獲ったぞォ、と遠く、繰り替えし大将首を上げたと声が響く。同時に勝ち鬨がおんおんと戦場に響き渡り、さてうちの小さな旦那は一体どこだろう、と考えながら追撃を止め、佐助は逃げていく敵兵の背中を見送り手の中の大手裏剣をしゅる、と回して腰元に戻した。
「佐助」
 軽く切れていた息を宥めながら振り向くと、軍配を象った斧をぶうんと一振りして抱え直した武田の総大将がのしのしとやって来るところだった。ほいよ、と間抜けた返事をしながら佐助はすと片膝を落とす。
「幸村を捜しに行ってやれ。追撃は止めさせろ」
「はい、了解」
 戦いの最中に何度か見掛けた時にはもう必死の顔をして、声もなにもまるで聞こえていないようだったから、初陣の興奮に勝ち鬨も判らず闇雲に逃げる敵兵を追い掛けているのかもしれないと、佐助は軽く頷いて身を翻した。大体にして今ここにいないというのが我を忘れている証拠だ。今日、出撃の際に幸村が命じられた戦場は、佐助と同じくこの総大将の周りだったはずなのだ。信玄の守護を放って本陣を離れてしまうなど、どれだけの首を獲ったとしても叱責ものである。
 ひゅわ、と耳許で風を切る音がする。
「旦那ァ……どこだい」
 血と臓物と火薬と土煙の臭いの中、声を掛けながら屍の中を飛び回ってもいらえはない。動かない骸の、僅かに蠢く瀕死の兵の中に真新しい赤い具足も小柄な身体も見えないのを確認しながら、何度か配下の下忍が知らせて来ていた主の居場所を中心に探す。陽は未だ高いが、夕闇が訪れてから探し歩くのは困難だ。そもそもそうなれば、ここはもはや無法地帯だ。敵の残党も盗賊も闊歩する。見つかればせっかく拾った命も明日の朝にはないかもしれない。
 この戦いで、命を落としたかもしれない、と。
 それは考えにくいことだ、と佐助は思う。元服したばかりの幸村は未だ躯も小さく、決して大柄でもない佐助よりも頭半分以上も小さいほどだが、それでも槍術の腕は確かだ。手練れの武将にも引けを取らない。加えてその獣じみた感性は忍びをも凌ぐほどで、滅多なことでは討ち取られることはないはずだ。
 その滅多なことがあったのかもしれないと、そうも思うことは出来たがそれはそれ、そのときはそのときだ。武人の道を選んだからにはいつかどこかで血にまみれて死ぬ運命ではあるのだ。
 小さく眉を顰め、喉で詰まっていた声を再び上げて佐助はふいに強くなった臓物の臭いに目を向けた。足を弛める。流れていた景色がふっと輪郭を取り戻す。
 放射状に、人間と思しき屍と、血と臓物が散っていた。その中心に蹲った小さな躯は出陣した際の赤ではない。黒々と光る濡れた赤だ。
「旦那!」
 散らばる腑を踏みにじり佐助は慌てて駆け寄った。重たい動きにくいと嫌がる小さな主を宥め賺しながら着せた赤備えの具足はべっとりと血に濡れて、両手に握ったままの双槍の白銀は最後に斬った敵兵の腑が絡んだままだ。内容物を撒き散らしたそれが酷く悪臭を放っていて、佐助は俯き酷く荒い息に肩を上下させたままの主の血塗れの頬をごしごしと拭った。
「ああ、もう、なんだよ。腑でも頭から浴びたか? 酷い有様じゃないかよ」
 髪も肩も血とそうではないものに濡れ汚れて、幾度も頭を撫でつけ懐から取り出した布で顔を拭い首を拭いしてやって、命に拘わる大きな怪我がないのを確認し佐助は微かに唸るように喉を鳴らす幸村の顔を覗き込んだ。
「旦那、幸村様。しっかりしてよ。戦は終わりだからさあ……帰って大将にお目見えして褒めてもらって、はやく湯を浴びよう。そんで今日はゆっくり寝なよ」
 片足を斬られたらしく膝を落としたままの幸村は、うんともすんとも言わずただ地面の一点を見詰めたままだ。篭手に包まれた手は、未だ槍を硬く握って放さない。
 足を斬られて動けないこの子供とも呼べる若い将の首を上げようと、血眼で群がった者どもを一閃した、それがこの結果だろう。凄まじいものだと佐助は小さく唸る。長柄というだけで戦場ではなかなか凶悪ではあるのだが、幸村の手に掛かればもはや鬼の所行だ。
 そう言えばよく俺は斬られなかったな、と心神喪失したままの主を見ながら今更に佐助は思う。無防備に懐に飛び込んだというのに、無意識に殺気の有無を感じたのだろうか。だとすればやはり獣じみている。
「ほら、旦那。こんなとこで壊れてる場合じゃないでしょ。あんたこれからどんだけの戦に出なきゃないと思ってんの? 今日なんか軽いほう、軽いほう」
 馬鹿のように明るい口調で言いながら、そっと乾いた血がこびり付く手を持ち上げて固く握った指を折らないように一本一本ゆっくりと開き、長槍を落とす。
「失礼しますよー……っと」
 だらんと下がった両腕の脇の下に手を入れて、佐助はよいしょ、と動かない主を担ぎ上げた。まだ震える息は幾分か荒いままだったが、唸り声は治まったようだ。
 随分重たくなったじゃん旦那、と子供の頃以来背負ったこともなかった幸村にいらえがないのを承知で声を掛けながら、佐助は双子の槍を主と共に担いで歩き出した。周囲を取りこぼした首を拾いに、または怪我で動けない味方を助けにと兵たちが走り回っている。板戸を、と駆け寄って来た百姓兵に首を振って仕事に戻れと示し、佐助は狼煙の上がる本陣を目指した。
 
 
「佐助」
 いくらなんでもこのまま信玄にまみえる姿ではあるまいと、本陣の片隅に主を下ろし、鎧を解いてやりながら用意された水で血糊を拭っていると、深い声が掛けられた。
「大将」
 ゆっくりとやって来た信玄もまた、血糊と土埃に汚れてはいたがさすが堂々としたものだ。今日の戦は本陣まで攻め入られることがなくて、滾る血を持て余した総大将自ら出張ったほどだったから気力もまだ充分なのだろう。そもそも、この総大将が気力を失う様を、そう長い付き合いではないとはいえ未だ佐助は見たことはないが。
「旦那、大将が……、」
 ぼんやりとどこか虚空を見詰めたまま時折ゆるく瞬きするだけで身動きもしなかった幸村に視線を返すと、足の怪我も構わずに小さな主はぺたんと正座をしていた。その握られた拳が、ぐっと膝に押し付けられる。
「お……お、おやかたさ、まァ」
 近頃ようやく低くなり始めた震える声がようやくそれだけ絞り出し、信玄を見上げたままの大きな目がぐにゃ、と歪んでぼろぼろと大粒の涙をこぼした。そうなればもう止まらない。もともとこの主は幼い頃、酷い泣き虫だったのだ。
 おやかたさま、おやかたさまと繰り返ししゃくり上げながら呼んでわあわあと手放しで泣く主にちょっと旦那ァ、と困惑した佐助を制し、信玄は幸村の前に屈み込んだ。
「ご苦労だったな、幸村。良い働きであった。手当てを済ませて、今日はゆっくりと休め」
 その獅子の兜や巨大な斧を振り回す様で一回りも二回りも巨躯に見せてはいたが、信玄は実のところそれほどの巨漢ではない。しかし主の頭をすっぽりと包めるほどに大きな手が、ぐりぐりとまだ血に汚れべったりと張り付いたままの髪を撫でた。元服を済ませ初陣を果たした武将にする仕種ではなかったが、その掌の体温と力強さに安堵したのか、幸村はまだしゃくり上げながらこっくりと頷く。
 ようやくまともに口を利くことを思い出したような主にほっと肩を落とした佐助に目配せし、信玄はもう一度幸村を撫でて立ち上がった。のしのしと去って行く背を見送ると、ばたばたと伝令が駆け寄るのが見えた。武田の忍びだ。信玄は幸村のために、引き上げずに待っていたのだろう。
「まったく、旦那はいい大将を持ったよな」
 ぐず、と詰まった鼻を啜りながらまだ泣いている目が佐助を見上げた。苦笑を返し、その泥に固まった睫を濡らした手拭いで拭ってやりながら佐助は目を細めた。
「旦那、今日はもう動けなくなるからね」
「……動けなく、」
「うん」
 少々酷いのは足の傷くらいであとは目立った怪我はなかったが、それでもあちらこちらに早くも青くなり始めた打ち身の痕はある。加えて緊張を漲らせて命の遣り取りをしたのだ、気が抜ければどっと疲労に襲われて、身体中が軋みを上げるだろう。
「だから、早いとこ帰って湯浴みして飯食っちゃって。昌幸様にも信之様にも無事をお知らせしないと、心配なさってるだろうしさ」
 別働隊として動いていたはずの真田の大将と兄の名を出せば、先程までの無反応が嘘のように素直にこくりと頷く。佐助はふと笑みをこぼした。
「……旦那」
「なんだ?」
 主にする仕種ではない、と、判ってはいたものの、周囲をばたばたと走る者たちが誰もこちらを注視していないことを背中で感じながら、佐助は水で浄めた手でそっとごわごわと汚れた栗色の髪を撫でた。
「よく生きてたね。えらい」
 ぽかん、と口を開けた間抜け面で見上げた子供は。
「当然でござる! 某ようやくお館様のために働くことが出来るようになったのだ、こんなところで死んではおれぬ!」
 そうだね、えらい、ともう一度頭を撫でれば、子供扱いするなとついこの間まで子供だった若武将は、幼い仕種でぷうとむくれた。
 
 
 
 
 
 さすけ、と床に埋もれた幸村が掠れた声で呼んだ。
「はい、何です」
 絞った手拭いをぺたりと額に乗せてやりながら顔を覗くと、怪我と疲労による発熱に頬を真っ赤にした幸村は半分眠そうな目で佐助を見上げた。
「それがしはな、べつに、こわかったわけではないのだ」
 ただきぶんがよかったのだ、と、眠気か熱かで呂律の回らない声がか細く続けた。
「前に………あの、ならず者を斬ったときは、気分が悪かった」
「ああ、うん。微妙な顔してたもんな、旦那」
 幸村が人を殺したのは今日が初めてではなかった。何年か前、それでも既に並大抵の武人では敵わないほどの腕を持っていた幸村は、佐助と共に町へと降りた際に、町の娘に刃を向けて絡んでいたならず者を斬ったことがあった。
 無論最初から斬るつもりではなかったし、だから佐助も手を出さずにいたのだが、生憎思ったよりも手練れの相手だったのがまずかった。あっと思った時には懐に踏み込まれ袈裟懸けに斬られて、咄嗟に後方に跳んだため浅く切っ先が触れただけで済んだがそれでも反射的に、幸村はその男を斬り返していた。上段から振り下ろしたままの無防備な肩口から胸をみぞおちを過ぎ片腕を落とし腹までざっくりと入った刀はなかなか抜けなくて、どうと倒れた男の死に様に悲鳴を上げた娘を宥めるのに少々苦労したほどだ。
 けれど健気にも恐怖に震えながらも幸村に繰り返し礼を言った娘に縋られながら、少年だった主は喉に刺さった小骨が取れないような、そんな妙な顔をしたままだった。
 そのわだかまりはやがて真剣勝負と勝るにも劣らない、志の高い武人同士の仕合の歓びを覚えていつの間にか失せた様ではあったのだが、あのとき以来久方ぶりにひとを斬り、思い出したのだろう。
 昂りやすい気性でいながら決して荒くれではない幸村は正に虫も殺さぬ子供で、体温のある生き物を殺したのは、犬でも猫でも狐でもなく、人間が初めてだった。
「……あんときと、なんか違った?」
「ぜんぜんちがう」
「大将のための働きだからか」
「そうではない」
 言ってから、あ、いや、それも半分でござるが、と少々慌てた声で返し、動いた拍子にずる、と額の手拭いが落ちた。それを戻してやりながらはいはいそれで、と佐助は続きを促す。熱に浮かされた子供だ。大変に眠そうな顔をしてはいるものの、気が済むまでは寝ようとはすまい。
「あそこにいたのは、みんな、あるじのためにと目を血走らせている者ばかりだった」
「……うん」
 武田軍には百姓兵が多い。しかし今日の敵も同様で、だから、幸村が斬った相手は決して武人ばかりではなかったはずだ。皆各々、死にたくないと願いながらも事情を抱えてやむなく得物を手にしていたはずだ。
 だが水を差すことはせずに、佐助は続きを聞いた。
「何人か、名をきいた」
「…………、」
「みな名乗るのだ……それがしも名乗った」
「あんまり戦場で名前吼えないで欲しいんだけどねえ……」
 今日が初陣で、顔も知られていないはずの幸村があれだけの敵に囲まれたわけだ。まったくもう、とぼやきながら佐助は促す。
「それで?」
 ぼんやりと、天井を見上げた目が瞬いた。
「たのしそうだった……」
「はあ?」
「それがしと戦うことが、愉しいと、合わせる得物が言っていた」
 きぶんがよかった、と繰り返して、ゆるく瞬いていた瞼がぱたりと落ちた。続いてすう、と洩れた寝息に、佐助は小さく溜息を吐いて布団をきちんと肩まで引き上げた。
「………あんた誰の首を獲ったんだろうな」
 戦うために生まれたような、そんな相手と刃を合わせることが出来たのだろう。時間にすればほんの僅かな戦場での逢瀬で、その相手に惚れ込んでしまったのだ。そして恐らくは、もう二度と遇えない。
 まったく大将といい、惚れっぽい旦那で困るよ、と口の中で苦笑して、佐助は薬を引き寄せた。

 
 
 
 
 
 
 
20061101
鬼哭仔虎に価値無し