風は虎に

 
 
 
 
 
 

 竜の眠りは浅く、永い。
 
 何を食うのかと他国の者には不思議がられるが、竜とて霞を喰って生きているわけではない。
 喰おうと思えば獣も魚も植物も喰うし、土や岩もその気になれば喰うことは出来る。やらぬだけで、小さな山なら天辺をばくりと欠かすことも、小川を飲み干すことも出来る。
 無論、蛇や蜥蜴が長い間物を食わずともおれるように竜もまた永く食事を採らずとも生きてはいける。餓死という概念もない。生きる定義が、獣とは少々異なっているのだろう。
 ただ、喰う、という楽しみが減る分つまらぬだけだ。
 つまらぬのは駄目だ、と政宗は思う。だから政宗は生き物も獲るし、木の実も喰う。ただ、命の短き境界のこちら側の者達が食わぬものは喰わぬようにはしている。それが摂理というものだ。
 竜の命を脅かす捕食者がおらぬ以上、摂理以上の獲物を狩っては政宗はもはや王ではいられない。此の奥州からも、追われるだろう。
 もしそうなったとしても竜の眷属である伊達軍の者等は政宗について来るのだろうが、それでは此の奥州の地を守る者が居なくなる。
 奥州の守護は、竜を始めとする政宗の一族が一手に担う。そうしてもう何百年も、政宗の父の代から過ごして来た。
 政宗自体は未ださほど永く此の世に存在しているわけではなく、竜の中では漸く幼生から脱して成体となったばかりというところだが、それでも獣たちから見れば神にも等しい時間を生きている。甲斐の虎は政宗が瞬く間ほどしか生きていないくせに若造と呼ぶが、彼れが特異なだけだ。
 上杉の軍神も若き竜、とそう呼ぶか、とうつらうつらと考えて、政宗はふう、と心地の良い息を吐いた。ゆるり、と髭が揺蕩う。
 上杉の覇者は、擬態をする。政宗の右目には、彼れが龍に見えるらしい。上杉の者等は彼れを狐だと信じているし、長く敵対関係にある武田の者等は虎だと言う。
 
 ただ、あの赤い狐の目の中に映る姿は、人だ。
 
 その目の鏡像を見たとき、政宗は少しばかり驚いた。
 赤狐はその意味を知らぬようであったからただ視えるだけらしいが、歯牙にも掛けていなかったただの狐の目に、少しばかり興味が湧いた。
 政宗は遠く過去か未来かの夢を視る。後か先かまたは今かも判らぬそこで、軍神は変わらぬ姿で涼しく微笑んでいる。
 彼れは過去でも未来でも現在でも、全て同じ存在だ。同時に生きて、同時に消える。
 彼れに時も場所も意味はない。全てを知っており、全てを知らぬ。
 
 彼れは───神だ
 
 政宗は神になど怯まない。神だろうが魔王だろうが、此の現世に、政宗と同じ時代に生まれ出た以上はただの獣と変わりはない。
 ただ、その何もかも見透かす目が、少しばかり気に入らないだけだ。

 
「ちょ、もうほんと勘弁してよ!」
 
 ふいに静寂を突き破った情けない声に、政宗は薄らと消炭色の瞳を開いた。
「もう、来るなって! やだよ俺様お前等嫌いなんだよ!」
「………うるせえな」
 瞼を細めたままやり過ごそうとした政宗は、騒ぐ声が通り過ぎる気配がないことにすぐに諦め身を起こした。躯に降り積もった木々の枝や絡んだ蔦がばきばきと音を立てて崩れて行く。
 さほど永くうたた寝した気はしなかったが、夏の草花は実に逞しい。
「おい、狐。その口を閉じな。きゃんきゃんうるせえんだよ」
 狗か手前は、と些か機嫌悪く毒突いた政宗に、狐はびくんと大袈裟に竦んだ。
「き、急に出て来ないでって言ってるでしょ! 吃驚したあ」
「奥州に来といて何言ってんだあんたは」
 俺に用があるんじゃねえのか、とちらと見遣ると、狐の足元に集まっていた百足達がわらわらと去った。最後まで残った蛟竜に、政宗は顎を振る。
「いいから後は任せて、持ち場に戻りな。不埒な真似でもしやがったら、狐一匹程度俺が食い殺してやるぜ」
「怖いこと言わないでよ」
 お使いに来ただけなのに、とむくれる狐をちらと見て、蛟竜はするりと繁みに消えた。
「Ha……奥州王自ら喰ってやると言ってんだ。忍びごときにゃ身に余るって奴だろうよ」
「忍びって何よ。ったく、軍神といいあんたといい、よく判んないことばっかり」
 ふん、と鼻を鳴らし、政宗はぬうと鼻面を下げた。音もなく近付いた隻眼に、狐は耳を伏せたまま半歩下がる。
「……で、何の用だ。虎のおっさんからか?」
「そうだよ。ちょっと前にうちの方に徳川が攻めて来たせいで、今立て直しに忙しいんだ。夏過ぎには組んで織田を攻めるって手筈になってたけど、手が貸せそうにないって」
「Huhn……そうか、そりゃあ残念だ。Partyに間に合わねえってんなら、置いていくしかねえな」
 折角のお楽しみだってのにな、と片目を細めた政宗に、狐は目を丸くしてそれからさわ、と軽く背毛を立てた。
「伊達だけでどうにかなるわけないでしょ! 年明けにはうちだってなんとかなるだろうし……」
「手前ら武田の連中は春は使い物にならねえだろうが」
「そりゃ、あんたんとこの連中みたいに飢えに強かないけど、でも蜥蜴も蛇も、春まで寝転けてんじゃないのよ」
「そりゃあな。だが、俺の一族はいつでも出陣出来るぜ」
 狐は顎を引いて少しばかり黙った。疑り深い目がじっと政宗を探るように上目に見る。
「………ほんと、百足だの物の怪だの、気味悪いったらねえよ」
「毛皮の連中みてえな腥い奴等じゃあ、ねえぜ。綺麗なもんだ。何が不満だ」
「噛まれたら痛いじゃないのよ、百足も蜘蛛もさあ。脚でも噛まれたら、しばらく歩けないんだよ」
「場合によっちゃあ、そのままお陀仏だな」
「冗談でもやめてよ!」
 うるる、と警戒に喉を鳴らした狐に、政宗は嗤った。
「武田の使者殿を噛むようなのは、奥州にはいねえよ。ま、はぐれてる連中となりゃあ別だが、そのくらいは手前でなんとかできんだろ」
 腐っても武田の狐だ、と続けて、政宗はぐうと身を上げた。見上げた狐が、空の明るさに眩しげにする。
「伊達は織田を攻める。武田のおっさんにそう伝えな」
「………本気?」
「当然だ。退屈は好きじゃねえ。You see?」
 狐は暫し政宗を見上げていたが、やがてはあ、と溜息を吐いて俯いた。小さな頭と大きな耳が、共に下がる。
「仕方がねえなあ。……取り敢えず、早まらないでよ、独眼竜。大将に指示仰いで、取って返して来るからさ」
「Uh?」
「真田隊くらいは出れるだろうって、そう言ってんの」
 狐は不機嫌に言って、それからふいに得意気に笑った。
「真田の旦那と真田隊は、強いぜ? 組んで損はねえよ」
 勿論俺様もね、と政宗から見れば小さ過ぎるほど小さな胸を張る狐に、政宗はぴゅう、と口笛を吹いた。
「あんた、なかなか好戦的だな。戦なんざ面倒臭い、戦馬鹿なんか判らねえって、そう嘯いてるのはPoseか」
「何言ってんだか判んないけど、俺様は戦なんか面倒臭いし、戦馬鹿に付き合うのも面倒だよ」
 でも仕方ないじゃない、お仕事だもん、と太い尻尾を振って、狐は踵を返した。
「じゃあね、独眼竜」
「急げよ。俺は待たねえぜ」
「ちょっとくらい待ってって言ってるのに!」
 もう、と憤慨して、狐はぷいと鼻を振ってそのまま素早く駆け出した。ざわめいた繁みから眷属が顔を覗かせるにも構わず、その先をどんどんと走る。
 政宗はふうん、と小さく感心した。
「疾えな。真田が自慢するわけだ」
 ちらと欲しいな、と考えて、それから狐の主の怒りを思い、面倒臭いな、と政宗は尾を揺らしてゆると天へと身を立てた。そのままぐるりと巨体を捻り、ゆったりと空を泳ぐ。
「………ま、狐なんざ、直ぐに死ぬか」
 手に入れたところで政宗が一眠りしている間に死ぬだろう。それではつまらない。
 ならば精々真田のところできゃんきゃん喚いてもらったほうが、余程楽しいというものだ。
 ふん、とつまらなく鼻を鳴らし、政宗は小十郎を探してぐんと高度を上げ、森の上を伝った。

 
 
 
 
 
 
 
20090726
雲は竜に従い風は虎に従う

ばさらの森だとまさむねくんがさすけにちょっかい掛けます
なんでだ