「だんなー」
「だんなあ」
異口同音の声にみいみいと困り果てた泣き声で名を呼ばれ、幸村は心地良い眠りからゆっくりと目覚めた。空気がひやりと冷たい。随分と早朝の様だ。
ゆる、と寝惚け眼を向ければ顔の脇で耳と尾を垂れていた子狐二匹が、ほっと目を瞬かせる。幸村はくわあ、と欠伸をし、ざわざわと背な毛を波立たせて充分に伸びをしてからまふ、と口を閉じた。真ん前にした子狐達の柔らかな毛が息に吹かれ、きゅっと目を閉じた二匹は踏ん張って辛うじて転げるのを防いだ様だ。
と思えば一匹がころころと転げた。
「………どうした?」
転げた片割れを慌てて起こしている子狐に訊ねれば、二匹はくりっと丸い目を二対、幸村へ向けた。
「血が出てるよ」
「口から血が出てるー」
「痛くない?」
「だんな、病気なの?」
前足に乗せた顔の前に転がる様にやって来て頻りに心配げにする双子狐に、幸村は首を傾げてぺろりと己の口を舐めた。
「違うよ」
「此処だよ」
血の味はない、と今度は逆側を舐めようとすれば、寝起きの虎に危機感無くひょいと顔を寄せた子狐の小さな舌が、下唇の一部を舐めた。危うく未だ鼻面の短いその顔を舐めそうになって、幸村ははみ出した舌をだらりとさせ、それから嗚呼、と合点がいって頷いた。舌を仕舞う。
「病ではない」
「虫歯?」
「違う。近頃牙が伸びておるのだ。それで、牙が当たって、傷が付いたのだろう。良くある」
双子狐は揃って顔を見合わせ、目を輝かせた。
「だんなすごーい!」
「かっこいーい!」
急な賛辞に幸村は面食らう。
「そ、そうか?」
「おれさまもきば伸びるかなあ」
「いーってしたらみんなが逃げるくらい」
狐の牙は見掛けによらず鋭いが、さほど大きくはならない。
いー、と未だ幼い歯を剥き出し合っている双子狐に、幸村はゆると尾を揺らした。
「……それはどうであろうな」
「えー、伸びるよー」
「だんなよりでっかくなるよ!」
「ねー!」
「おれさまちょうかっこいい」
ねー、と顔を見合わせてきゃいきゃいしている子狐達にそうか、と聞いていないのを承知で呟き、幸村は顔を上げて洞穴の入り口を見た。ゆるりと曲がった洞穴の向こうから、光が漏れ込んでいる。空気の冷たさに早朝かと思ったが、日は出ているらしい。ならばさほど早い時間でもない。
「……冷えるな。もしや雪か?」
直接は見えない外に見当を付けて言えば、きゃっきゃと額を突き合わせて楽しげにしていた双子狐が、ぴたりと動きを止めた。
かと思えば次には我先にと歓声を上げながらまろぶ様に朝日目掛けて鞠の様な二つの躯が走り出し、転ぶな、と声を掛けながらのそりと立ち上がって幸村も続いた。雪ならば、餌場の確認と、水場の確認もして来なくてはならない。いよいよ飢えの時期が来る。
のそ、と洞穴の前に垂れ下がる冬枯れた蔦をくぐって眩しい中へと目を細めながら出れば、予想に反して雪は無かった。ただ酷く冷えた空気は朝の光に輝くほどで、初めて踏む霜柱に、子狐達ははしゃいで転げ回っている。
此れならば雪の方がまだ温かかったな、とぶる、と身を震わせ毛皮の合間に新たな空気を取り込んで、幸村は吐く息の白い森を見渡した。静かだ。余りの寒さに、鳥達も羽を膨らませてじっとしているのだろう。しかし鳥は幸村や子狐達と違い、一日食わずにおれる生き物ではない。もう少し空気が温めば、肉食の獣が徘徊し出す前には、餌場を訪れる筈だ。
「いったあ!」
「だんなー!」
今日の朝飯はそれか、と算段を付けていれば、はしゃいでいた双子狐が悲鳴を上げた。幸村は慌てて駆け寄る。足の下で凍った地面がみしみしと音を立てて潰れた。
「どうした、転んだか」
「いたあい!」
「いたいよー!」
みいみいと泣く二匹は座り込み、頻りに前足で鼻を押さえている。その足を退けて見ても、濡れた鼻がすんすんと音を立てるだけで怪我はないようだ。
ぶつけでもしたか、と首を捻りながらふと見れば、すぐ側に氷の割れた少し大きな水溜まりがある。目を凝らして見れば、中心のあたりには凍りきらなかった水を溜めている様だ。
「………そなた等、氷水に鼻面を突っ込んだな?」
「そのお水、毒だよー」
「だんな、飲んじゃだめだよ」
涙目のまま訳知り顔で偉そうに言う双子狐に、幸村は溜息を吐いた。
「水溜まりの水など飲むでない。小川とて未だ、凍ってはおるまい。そちらの綺麗な水を飲め」
まあそちらも痛い程冷えてはいるだろうが、とどうやって飲ませるかを思案していれば、子狐達は心外だとばかりに幸村を見上げた。
「違うよ」
「ふたがしてあったから割ったんだよ」
「蓋ではない、氷だ」
「あ!」
ばき、と踏んで見せれば子狐は鼻を押さえるのも忘れてぴょんと飛び起き、ついでに毛を逆立てた。
「割っちゃったー!」
「地面もこわれてる!」
「地面は壊れぬ。あれは霜柱と言って、」
「だんなのおばかあ!」
「ひどーい! 遊ぼうと思ったのにー!」
結局己達で壊そうと思っていたのではないか、と返す間もなく酷い酷いと矢継ぎ早に浴びせられる文句に、幸村は目の回る思いで溜息を吐いた。
「判った、判った。此の調子であればあちこちが凍っておるだろう。餌場に行きながら探して歩けば良かろう」
だが先に餌を獲るのだぞ、と忠告すれば、はあいと返事だけは良い子狐達は我先に駆け出した。何処の餌場に行く気だ、と幸村は慌てて一匹の尾をばしりと踏み、ぼて、と転げたその首筋を素早く噛んでぶら下げる。
「なにするのー」
「今日の朝餉は鳥だ」
「やだあ!」
「何故鳥が嫌いなのだ」
「骨が多いー」
「ねー」
「骨も食えば良かろう」
「むちゃいうなよ!」
何処が無茶だ、と一匹をぶら下げたまま歩き出せば、もう片割れもちょろちょろと幸村の足にまとわりついた。
「ねーねー、おれさまもぶら下げてー」
「今日はおれの番ー。おまえ昨日ぶら下げてもらった」
「昨日はちょっとだもん! 鳥のとこまでなんてずるいー!」
どっちをぶら下げたかなどはっきりとは覚えていなかったが、たしか此の少しばかり赤色の濃い方をぶら下げてやった気がする。だが喚く内容を照らし合わせるに、黄色味の強い方を昨日は運んでやっていた様だ。
全く区別が付かぬ、と眉を寄せて、幸村不満げな顔でちょろちょろと付いてくる子狐を見下ろした。
「佐助」
「なあに?」
「おれさま?」
幸村はふん、と鼻で溜息を吐いた。
「せめてお前達、どちらかが名を改めぬか」
双子狐は顔を見合わせて、それから揃って幸村を見た。
「むりー」
「だっておれさま、さすけだもん」
ねー、と揃って声を上げる双子狐に、左様か、と幸村は肩を落とした。
朝餉を済ませ、霜柱を探して歩く頃には気温が上がり、水溜まりすら溶け出してしまった事にぶうぶうと文句を言われるのは、すっかり日の昇った一刻程後の事。
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