真田昌幸討死の報が走った其の時、真田忍隊は未だ戦場の直中に居た。故に戦忍が主の死を知ったのは、其の日の戦が終焉を迎えて後である。
佐助は陣幕の裏で呆然と膝を突き、暫しの間、何時もはくるくると良く働く思考を手放した。
真田の大将が死んだ、だって。
ぽかりと空白の脳裏でそんな呟きが聞こえて、なら俺は誰の為に走れば良いんだと口に出して呟く。
周囲で同じ様に膝を突いていた忍びの一人が、無言で取り出した小刀で、止める間もなく喉を突いた。其れに触発された様に、幾人かが次々と主を追って自害する。
其の血の臭いを嗅ぎながら、佐助は微動だにせずに俯いて居た。自害して、主の黄泉への道行きの露払いをしても良いが、けれどそんな気力も湧かない。気が抜けてしまった。最早死ぬ事すら鬱陶しい。
「佐助」
肩を叩かれて顔を上げると、忍長が立って居た。流石に気配を感じる隙も無いが、けれどいつもの佐助なら、此の経験も能力も遙かに上の忍びにすら、肩を叩かせる等と言う真似はしない。武士であれば未だ元服するか否か、そんな若輩で居ながら、佐助は実力故に真田忍隊の副長を任されて居た。
「幸村様の所へ行くぞ」
「え?」
答えた声が酷く掠れて、佐助は眉を寄せ、口元を掌で押さえて軽く空咳をした。僅かに呼吸を深くする。
「何で?」
「此れからは幸村様が、我らの主だ。お前を引き合わせておかなくては」
「だから、何で? 別に、長だけで良いだろ」
「馬鹿者。副長が何を言う。俺が居ない時には、お前が代わりに幸村様の意を仰ぎ、忍隊を預かるのだぞ」
佐助は眉を寄せる。確かに真正面から向き合った事も言葉を交わした事も無いが、真田の若様だ、知らぬ訳は無い。昌幸の寵愛を受けて伸び伸びと育った、やたらと声のでかい、世間知らずの若君だ。年は佐助と同じか幾らか下だろうか。佐助自身が己の正確な年齢を知らずに居るから、実際の所はどうか知らないが、どうでも良い事ではある。
ほら、早く立て、と急かされて、佐助は渋々立ち上がった。長に付いて陣の裏を歩き、六文銭の染め抜かれた陣幕の前で膝を突く。
「幸村様」
長がひっそりと囁くと、暫しして、入れと声があった。未だ声変わりの完全に済まない、子供の声だ。目で促され、佐助は再び渋々立ち上がり、顔を伏せたまま陣幕の内へと入りまた膝を突いた。
「其れは誰だ?」
長とは既に顔を合わせて居たのか、戦で汚れた顔もろくろく拭わないままの若君は、佐助にじっと視線を注いだ。真っ直ぐで、独善的で、酷く子供じみた、其れが佐助の幸村に対する印象だ。間違っても此れを主になどする気は無い。無いが、契約が残る以上は、真田の主には仕えなくてはならない。
「副長です」
「こいつが? 未だ子供では無いか」
「年は関係ありませぬ。若輩故、未だ未だ未熟ではありますが、実力ならば充分に役目に釣り合っております」
子供に子供って言われたよ、と憮然とそっぽを向いていた佐助は、頬に刺さる長の鋭い視線に屈して半分むくれたまま正面を向いた。
「俺は猿飛佐助。真田の大将は大したお人だったよね。全く惜しい人を亡くしたもんだよ」
半眼で睨め上げる様に見れば、ぐっと唇を結んだ幸村はしかし直ぐに好意的とは言い難い視線に気付いたのか、ぎゅうと眉根を寄せた。
「………俺はお前に嫌われる様な事をしたか?」
「別に。あんたに俺様が使えんのかって、ちょっと疑問なだけさ」
「何だと?」
「俺は大将に仕えてたんであって、あんたに仕えてたわけじゃないからね。精々、きっちり給料払ってくれよ。そうすりゃ給料分は、真田の為に働いてやるよ」
「お前、口の利き方がなっていないな」
「はは、あんたのお父上は、煩い事は言わないお人だったけどね。幸村様は器が小さいと見える」
何なら改めますよ、お気に召す様に、と続ければ、かあと頬に赤を上らせた幸村は、けれど軋む音が聞こえる程に拳を握って激高を耐えた様だった。へえ、意外、と佐助は少しばかり認識を改める。
餓鬼だ餓鬼だと思っては居たが、子供の成長は早いものだ。少しばかり、もしかすれば父を亡くした事で、我慢を覚えたのかも知れない。
しかし佐助は口角を片方だけ吊り上げた挑発的な笑みを浮かべたまま、暗く瞳を光らせた。
多少の成長が見えたとして、此れが大器とは思えない。頑是無い子供が元服をして名を改めただけの、多少腕が立つだけの、其れだけの武者だ。
生きる自由も死ぬ自由も無いのだ。主を選ぶ権利くらいは行使させろと、佐助は思う。金は判り易くて嫌いではないが、金の為に命を落とすのは、出来る事なら避けたい。心から仕えたいと思える主に再び巡り会って、そうして其の主の為に死にたいと思う。
嗚呼、本当に、誰の為に走れば良いんだ。
「………ま、ちょっとの間だろうけど、宜しくお願いしますよ。気に食わないならさっさと首にしてくれて構わないよ。どうせ俺様の腕なら、引く手数多だからね」
「自らを過信する、傲慢な忍び等何処の馬鹿が雇うと言うのだ」
「はは、んじゃああんたのお父上は馬鹿って事か」
「何だと、貴様!!」
「そりゃこっちの台詞だよ。いくら息子だからってなあ、大将を侮辱したら許さねえ」
俺の主は彼の方だけだ、と低く言えば、幸村は僅かに表情から険を落とした。其れからちらりと長を見る。
「───こいつはいつもこうなのか」
「左様ですな」
「誰にでも?」
「は」
「父上にもか」
「昌幸様は、此れが奔放な口を利くのを楽しんでおられた節が」
幾ら言っても改まりません、お気に召さねばお手討ちにでも、と飄々と言ってのける長の横顔を一つ睨んで、佐助はそっぽを向いた。
「こんなのにそうそう簡単に殺されるわけないでしょ。とっとと逃げさせてもらうよ。こいつに手討ちにされるくらいなら、追っ手が付いた方が未だましだ」
「おい」
渋面の幸村が、深々と溜息を吐いた。
「別に手討ちにするなど言って居ない。勝手に逃げるな」
「何、俺様を雇おうっての?」
「さあ、其れはお前の働きを見てからだが、未だ契約は残って居るんだろう。……父上が討たれて直ぐだ、今暫く真田は乱れよう。武田の戦も収まってはおらぬ。忍隊には働いて貰わねばならないのに、副長が抜けたでは敵わん」
「………まあ、頭は悪くないみたいだね。意外と」
「意外とはなんだ! 本当に無礼な奴だな」
「でも、戦場でどうやって俺様の仕事振りを見るってのさ。あんた未だ未だ、自分の事で手一杯じゃないの。戦忍の働きなんて、唯でさえ見えるとこには無いってのに」
「む……其れもそうか」
僅かに首を傾げて唸り、其れから幸村は名案を思い付いたとばかりに目を輝かせてふいに悪戯小僧の様に厭な笑みを浮かべた。何だ、と思う間もなく大股でずかずかと近付いて、ぐいと佐助の腕を取る。避けようと思えば充分に避けれたが、意図が判らず佐助はされるがままに接触を許した。
手討ちに等なってやるものかと言いはしたが、別にそうなるなら其れでも構わなかった。自ら命を絶つのは面倒だが、殺してくれると言うのなら、そのまま主を追い掛けて、暗い道行きに狐火くらいは灯せるだろう。
しかしそんな佐助の投げ遣りな決心は余所に、幸村はぐっと顔を近付けた。話をするだけにしてには異様に近い。思わず仰け反る様に距離を取るとその分だけ更に近付いて、幸村はぎらぎらと厭に光る目で真っ直ぐに佐助を見た。
「お前、おれの後ろに付け」
「───はあ!?」
「おれに付いて戦場へ出ろ! そうすればお前の働きが目に見える」
「ちょっと、あんたには別の戦忍が付いてるでしょ! そいつはどうすんのよ。お役目奪う気?」
「幾らでも仕事はあろう! お館様の守りに付いてもらっても良い」
「ちょ、何其れえらい出世! 俺がそっちがいい!」
「馬鹿、其れでは何時まで経ってもお前の事など知れぬではないか」
「馬鹿が馬鹿って言うなよ!」
「主に向かって馬鹿とは何だ!!」
「声でかいんだっつーの!」
あああもう、判りましたよ! とやけくそで叫べば、幸村は満足げに頷いて腕を放した。佐助は肩を落としてやれやれと首を振る。
「全く、何だよ、強引な旦那だな」
「旦那?」
「ああ、真田の旦那。真田の大将はあんたの父上だからね、別にいいだろ」
「うむ」
頷いて、ふと幸村は神妙に表情を収めて顎を引いた。
「───其の忠誠、この幸村、父に代わって礼を言うぞ。よくぞ其処まで、父に仕えてくれた」
「うえ、何其れ止めてよ。別にあんたに言われたって嬉しかないよ」
「素直に受け取れ」
「素直に厭がってんじゃねえか。ちっとは判れよ」
「本当に口の減らない忍びだな!」
苛々と吐き捨てて、幸村は溜息を吐いた。
「もういい、下がれ。明日の朝また来い。今日はゆっくり休め。隊の者にも、そう伝えろ」
ちらりと長を見遣ると小さく目顔で頷かれて、佐助は真田幸村に向き直った。初めて真っ直ぐに見据える。どんと両足に力を込めた様に立つ様はまるで今から真剣勝負の名乗りでも上げるかの様だ。何時でもこんなで疲れないんだろうかと考えながら、佐助は未だ生きる契約の為に頭を垂れた。
「御意」
短く言って、姿を消すと陣幕の内からおお、ともうお、とも付かない声が聞こえた。巻いた黒羽根に驚いたのだろう。長は追って来ない。恐らく此れからの事を相談するのだろう。
休むったって、警備はどうすんだよ此れだから馬鹿は、と口の中で呟いて、素早く軽傷で生き残った部下の顔を脳裏に並べて佐助は警備の編成をした。
主不在の道の先に、ぽつりと小さな道標が見えた気がしたが、きっと気のせいだと小さく頭を振って、佐助は夜の影を駆けた。
20070217
初出:20070205
虎の尾を踏む/虎に翼
ししゅんき!
文
虫
|