みもないもので、場違いに、何とも綺麗な顔で笑うものだと幸村は感心した。此れではまるで、気触れの者だ。
「馬鹿者……ッ! だだで済むと思うてか……!!」
「思うわけねえだろ」
 大丈夫、逃げも隠れもしませんよ、と囁いた声に歯軋りをして、幸村はそれっきり、意識を失った。
 
 
 
 
 
 佐助の言葉通り、幸村はきっちりふた月の間、床から起き上がる事が出来なかった。目覚めたのも五日も経ってからの事で、その時にはもう屋敷の布団の上に居たが、最初の三日は余りの高熱に、佐助の小屋から動かす事も出来なかったのだという。烏が持ち帰った盲人の手紙に迎えがやって来た時、佐助は幸村の手当てを済ませて看護を続けながら、言葉通りに逃げも隠れもせずに大人しく縄に付いたらしい。
 その後も熱は続き意識も朦朧として、まともに目を開け口が利ける様になったのは、更に七日もしてからだった。言葉に偽りなく、本気で質の悪い毒を使ったらしい。幸村でなくば死んでいると溜息を洩らしたのは、忍びの毒なら忍びの手当てでなくばと、ずっと枕元に詰めていた才蔵だ。
 幸村はまともに頭が醒めて第一に、武田は、戦は、と訊ね、ゆっくりと休めとのお館様の仰せですとの返答を受けて、次に佐助は、と訊ねた。
 佐助は厳重に見張りを付けられた上で牢に入れられていたが、連れて来いと言っても彼の佐助相手にそれは無理だと周囲に宥められ、どれだけの詰問にも何の申し開きをしていないと言う報告に歯軋りしながら、じっと躯の回復を待った。
 漸く起き上がれる様になり、面会が許されて牢へと向かえば、佐助はまるで己の部屋にでもいる様に胡座を掻いて、へら、といつもの笑みを浮かべた。血色が良くなっていた顔は元通り、否、それ以上に青白く肉も痩けてはいたが、それ以外は違和感な程に、元の通りのままだった。
「武田、旦那抜きでも勝ったらしいね」
「某の力など微々たるもの。未だ未だ精進あるのみだ。………して、佐助」
 せっかちだなあ、とでも言わんばかりに肩を竦めて、佐助ははいはい、と頷く。余りにいつもの調子なのでつい返事は一度だ、と小言を言い掛けて舌の先で止め、幸村は眉を顰めた。
「何故、あの様な事をした。豊臣との戦いの前に、おれはお前に殺され掛けたぞ」
「死なすかよ。あのくらいじゃ、あんたの丈夫な躯は殺せないよ」
「熱で頭がいかれてしまう事もあると、才蔵は言っていたが」
「あんたの頭はいつだって、あれ以上の熱で沸き立ってんだ。あの毒の熱くらいでいかれるんなら、疾うに戦場で、脳味噌茹だって死んでるよ」
 それもそうか、と納得して、幸村は牢に近付き、格子に額を付ける様にして、佐助の目を覗き込む。視線は幸村に向いてはいるが、よくよく見ればぼんやりとしたそれは、やはり、はっきりと見えている者の目ではない。
「それで」
 佐助は薄く微笑んだまま、呼吸もしていないかの様に微動だにしない。
「何故、あの様な事をした」
「あんたを、戦へ行かせない為だよ」
「これからも行かせぬ気か? ならばあの時、目を潰すなり腕を落とすなりしてしまえば良かったではないか」
「もう平気だよ」
 満足げに笑みを深めて、佐助は首を傾げた。
「ねえ、旦那」
「言う気になったか」
「うん。あのね、俺様近頃、人の死期が判るんだよね」
 怪訝に眉を顰めれば、その気配を察したのか佐助はゆら、と僅かに上体を揺らして身を乗り出した。格子越しに、額を突き合わせる様にして、囁く。
「最初はさ、出入りしてた用聞きの若いのがね、近くに来るとなんかざわざわして落ち着かなくなったんだよね。その内そいつの周りに、ぼんやりと手が絡み付いてんのが見える様になって、間もなくそいつは死んじまった。大八車に轢かれたって話」
 次に、近所の老人が、その次に、馴染みの酒屋の常連が。
 小間物屋の奥方、棒手振りの親父、時折様子を聞きに来る元部下、裏の奥方の腹の中の赤ん坊、縁の下の猫、咲き誇っていた筈の山茶花。
「段々、ざわざわの感覚が、遠くまで判る様になって」
 前に、あんたが来た時に、ざわざわを感じたから、本当は少し前から、動向を窺わせていたのだと佐助は頭を下げた。
「謀った事は、申し訳なく思ってる」
「内通者は、誰だ」
「それは勘弁して。あんたに毒盛ったのは、俺の一存で、そいつにはただ、旦那が心配だから、様子を知らせてくれって頼んだだけだ」
「某の周りに、手が絡み付いていたとでも言うのか」
 うん、今はもう無いけど、と一仕事終えたかの様に自信満々に頷いて、佐助はふいに笑みを納め、首を傾げた。
「旦那。俺は、狂ってんのかねえ」
 幸村は僅かに黙り、それからゆっくりと息を吐いた。
「判らぬ。………そうやも、知れぬ」
 そうか、と静かに頷いて、翌朝牢番が粗末な朝餉を運んだ時には、何処ぞに隠し持っていた毒でも含んだか、佐助は筵に横たわり、すっかりと冷たくなっていた。
 
 
 
 
 
 さて、それから七年もした頃、幸村は戦で受けた毒が元で、僅かばかり目を悪くした。
 とは言えそれまでが忍びも舌を巻くほどに遠くまで見通す目を持っていただけで、光乏しい中で文を読むことや遠過ぎる旗印が見えない程度で、戦に出るには支障がなかったから、変わらず武田の為戦い続けていたが、時折、親しい者の死の前に、ざわざわと落ち着かない気分を味わう様になった。
 しかし、幸村の知人と言えば共に戦場を駆ける武人や、危険な任務を担う忍びの者がほとんどだ。故に、此れが虫の知らせという奴か、と幸村はさほど気にもせず、誰に話す事もせずにいたが、ある時、武田の宿敵上杉との戦いにおいて、陣中での別れ際、師である信玄の首筋に、骨張った白い二本の手が絡むのを見た。
 腕は信玄の面の豊かな房を掻き分ける様に、首にも肩にもするするとまとわって、まるで此方へ来い、此方へ来いと誘っている様でもあったから、それが女の腕では無い事も加わって、幸村は死に神の手だと、直感をした。
 お館様、と呼べば、信玄は意気揚々と滾らせた血を隠す事もせず、おう、幸村、此処が正念場じゃ、と高らかに名を叫ぶから、幸村は続け掛けた言葉を飲み込んで、承知致しましたと負けじと声を上げた。
 
 
 
 信玄を落とした武田はそれでも必死に立て直しを図ったが、結局堪え切れず総崩れとなり、辛うじて主の御印を抱いて敗走を果たした幸村は、然るべき寺へとそれを預け、同本堂で、切腹を果たした。
「佐助を死なせたおれは、気触れに堕ちる訳にはゆかなかったのだ」
 しかし佐助の命とおれの名誉を、お館様と秤に掛ける等、愚かであったわ、と、介錯を命じた才蔵に苦く嗤った幸村は、速やかに、主の道行きを照らす鬼火となるべく、後を追った。
 
 
 
 あの手はまるで佐助の様であった、と、最期に呟いた幸村の言葉の意味を、才蔵は結局、知ることはなかった。

 
 
 
 
 
 
 
20070517
一掴みの藁のウィリアム