「あ、起きた起きた」
目を開けるとそこに見えたのは天井ではなく無邪気な表情を浮かべた男の顔だった。
佐助が黙っていると不安になったのか、男は眉尻を下げた。
「あっれー? なに? まだ寝惚けてるのか?」
それとも打ち所が悪かったかなと首を傾げている男をじいと眺め、佐助は頬にひたりと掌を当てた小猿を無造作につまみ上げる。夢吉に何すんだ、と眉を吊り上げ掛けた男にそのままほいと渡せば、男はたちまち頬を緩ませた。怒っていても澄んだ瞳に邪気の映り込まない、子供のような男だ。
これと同じ目を見たことがあるなあと考えて、ああ加賀に忍び込んだときに見たのだと思い出す。無邪気でいながら天下無双の豪槍を振るう傷だらけの軽装の武者が、まさにこれと同じ目をしていた。
「前田の風来坊」
「慶次だ。よろしくな、武田の忍び」
にかっと笑った慶次を暫し眺め、佐助ははあ、と大仰に溜息を吐いてごろりと寝返りを打った。これ見よがしに掌で顔を覆う。
「もー……旦那に叱られる」
「は? なんで?」
「浪人風情に負けたなんてぜってーありえねー……俺様自信失くしそう」
「ええっ、ちょっと待てよ。浪人風情って、俺は浪人じゃあ」
「お家を出奔してお役目も果たさずぷらぷらしている武家を浪人っていうんだよ、知らねえの、風来坊? 前田の男どもは頭足んないのかね」
怒って殴り付けてくるかつまみ出されるか、とこめかみの辺りで気配を探れば、あっははは、とからからと笑い声が降って来た。見上げれば慶次は胡座の膝を叩いて楽しそうに笑っている。彼の肩が定位置らしい小猿が、真似をするようにききっと歯を剥いてぴょんぴょんと飛び跳ねた。
「利のことかー? あいつ頭使うの苦手なんだよな」
でも好い奴なんだぞ、と笑みに緩ませた目には敵意も害意も嫌悪の欠片すらない。なんの含みもないただ人が好いばかりのそれに、佐助は馬鹿らしくなって肩を竦め、腕を支えに身を起こした。あれだけの大刀と斬り結んだ割に切り傷は少ないが、全身に打撲の痛みが走る。
「いっ、てえなー……畜生」
思わず呻けば大きな掌に無造作に背を支えられた。幸村に負けず劣らず気配はだだ洩れだと言うのに、無造作が過ぎて却って動きが読めない。濃密な気配に動きの気配が紛れてしまって、酷くやりにくい相手だと佐助は呻いた。
「痛いか?」
呻きを取り違えたようで、先程までの笑顔を一転眉尻を下げた気遣い気な顔に変えて目を覗き込んでくる慶次に、佐助は苦笑した。無遠慮に、真っ直ぐに覗いてくるその額を軽く押し遣る。
「喧嘩売っておいて手当てまでしてくれるってのが、判んないなあ。何がしたいんだろうね、あんた」
「あー、やだね、戦慣れした言い方だ」
素直に離れて肩を竦め、慶次はこれだから戦人は無粋だなあと水鳥のような薄く尖る唇を不満げに付き出した。
元々愛嬌のある顔で、ころころと変わる表情が子供のようだ。漂う香と白粉の匂いと部屋の作りに遊郭の一室、芸妓の私室だろうと見当を付けていた佐助だが、成程、花街の女には可愛がられるだろう。得体の知れない忍びを担ぎ込んでも部屋を貸して貰える程、まるで身内の如くの扱いで。
「喧嘩はさ、好きだよ、俺。楽しいじゃないか」
「楽しくて戦うことはないからねえ」
「またまた。あんただって本気で俺を殺しに掛かっちゃいなかったじゃないか。それは楽しんでたってことじゃないのかい?」
「殺気もない、殺したところで遺恨を残すだけで何の益もない相手に、喧嘩売られたからって本気で掛かるほど飢えちゃいないよ」
まあそれでやられてちゃあ様無いけど、と再びこれが耳に入ればたるんでいるとか何とか叱られるんだろうなあとやたらに熱い主を思い返して佐助はげんなりと肩を落とした。
「あー……やだやだ、帰りたくない」
「ん? じゃあ暫く俺んとこ居る?」
は? と目を丸くすれば、提案の形を取った決定だったのか、夕飯何食いたいか考えとけよと言いながらごろんと上半身を転がし手を伸ばして怠惰に襖を開け、慶次は廊下の向こうに居た気配に向けて茶を所望した。
「い、いや、俺はもう、お暇するから……」
「帰りづらいんだろ? 気が済むまで居て構わないよ。大体あんたその怪我じゃ、少し寝てたほうがいいって。何なら上田まで送って行ってやるよ」
「そ、そこまでしてもらう義理はないって!」
「別に義理がどうとか気にするなって。そんなこと気にし始めたら、なんにも出来なくなっちまう」
しがらみなんて御免だよ、とあっけらかんと笑う慶次に、佐助はそう言うことではないのだと手を振った。
「まったく、あんたが風来坊なのは勝手だけど、皆が皆あんたの歩調で歩いてると思わないでほしいね」
「そりゃそうだけど、でも俺から見たらあんたたち戦人はみんな、急ぎ過ぎで背負い込みすぎなんだよ。余裕がないと、ほんとに大事なもん見失っちまうよ」
「俺はその大事なもんとやらを見失わない為にも、もっと疾く跳ばなきゃならないんでね。こんなとこで愚図愚図してたら見限られちまうよ。早く帰らなきゃ」
「え? なんだ、好い人がいるのかい?」
「いや、あんたの言う恋がどうのっていうのじゃないけどね」
「ええ、なんだよ恋してないのかい? 大事なことだぞ」
大真面目に返されているようだがどうにも会話が噛み合わない。
まったく人種が違うなと佐助はぼりぼりと前髪が鬱陶しく垂れる癖の強い髪を掻いた。途端視界の端をひょいと何かが跳び、咄嗟に避けると膝に目標を失った小猿がぼて、と落ちた。何事かと見ていれば、めげない小猿は身を起こしてするすると帷子を上り佐助の肩に陣取って、癖毛に手を伸ばし梳いた。
「い、痛いよお前、おい」
「へえ、気に入ったのかな、夢吉の奴」
「はあ? なに、なんなの、止めさせてよ飼い主!」
「あんたの髪さ、珍しい色じゃないか。少し弄らせてやってよ。毛繕いが趣味なんだ、そいつ」
「それって趣味かよ?」
何にしてももう帰るんだから、と肩に手を伸ばし掛けたところで廊下を行き来していた気配のひとつがつと足を止めた。
「慶はん、お茶ですえ」
「お、悪いね、照鈴ちゃん」
「春照さんお姉さん、お客引けたらそのままお座敷入りはりますから、今夜は戻られへんて伝えてくれて。慶はん、あんまりお姉さんに我が儘言うたらあきまへんえ」
「我が儘なんか言ってないって。何か手伝うことあるか?」
「今日は何もあらしまへん。みんなお茶挽いてて」
そっかあ、と首を傾げる仕種に半玉はころころと笑って、冗談ですえ、と袖で口元を押さえた。
「いいから、ちゃんとお友達の面倒見なあきまへん。お姉さんもそう言うてはりました。お薬は」
「うん、大丈夫」
そうですか、と頷き、半玉はそれでは失礼しますと佐助に丁寧に頭を下げてしずしずと出て行った。それを見送って、茶を引き寄せてひとつを差し出した慶次を見遣る。
「………あんたの言う恋って、これ?」
「え?」
茶を受け取りながら、だから、色って言うこと、と小猿に髪を引っ張られるままに首を傾げれば、ぽかんとした後に慶次は鮮やかに赤面して慌ててぶんぶんと首を振った。
「ち、違う違う! そういうんじゃないって! そりゃ花街の女はみんな綺麗だけど、でもそういうんじゃないんだよ。大体俺は、客じゃなくって友達なの!」
「はあ……友達ねえ」
「時々雑用手伝ったり迷惑な客追い払ったり、用心棒みたいなことしてるだけだよ。この部屋、春照って芸妓のなんだけど、友達なだけ」
「普通ただの男友達に、遊女が部屋を貸すことなんてしないと思うけど。大体ここのお母さんが承知しないだろ。その上俺まで上げて」
「春照はここの看板だからな。部屋だってこの一つじゃないし、俺ここのお母さんとも呑み友達だし」
「………遊郭の店主と呑み友達かよ」
「大体もし俺が春照の恋人なら、余計にお母さんが承知しないと思うけど」
まあそれも正論か、と肩を竦め、佐助は本格的に毛繕いを始めた小猿をひょいとつまんで慶次へ渡した。布団から抜け出す。
「あ、おい、平気なのか?」
「こんなの怪我の内に入んないって。それより俺の装束はどこに……あー、変に触ってないだろうな? 毒も持ち歩いてるから、素人が触っちゃ危ないんだけど」
「ああ、うん、それは、ほら、かすがちゃんに聞いてたから」
忍びのものは触るなって、とまるきり他意のない顔で言う慶次に、佐助は怪訝な顔をした。
「かすがって、上杉の?」
「そうそう」
「知り合いなのか?」
「謙信とこに遊びに行ったときに、すっごい目で睨まれてさあ」
「いや今あんたさらっと凄いこと言わなかったか」
「え? 何が?」
いやだから、軍神のところに遊びにって、と頬を引き攣らせると、きょとんとしたまま慶次は小首を傾げた。佐助などその影にすっぽり納まってしまいそうなほど大きな図体をしているというのに、妙に様になる仕種だ。
「ああ、俺、謙信と呑み友達なんだよ。だから時々、良い酒が手に入ったときなんか、遊びに行くんだ」
「呑み友だ………」
ふら、と眩暈を感じたのは気のせいではないだろう。
佐助は額を抑えて眩暈をやり過ごし、はは、と笑って頭を振った。
「あんた、馬鹿なのか大物なのか───」
「馬鹿って、酷いな」
ぷうとむくれた顔はまるきりの子供のようだと言うのに。
佐助は顔を上げ、眼を細めて慶次を見た。値踏みされていると判っているのかいないのか、ぱちくりと邪気なく瞬く目はやはり真っ直ぐにこちらを見詰める。気を抜けば警戒心が緩み自然に口元が笑んでしまうのは、この男の特質だろう。
惹かれる───と言う程強烈な魅力ではない。ただ、警戒心を削ぐのではなく、解いてしまうのだ。ひとを安心させる力を持っているのだろう。基本的に人好きのする男だ。
「───やっぱり帰るよ」
「送って行こうか?」
「そう気軽に言える距離じゃないっしょ」
どうせ暇だから構わないよ、と立ち上がり掛けた慶次を止めて見つけた装束に手早く着替え、佐助は髪を掻き上げ面当てを付けた。視線を返し、にいと笑う。
「今度会ったら、そのときには今度こそ甘味の旨い店、教えてよ」
あんた答える前に殴ってくるから聞きそびれたと呆れた苦笑で憤慨したふりをして見せれば、それが不確かながらの次の約束だと気付いたのか、ならば今教えると言い出すこともなく慶次は笑い返した。
「おう、甘味と言わずあちこち案内してやるよ。今度はあんたの旦那も連れてきなよ」
佐助は思わず吹き出した。何を馬鹿を、と笑いながら言えば、慶次は心底不思議そうな顔をする。
「あのね、風来坊」
佐助は手っ甲の具合を確かめながら、大刀の石突きで突かれた左手の甲の痛み具合を確認する。投擲はやや心許ないだろうが、まあ飛んで帰るには問題はなさそうだ。空の上で敵に会わずに済めばの話だが。
「あんたを真田の旦那や武田の大将に引き合わせてやるわけにはいかないでしょうが」
「へ? なんで?」
「あのねえ。前田慶次郎利益って言ったら織田が配下、前田の若君で、下手をすれば今頃は前田の当主だった男だよ。しかもあんたの言葉を信じるなら上杉の盟友なんだろ。甲斐の虎と越後の龍の因縁、聞いたことくらいあるっしょ?」
「甲斐の虎の話なら、謙信から何度か聞いたけどな。凄え楽しそうに話すんだ」
「うちの大将も、軍神の話を始めると顔が緩みっぱなしだよ。だけどあの二人はいつか何の邪魔も入らないところで戦の采配を競い合い、一騎打ちを楽しんで、そうして相手の命を獲りたいと思ってるんだよ」
まあ勿論獲らせてもらうのは龍の首で、うちの大将が勝つけど、と釘を刺せば、慶次は綺麗に鞣した革のような色の目を大きく瞠らせ眉を吊り上げた。
憤慨した子供のような混じり気のない表情で抗議しようとした慶次を嗚呼うちの旦那より重症だ、と内心苦笑しながら片手で止め、佐助は小さく首を傾げた。柔和な顔にいつでも浮かべている人当たりの良い笑みとこの傾げた首で大抵の人間の棘は僅かでも抜けるが、多分この男には通じない。主には仕方がないなと溜息を吐かせる時でも、この男は折れないだろう。
だってこれ、対大人用だもんな、と佐助は納得し難いと言う顔で立ち上がったこちらを上目に睨んだままの図体ばかり大きな子供を眺めた。
「あんたが望むと望まないとに係わらず、しがらみや因縁ってのは生まれちゃうわけでさ。あんたはいつか何かの形で武田に立ち塞がるかもしれないし、あんたが友達の命を助けたいと思ったとき、俺たちは誰かの命のためにそいつを殺さなくちゃいけないかもしれない。そうしたら俺はあんたを殺すよ。今度は手加減なんかしない」
大きな子供の顔が苦く歪んだ。
その表情だけが今まで見せたどの表情とも違って酷く複雑で、それでいて変わらず純粋で深く悲しみを孕んだ不透明なものだったから、佐助は僅かに言葉を切り、それから慶次の呼吸に合わせて怒鳴り出す直前に「だからね」と口を挟んだ。
「あんた、どうしても人の生き死にと遠い所にいたいんだったら、前田の名前なんか捨てて出家するか本当に町人になっちゃいなよ。今は乱世だしどこにいたって血の臭いと無縁でいられるなんてのは夢のまた夢だけど、それでも武器を捨てれば大分遠い世界になるよ」
「───けど、それじゃ、守りたい奴だって守れない」
佐助はあはは、と馬鹿に明るく笑った。いつの間にか下げられていた視線がゆるりと持ち上がる。
その情けない目を見詰めて僅かに首を傾げ、笑顔のまま佐助は低く声を紡いだ。
「だったら甘っちょろいこと言ってんじゃないよ」
そのまま窓へと身を返そうとした佐助は、ふいにぬうと立ち上がった長身にふと警戒した。警戒したのに、一歩で無造作に懐に踏み込んだ慶次は、その大きな掌で忍装束に包まれた腕を掴む。反撃の隙を窺い見上げれば、しかしそこにあるのは澄んだ真摯な瞳だった。
「好きな相手を守りたいのも誰にも死んで欲しくないのも、凄く当たり前のことじゃないか。誰かが死んだらそれがもし嫌いな相手だったとしてもやりきれないし、好きな相手が死んだら悲しくてどうにかなっちまいそうになる」
だから殺したくないし死なせたくないのに、そのために、他の誰かを殺さなくてはならないなんて。
そのために、死なせたくない誰かを守るのもままならないなんて、そんなこと。
「痛いって、風来坊。怪我人なんだから手加減してよね」
溜息を吐きながら言えば、慶次はむうと唇を曲げて手を放した。これ見よがしに腕をさすると、抗議でもしたいのか唇が尖る。
あっという間に子供の表情に戻ってしまったなと眼を細めて笑い、佐助はとんとその広い胸を押した。
「まあ、理想を追えるうちは追えばいいんじゃないの。俺の理屈をあんたに押し付ける気はないさ」
「理想じゃない、当たり前のことだろ」
「あんたにとってそうだとしても、俺はそんな常識なんて、見たことも食ったこともないよ」
だってあんたと俺は違う人間なんだからと言えば、慶次はむう、と黙り込んでしまった。
沈思している様子にそんなに難しいことを言っただろうかと首を傾げ、取り敢えずもう帰ろうと踵を返し掛けるとまた肩を掴まれた。手練れの忍びである己が、どうしてこうも簡単に捕まえられるのか本気で謎だと肩越しに迷惑そうに見てやれば、慶次はじっと佐助の目を覗いた後、にっと幼い笑みを浮かべた。
「別の人間かあ、そりゃいいな」
「はあ? 何が」
「別々の人間だから相手に興味を持って、恋が出来るんだ! だから、あんたと俺が別々の人間だっていうのは、凄くいい」
「───はい?」
けどあんたの理屈にはいろいろと思うところがあるから、次に会うまでには何か反論を考えておくよ、覚悟しろ、と挑戦的に目をきらきらとさせた顔からは他意は感じられない。
恋が云々というのはこの男の場合最早口癖のようなものかと小さく嘆息して、佐助はすげなく肩の手を払った。
「んじゃな、風来坊。あんまりふらふらして前田の夫婦に心配掛けてんじゃないよ。あと誰彼構わず喧嘩を売るな、迷惑だから」
「今度上田に蕎麦食いに行くよ。ついでに真田の顔も見に行くから、よろしく言っといてくれよ」
「うちの旦那は見せ物じゃないよ。そんな言付けは承れませんねえ」
呵々と笑う慶次の肩を軽く弾いて、佐助は今度こそその場から姿を消した。
20061125
けいじ17歳直前16歳で 夢見がち
わたしが
文
虫
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