涸 れ 井 戸 の 湿 り

 
 
 
 
 
 

「長」
 ひょうと風のように背後へと滑り込んだ影が、囁くように口を利いた。佐助は得物を操りながら、影の言葉に耳を傾ける。其の間にも、柿色の髪の忍長の首を獲ろうと躍起になって群がる敵兵は、次々と得物に屠られて逝く。
「主様は、西七、北一、先の八の辺りに」
「ん」
「敵陣近くを通られた故、多くの敵兵を引き付け囲まれて居ります。武田忍びも守りに入って居りますが、余りの疾さに将は一人も付いてゆかれず。敵が壁を成し、今お一人で奮闘しておられます。お早く」
「有難な。自分で死ねるか?」
 は、あ、と、初めて震えるように苦しげに息が洩れた。最期の熱を込めた其れはほとんど断末魔の様だった。鼻を突く血臭と臓腑の裡の死臭が、もう助からない事を示していた。
 放っておいても、間もなく死ぬ。しかし首を獲っても意味の無い、倒れた忍びに一々止めを刺して回る程、敵にとっても悠長な状況では無い。放って置かれれば、暫くは苦しむ羽目になる。
「お、さ、」
 語尾にごぼりと濡れた音が被る。うん、と呟き佐助は次の一振りで、敵の数人ごと部下の首を飛ばした。
 ふっと弾けた弱光が、首筋、胸の上、貝殻骨の合間と心の臓に近い辺りに吸い込まれる様に消える。躯中に負った幾つもの傷の裡、深い物の、深い所からつと塞がれて行く。くん、と、僅かながらに気力が増した。
 
 闇烏。
 
 好きではない得物だった。幾ら研いでも何故か死脂が拭い切れぬ、その禍々しさに生半な研ぎ師では触れることも厭う何処か薄暗い気を纏う、威力自体はさほどでもない大手裏剣だ。普段使う事は、無い。
 けれど今日の様に、兎に角多くの敵を引き付けて屠らねばならない状況では、好きだの嫌いだのと言っては居られない。誰が使ってもそう、と言う訳ではなかったが、佐助が持てば、此れは血を流せば流すほど陰湿な気を増して、怨念を使い手の気力に替えた。もっと殺せと囁く声が聞こえるようだ。
 そして不思議と、此の闇烏を持ったその時、佐助は止めを求められる事が多かった。其れも、敵味方の関係が無く、傭兵や、忍びの者からの懇願で。
 武士には其の様な者は多く無かった。百姓兵はそもそも死にたくないと泣く事はあれど、死にたい殺して止めを刺してくれと縋る事は少ない。戦の経験が浅いかどうか、その違いであろうと佐助は思う。
 此れに惹かれるのならば其れは、陰の気質であろう。
 忍ぶ性の忍びや、主家を持つ武士の様な貴い志を抱けぬ浪人の裡に知らず染み付く陰の気が、死に逝くその時闇烏の陰質と共鳴するのだ。
 けれど生有る者には此の闇は恐怖と嫌悪を呼ぶものでしかない。
 狂ったように群がる雑兵を印を結び影を跳ばして弾き、僅かながらに開いた路から突破する。そのまま風を味方に駆ければ、重い具足を付けた兵など追っては来れない。
 部下の知らせた主殿の方向は、風の流れの先だ。真っ直ぐに敵に飛び込む癖の有る主だが、駆けるうち、知らず知らずに今日の此の少しばかり強い風に煽られたのだろう。武田の追い風だ。矢が良く飛び、敵矢は届かぬ。
 
 淡々と現れる敵を屠りながら、佐助は雪の上を滑らかに滑落するように、奈落を覗く。殺し過ぎて、ふと其の得物の切れ味の悪さを、血脂の重さを意識した時に湧き上がるどうしようもない焦燥や絶望に近い気分は、今は無い。闇烏が其の言わば人間らしいとも言える感情を、綺麗に食い尽くしてしまうのだと佐助は思っている。
 酷く楽だ。
 此方側に転がり落ちる事は、本当はとても楽な事なのだ。ずっと知っていた。斜めに傾いだ己の質の下の先が指して居るのは、何時でも此の奈落なのだ。
 涸れ井戸の底の様にひんやりと冷たく、暗く、静かで、生臭さは直ぐに鼻を麻痺させて、何もかも鈍感になって行く。けれどその技ばかりが酷く冴えて、迷いも何もかなぐり捨てた──否、そもそもその様なものを持たない、其れは何処か、己の主を思わせた。
 まるで正反対の処に在るのに、其処は主の居る境地と鏡合わせの如く良く似て居る。
 
 とん、と、一見軽く蹴った大地が深く爪先の形に抉れた。高く高く跳躍をして、佐助は大きく羽を広げて滑空し、頭上を舐めた大烏の足へと手を伸ばす。闇烏を掴んだままの手首を、大烏の足がしっかと掴んだ。
 そのままぐんと高度を上げて、大烏は僅かな手首の動きだけで方向を察知して佐助の目指す方向へと飛ぶ。時折飛んでくる矢を垂らした右手で払いながら、佐助は手の中の得物の纏う陰質にうんざりと眼を細めた。
 殺せ殺せと僅かにはしゃぎ囁く様だった闇烏は、死と血の臭いがなければ静かな物だ。此れの陰気は、妖器とは思えぬ程の静寂を持つ。
 何処となく明度の低い、ねっとりと絡み付く様な気は、そうそう皆に見える訳ではない。だが、乱世の兵だ。生き死にの狭間に居る所為か、兵士達の間には此のどんよりとした気が見える者も居て、そういった連中に、佐助は遠巻きに恐れられて居る。闇烏を持つことは稀にしかないが、それでも一度根付いた恐怖は拭えない。
 此れが見えて居つつも恐れを知らないのは、此の己の烏と、部下と、幾度かまみえた虎の好敵手、毘沙門天の化身だけだ。武田の虎と赤獅子には、此の闇は見えぬのだと言う。また、毘沙門天のつるぎにも、此の闇は、見えない。
 
 彼奴は忍びの癖に綺羅綺羅してるからなあ、と、ふっと唇を綻ばせて、佐助は僅かながらも薄れた陰質に視線を上げた。高度が下がる。成る程、たった一人の将を討ち取らんとしているのであれば、これは大軍だ。あの中にぽんと降りては、流石に生きては居られぬかも知れぬ。
 その大軍の目指す中心に時折炎が爆ぜるのを確認して、佐助は軽く手首を振った。慣れた間で、大烏の足が外れる。
 佐助は大軍の端、少しばかり中心へと向かい手薄の、陣の綻びを目指して高みから飛び降りた。
 再び奈落を覗くのだと、判っては居ながらも。
 
 
 
 
 もう斬れないだろうと思う程の命を吸い上げておきながら、そもそもが切れ味の悪い、血脂の拭えぬ闇烏は、益々と冴え鈍くも輝かなかった刃の先を、薄らと、血の色に光らせる。
 いつもならばもう疾っくにうんざりとして居る頃合いだ。此の大手裏剣は、嬉々として命を奪うのだ。其の悦びのままに僅かずつ昂揚して、昏く、静かなままに、研がれてゆくのだ。
 けれど佐助は淡々として居た。返り血が目に入った気がしたが、痛みが走ったと同時だったから己の血かも知れない。
 しかし次の瞬間には其の敵は地に倒れ伏して居て、視界がさあと晴れ、視力が戻る。それで、嗚呼なるほど今のは眼球を切り裂いたものだったのだなと気付いた。もう瞼に浅く、治り切れなかった傷が残るばかりだ。
 ちらとも見なかったが、もしかすると何処ぞの名のある武将だったのかも知れない。今まさに悪鬼の形の佐助の間合いに踏み込み、あわや一撃で、目を突き命を飛ばす所だったのだ。
 そうか今己は死に掛けたのか、と頭の何処かで考えながら、振った両腕の先から闇烏が飛び立つ。一舐めして手に戻った其れは真っ赤に濡れて、しかし足らぬと、未だ未だ、もっとと、童の様に駄々を捏ねた。
 はいはい、と口の中で呟いて、意識もせずに、唇の端がきゅうと笑みの形に吊り上がる。
 
 と、
 
 ご、う、と、音を立てて、左側へと迫っていた敵を、熱気が舐めた。
 思わずぴくんと跳ねた指で闇烏を握り直した瞬間、次は右の、雑兵が。
 
「さ、す、けぇ………!!」
 
 戦の音も、炎の猛りも、陰気の囁きも何もかも吹き飛ばす程の大音響で、叫びと共に吹き付けた熱風は一瞬で呼気すら焼き尽くし、佐助は詰まった息に目を見開いて、それからさっと左へ飛び退いた。じ、と髪の先が焦げた。彼れだけしっかりと握っていた筈の、最早己の手指の一部と化して居た得物が、容易く離れ転がった。鎖が大手裏剣を引きずって、その重さに手首を取られながらも佐助は地を転がり身を丸め頭を庇う。ざあと装束の表層を熱が舐めて、焦げが鼻を擽った。
 さあと寒気がするように、頬を熱が焼く。勘弁してよ旦那、と呟いた声は困り果てて居て、佐助は其の間の抜けた己の声に僅かに鼓舞され幾度か薄い空気の中呼吸をして、乾いた舌を引き剥がす。
「もう、俺様まで殺す気かっつーの!」
 毒突いた声は弱々しく掠れてはいたが、佐助はほうと安堵して、頭上を走る熱が冷めるまで、ただひたすら躯を丸めてやり過ごした。
 
 
 
 
「佐助!!」
「声でかいよ、旦那」
 はあやれやれ、と身を起こし、炭になった装束がざらりと帷子の上を落ちて行くのをげえ、と顔を顰めて眺めてぱらぱらと払い、佐助は鎖を引きずって得物を回収した。闇烏は、凄まじいまでの陽の気に恐れをなしたか沈黙している。静寂と言うには乱れた気だが、此れだけ血を吸った直後だ、多少の荒れはあるだろう。
「ちょっと旦那ぁ、あんた俺様まで炭にする気? 勘弁してよ、俺だってあんたの火に焼かれちゃ死ぬんだから」
「仕方あるまい! お前が幽鬼の様な顔をするから」
 ふん、と鼻を鳴らした幸村は、その血に汚れた手でべちん、と佐助の頬を叩いた。
「痛った、ちょっと! 火傷の上!」
「おお、すまぬ。これは酷いな」
「あんたのせい! まったく、痕が残ったらどうしてくれんだよ、この男前の顔にさあ」
「凄みが出て良いではないか」
「断じて良くないです」
 言いながら立ち上がると、一気に目方が増えたかの様に重い躯に膝が蹌踉めいた。がっしと掴まれた肩をぐいと引き寄せられて、血と泥と煤と汗の臭いのする汚れた赤い鎧に、どしりと支えられる。
「この辺りの殲滅は終えた」
「嗚呼、うん、」
「お前が来てくれて助かった。敵の気が乱れたぞ」
「そりゃあ、良かった。旦那、怪我は」
「お前ほどではない」
「俺は、ないよ。知ってんだろう、闇烏、」
「佐助」
 未だ何処か幼さを残していると思えば、時折こうして大人びた声色で、恐ろしくなる程慈悲に満ちた声を出す。過渡期、と言うものは誰にだって在るものだが、幸村の其れは、時折、本当に何気ない瞬間に、胸を抉る様でいけないと佐助は思う。
「疲れたな」
「……旦那でも疲れんの」
「其れは、そうだ」
 だがお前ほどではないともう一度繰り返して、幾度か佐助の背を撫で、幸村はそっと身を離した。
「お館様の所へ戻ろう、佐助」
「はいはい」
「気力を分けて頂かねば」
「旦那は気力充分じゃないの……」
「お前がだ」
 某では足らぬと背を向け歩き出した幸村を呆然と見て、其れから佐助は鉛のような足をずるずると引きずり歩き出した。遠く、法螺貝が鳴っている。武田のものだ。武田の勝利だ。
 ただ、ただ、眩しいばかりの輝きが、今の此の身には少し辛い。年輪を重ね、陰をも包む虎の僅かに明度の低い夜の炎の様な熱は確かに、暴くばかりの主のものよりは馴染むのだろう。
 
 けれど。
 
「旦那」
 振り向いた幸村は、一歩戻り佐助の隣に並んだ。佐助は俯いたまま、小さく唇を歪めて嗤う。腰に下げた闇鳥が、重い。
「帰ったら、大将はきっと休みをくれるな」
「少し休まねばならんしな」
「今日は酒は呑まなくても良いだろ?」
「流石に某も疲れた。酒宴は遠慮させて頂こうとは思っている」
 そうか、と返した声が思う以上に安堵を含んで、幸村が口を噤んだ気配がした。それからそっと持ち上がった手が、歩きながら血と泥で固まる橙の髪を撫でる。ざらざらと、焼けた髪が落ちた。
「今日は共に居てくれるか」
 天井裏でなく、隣に、と顔を見ずに続けた幸村に僅かに顔を顰めて、佐助ははいはい、承知、と笑って答えた。
 笑みは苦さを含んでいて、それが自嘲であることを、佐助は良く知っていた。

 
 
 
 
 
 
 
20061229
十死一生の日

足り過ぎて溢れる