とりなき里の蝙蝠

 
 
 
 
 
 

 なにしてんの弁丸様、と声を掛ければ、熱心に庭の梢を眺めていた幼い主はびくんと肩を竦ませて振り向き人差し指を口に当ててしーしーと慌てた。
 弁丸様のしーのほうが煩いよ、と言いながら隣に並んで梢をみれば、小鳥がぴくぴくと動く羽に嘴を突っ込んで毛繕いをしている。
「かわいいであろう」
「ああ、そうね。まだ若いな。目白かな? はぐれたかな」
「それがしには判らぬ。だが、いつもこの時間にはここに来て、ひとしきり羽をやすめておるのだ」
 にこにこと満面で笑い、潜めた声でまるで自分の鳥のように自慢する様を、ふうんと呟いて佐助は眺めた。主は笑顔で鳥自慢を続けながら、その茶の目をじっと梢に注いでいる。
 焦がれる、というほどには熱はない。ただ愛しいと柔らかく目尻を緩ませて愛でる顔を眺めているうちに、ふと、欲しいですか、と尋ねていた。主がきょとんと見上げる。
「欲しいなら捕って差し上げますよ。鳥籠を用意して、飼えばいいんじゃないですか」
 いつでも啼き声を聞いてられますよ、と言えば、ひとつふたつ瞬いて、それから首が横に振られた。
「いい、捕るな」
「欲しいんじゃ?」
「いい」
 欲しいとも欲しくないとも言わずもう一度首を振り、再び梢に目を遣ったその顔は何か焦がれるような切なげな色に変わっていて、しくじったな、と佐助は胸中で呟いた。
 主は下がれとも居ろとも言わずにただ黙って、佐助が並んで鳥を見ていることを許したが、佐助は主がそうやって梢を眺める事を止めるまで、午後のその時間、その窓辺には近付くことを止めた。
 
 主と鳥の逢瀬は、その秋、主が武田の屋敷へと入ったことで終わった。
 
 
 
 
 男女の事には酷く未成熟な部分のある、女の色香にはそれほどの反応は見せないくせに恋やら睦み合いやらには酷く奥手な主殿は、初恋も未だだと周囲に信じ込まれている節がある。却って惚れっぽいだろうと言ったのは、さてどこの竜か鬼か。
 
 そのどちらも半分外れだ、と佐助はぶうんと空を切る音を屋根の上まで響かせて、練兵場で黙々と槍を振る幸村を見ていた。
 藪でもないのに暗い緑の装束に赤い髪は靡かせたまま、溜息が出るほど良い天気の昼餉前、屋根の上になどいてはどこからでも丸見えで、忍んでいない忍びなんてどうなんだと思っていたのも随分と前までだ。
 顔を晒して他とは違う忍び装束を纏い戦場を駆けずり回るようになってからは、佐助はもっぱら忍ぶことを止めた。特に仕事で無い限り、割合堂々と忍び装束のまま人前をうろついている。
 昔は主の屋敷をうろつくときには、着物に袴で側付きのような姿に扮していたりもしたものだったが、武田に来てからはそれもやめた。信玄からして忍ばせておいてはくれないからだ。毎日のお八つに主と共に主の主君にお呼ばれする忍びもそうはいまい。
 忍び殺しだよなまったく、と口の中で呟いて、佐助は眼を細めた。幸村は相変わらず鍛錬の手を止めない。一刻も前から一度も休憩を入れずに、穂先の刃の代わりに錘を下げた槍を振り回している。
 あの錘がどれだけの重さなのか、佐助はよく知っていた。鍛錬の度、手さえ空いていれば佐助が括り付けてやっているからだ。あれを両手に持って跳べと言われたら、佐助はこの屋根まで飛び上がるのがようやっとというところだろう。到底使い物にはならない。
 確かに幸村は戦場で一騎駆けて行ってしまうことがたびたびあるほど、底なしの体力を持っている。あの二槍を振り回しながら戦の初めから終わりまで戦場を駆け抜けるのだからそれは誰も付いては行かれない。佐助ですら、周りが見えなくなってしまった幸村には、最後で追い付くことはあれど最後まで付いて走ることは無理だ。
 どれだけの膂力、どれだけの精力だろう。弛まぬ鍛錬と天賦の才は、幸村を到底常人では到達出来ぬ境地に連れてきてしまった。
 
 が、そんな鬼神のごとき虎の若子は、我が儘を許される環境で育ったことがさほど無く、まだ幼いと言っていい年頃のうちに武田の屋敷へと上がり間もなく総大将に惚れ込んでしまったせいもあって、色恋に目覚める暇もないうちに世間知らずのまま鍛錬に明け暮れる日々を送り始めた。
 だから確かに、この年頃の男子にしては酷く奥手ではあるし、佐助の知る限りは未だ女の躯を知らない。佐助が知らないということは、間違いなくそうだと言うことだ。幸村の隠し事は酷く判り易く、もし隠しているのであればそれはそれで筒抜けなのだ。
 以前何度か信玄に打診され、遊郭とか興味ないのと訊いてみたことはあったが、真っ赤な顔で破廉恥呼ばわりされてしまった。信玄本人から誘えば断れないのだろうが、そうと知らねば本音が出る。
 我が子か我が孫かというように可愛がっている幸村の成長を見守りたい虎は残念がってはいたが、まあ無理強いする類のことでもあるまいと今は様子見だ。
 しかし確かに幸村は少しばかり惚れっぽいところはある。そういう意味では竜と鬼の指摘はまあ間違ってはいまい。が、それはひとがひとに惚れると言うもので、今現在の想い人は二人。甲斐の虎と、奥州の竜。色気のいの字もありはしない。男くさいことこの上ない。
 
 だが、初恋も未だだというのは間違いだ。
 
 想いが実ってはいない。恐らく相手は幸村が密かに想っていたことなど知りもしないはずだ。そもそも気付いた者もそう多くはないだろう。奥手で不器用な幸村は、ただひたすら恋を忍んだ。自身もそれが恋だとは知らなかったのかもしれない。
 だが、言葉を交わしたこともない、というわけでもなければ手に触れたこともないわけでもない。寧ろ毎日顔を合わせて言葉を交わし飯を装ってもらった仲だ。つまり相手は下女だったのだ。
 確かに下女にしては綺麗な面立ちをした娘ではあった。柔和な顔に気立てがよくて優しい物言い、にも拘わらず、行儀に関しては酷くきっぱりと厳しくて、お館様にお許しを頂いておりますからと箸の持ち方から茶碗の持ち方、食べ方から頂く前と頂いた後の挨拶まできっちりと指導が入った。ある意味行儀係りだ。
 元々さほど行儀が悪いわけでもない幸村だが、如何せん食事時まで勢い込んでいるときも少なくなく、だから飯粒を飛ばしたりがちゃがちゃと喧しく食器を鳴らしたりすることもあったのだが、それが改善された。これには佐助も驚いた。佐助がいくら言い聞かせても直らなかった性質だったからだ。
 だが、それが恋が成せる技であることにも同時に気付いてしまった。だから幸村には何も言わずに、そっと信玄に告げたのだ。あの娘に暇を出しては下さいませんか、と。
 
 少しの間見守れと言った信玄は、自身の目でも幸村の視線の先を追い様子を見ていたのだろう。程なくして、娘には身分からすれば大変に良縁の縁談が持ち上がり、相手に見初められ、自身もその人柄に恋をして、幸せに嫁いで行った。頬を染めながらきらきらと目を輝かせてお暇の挨拶に来た娘に、美しくなったな、幸せになれ、と大喜びで笑った幸村が、それから暫くの間時折ぼんやりとどことも知れない空を眺めていたのを佐助は知っていた。
 幸村は、娘の祝言に金子と櫛と一振りの飾り槍を贈った。それらは武田から贈られた煌びやかな祝いの品からすれば酷く地味なものだったが、それでも娘の心に響いたようで、後日短い文が届いた。字などほとんど書けないはずの娘の苦心の跡が見えるその文を一頻り佐助や他の武田の家臣や信玄にまで自慢して、今は幸村の部屋の文箱に丁寧に納められている筈だ。
 
 ひゅおう……、と、木枯らしが鳴くような音に佐助はひとつ瞬いた。
 着物の上をはだけ、汗を滴らせながら槍を振る幸村はまだ止まらない。一緒に鍛錬を始めた者たちは、疾うに引き上げた者もいれば何度目かの休憩に入った者もいる。汗を拭き拭き幸村を眺めている者たちは一堂に相変わらずですなあと感心している様子だが、誰も手合わせをしようとは言い出さない。手合わせしたところで、まるで相手にはならないのだ。幸村と手合わせ出来る程の腕の持ち主は、概ね今この時間は執務に就いているか自らの屋敷にいる重鎮ばかりで、だから信玄の鍛錬に付き合うか、呼ばれて佐助が相手をするのでない限り、幸村は大抵一人で槍を振っている。
 煩悩を振り払う意味で鍛錬に精を出す者もいるが。
 幸村はそれには当て嵌まらないのだろう。元よりこの若い武人には煩悩と呼ぶべき邪心が希薄だ。未だ邪心など覚えぬほどに気持ちが幼いのか、そもそもそう言った質なのかは判らないが、どちらにしてもきっと幸村はこのまま、童のような澄んだ欠片を抱いたまま駆けるのだろうと何とはなしに思う。どれだけ気持ちが曇ろうとも、心の芯の芯、その魂まで曇ることはないのだろうと。
 
 一言、相談して───くれれば。
 好きなおなごが居るのだと、そう言ってくれれば。
 
 そうすれば、幾らでも協力してやれた。
 佐助は眼を細める。ゆっくりと吹く風は秋とはいえ温い。もう直昼餉だろう。飯の炊けるにおいがする。
 正室───は、流石に無理だ。だが側室にならしてやれた。信玄に話を通せば難しい。だがその前に策を弄することは出来た。そうすれば信玄を、真田の殿を説き伏せることは容易かった筈だった。
 だが幸村は、一言も佐助に相談してはくれなかった。ただ自らの裡でのみその恋を愛でた。
 一言も、欲しいとは言ってはくれなかった。
 
 捕れと、命じてくれれば───そうすれば。
 あの鳥だって、今も未だ鳥籠の中、幸村の元へと在ったのかもしれなかったのに。
 
「佐助! 降りてこい、手合わせを頼む!」
「───はいよ」
 普段から血色のいい上気した顔と爛々と輝く大きな目を見ながら、佐助はゆるりと解けるように身を起こし、軽く跳躍して主の見上げる地上へと跳んだ。
 
 
 
 鳥は飛んでこその鳥だと、振り返りもせずに真っ直ぐに前を向いたまま幼い主がそうぼそりと言ったのはさて、上田を離れるその日のことだったか、夢だったか。
 夢と現が曖昧で、佐助にはどうしても思い出すことは出来なかった。

 
 
 
 
 
 
 
20061110
明け烏