夕焼けに鎌を研げ

 
 
 
 
 
 

 突き刺さるような殺気だった。
 ぞわりと全身が総毛立つ。そのまま凍り付いてぶうんと振られた、端から見るよりずっと素早く的確な動きをする巨大斧に当たれば佐助の細い躯など練兵場の隅まで吹き飛び、確実に死ぬだろう。
 そんな事を考えたのは、後になってその時の事を思い出してからだ。兎に角其の時には殺気を感じた瞬間、反射的に佐助は毒液をほんの僅か、けれど相手の顔に吹き付けるには充分なほど詰めた小さな呼び子のような筒を咥えていた。間近に迫っていた信玄が、目敏く気付き仰け反る。
 しかし、遅い。
 獲った、と確信をした。強く息を吹き込んだ毒筒から毒液が霧となって吹き付けて、ぐむ、と呻いた信玄が片目を強く閉じたのが見えた。佐助はそのまま細い腕には過ぎる程の大手裏剣で追撃を掛けようとして、耳に微かに届いた空を切る音に、反射的に後方へ飛んだ。瞬間、先程までの佐助の立ち位置に、たたた、と獣が駆けるような音を立てて、苦無が突き刺さる。
 その鈍い輝きに、佐助の昂揚していた凶暴な何かが、冷水を浴びせられた様にざあと冷めた。血の気が引く。
「其処まで、其処までじゃ!!」
「お館様!!」
 ばたばたと家臣が駆け寄る。未だ未だじゃあっ、と鋭い声を上げた信玄は、すっかりと戦意を喪失してだらりと得物を下げ、家臣に囲まれる信玄を所在なく見て居た佐助に目を向け、は、と眉尻と斧を下げた。
「佐助、」
「猿飛、貴様!」
 振り上げられた手は、勿論避けようと思えば避けられた。けれど敢えて頬で受けると耳の奥がきんと鳴る。武人の力で張られた頬は、痛いと言うより熱かった。
「止さんか!! 佐助、気にするな。こんなものは何とも、」
 鋭い制止を上げ、もう一度名を呼んだ信玄は、わらわらと家臣と医師に囲まれて、ちっともこちらへ出て来れない。
 佐助は深く息を吐いて、深々と頭を下げた。真剣勝負を望まれたとは言え、手合わせで主人に毒まで使ったのだ。武人から見れば酷く卑怯な手には違いない。手討ちになっても止むを得まい。
 けれどその場で腹を切れと命じる者も居なかったので、佐助は未だこちらを気にしている信玄にちらりと目をくれて、その場から姿を消した。
 
 
 
 
 戦場へ出る様に、完璧に武装をしてお館様の所へ行けと告げられて、てっきり何か仕事を申し付けられるものだと思ったのだ。
 だのに武器だけでなく毒や薬まで用意をして赴くと、練兵場へ連れて行かれて殺す気で掛かって来いと言う。
 まさか主に殺気を向ける等、と勘弁してくれと乞うても未熟な子忍び一人に獲られる様なら甲斐の虎もそれだけの者だと言われては、引くに引けない。そもそも、主命であるなら佐助に出来るのは乞う事だけで、断る事など不可能だ。信玄に譲る気が無ければ、やるしかない。
 佐助はもぞ、と膝を抱えたまま絡めた足を逆にした。等閑に手当てをした傷がずくずくと痛む。肋は少しばかりひびが入って居る様な気がする。折れてはいないから、まあ、多分、手加減はされたのだろう。
 信玄の部屋が見下ろせる木の太い枝に座り込み、どれだけになっただろう。初めはばたばたと医師や侍女や家臣が出入りしていたのに、今はしんとした儘だ。信玄は入った切り出て来ていないから中で休んで居るのだろうが、出入りを見ていた限り、佐助が此処に来る前に既に誰かが控えて居たのでもない限りは、信玄一人が居る筈だ。
 負傷した主を一人残す等考えられない事だから、そうだとするなら信玄が人払いをしたのだろう。辺りにも、人の気配は一切無い。忍びすら潜んで居ない様だ。佐助に気配を悟らせずに居る程の者が潜んで居るのならば、また話は別だが。
 ぼんやりと眺めていると、ふと濃密な気配が動いた。瞬いている間にすと障子が開いて、縁側にのそりと信玄が出て来る。火の気の強い、気配を隠す事のない、けれど戦いの中では時に驚く程鮮やかに、その気配を断ってしまえると先程気付かされたばかりの、見た目の豪快さや派手さとは裏腹に狡猾さを秘めた虎は、きょろきょろと周囲を見回した。
「佐助」
 何処にともなく声が掛けられた。まさか自分が此処に座り込んでいるのに気付いた訳ではないだろう。幾ら信玄が気配に聡くても、易々と読まれる程低能ではないつもりだ。これでも未熟なりに、優秀だと自負している。
「佐助」
 矢張り気付いている訳では無いらしい。信玄はきょろきょろとしながら、庭や、天井や、果ては縁側から身を乗り出して屋根に向けてや、うろうろと動いて佐助を呼ぶ。佐助は居心地悪く肩を竦めた。
「佐助、出て来んか。饅頭をやるぞ」
 食い物で釣るのかよ、と思わず苦笑して、佐助は痛む躯を宥めて身を起こした。
「佐助、」
「はいはい、何です」
 背後に立って偉そうに腰に両手を当てていらえを返せば、振り向いた信玄はおお、其処に居たかと破顔した。その顔の半分に大袈裟な程に布が巻かれて、毒霧を浴びた左眼を覆っている。
 佐助は顔を歪め、それから全然関係の無い事を口にした。
「別に、饅頭に釣られたわけじゃないよ。あんまりあんたが煩いからさ」
「何、遠慮するで無い」
 別に遠慮なんて、と言い掛けた佐助は、言葉半ばにぱくんと口を開き、うわあと間抜けた声を上げた。ひょいとまるで幼子にするように太い腕に抱えられて、ぱちぱちと忙しなく瞬く。
「ええ、ちょっと、何だよこれ」
「お主は逃げてしまいそうじゃからのう」
 言って、のしのしと歩き自室へと入り、ぱしんと行儀悪く足で障子を閉めて、信玄は汚れ一つない座布団の上に佐助を下ろした。ぽかんとした儘座り込んでいる佐助の向かい、伸べられた布団の上に、信玄はよいせと腰を下ろす。
「傷はどうじゃ。医者の所にも、忍び隊の所にも顔を出しておらんと聞いたが」
「自分で手当てしたから、平気ですよ」
「馬鹿者。掠り傷で無いのは儂がよう知っとるわ。医者を呼ぼう、手当てをしてもらえ」
「良いですって! そんな立場じゃないよ!」
「お主の為に用意していた医者じゃ。仕事をさせてやらんか」
 まあ不覚にも儂が世話になったが、と笑って、信玄が腕を伸ばした。佐助はじっとその大きな、肉刺だらけの硬い手が自分の顔に迫るのを見詰めた。未だ熱を持っている頬を撫でられる。
「酷い顔になったもんじゃな」
「別に、平気ですよ」
「耳は痛まんか」
「大丈夫です」
「まあ、彼れにはよく言って置いたから、許してやってくれんか」
「怒ってないです。て言うか、俺こそ、その、」
 うん? と首を傾げる主に、佐助は僅かに目を伏せた。眉間に皺が寄るのを止められない。
「お咎めなら、さっさと申し付けて欲しいんだけど。腹を切れって言うなら、庭、貸してよ。忍びの血なんかで汚すのが厭なら、どっかの山にでも入って死ぬし」
「………何故お主が腹を切らねばならん」
「だって、危うく……その、目、治るんだよな?」
 そっと伺うように上目遣いに見ると、お主は儂を馬鹿にしているのかと呆れた顔をされた。
「毒などほとんど入っておらんわ。二、三日大事にした方がいいと、医者が勝手に大袈裟にしただけじゃ」
「ええ、だけど」
「馬鹿にするでない。これでも戦場で幾らでも忍びと戦った事は有る。この程度、忍びの戦い方とすれば未だ未だ手緩いわ」
「でも、卑怯だとか思わないんですか」
「武士が使えば卑怯な手だと罵られるかも知れんな。されど忍びの遣り方と言うものがあろう。儂はお主に殺す気で掛かれと命じたのじゃ。───のう、佐助」
 ふいに声が低く落とされ、覗き込むように顔を近付けた信玄を避けずに佐助はじっと其の、今は隻眼の目を見た。
「お主、儂の殺気に乱れたな」
「………まあ、そりゃ、」
 やはりな、とにやりと嗤い、信玄は満足げに頷いた。
「お主があんまりのらりくらりとしているから、ちょっとからかって見たんじゃが」
「か、からかったって、それで殺気なんて」
「何を言う。お主も忍びなら、殺気の一つくらい操れる様にならんか。殺気無く戦える様になってこそ、一人前の忍びだろうて」
 殺気が駄々洩れて居たら獲れる首も獲れぬぞ、と諭されて、佐助ははあ、と曖昧に答えた。
「……あの、それで、お咎めは?」
「有るわけがなかろう、そんなもん」
「そんなもんって、でもそれじゃ、示しが」
「儂が手合わせをしようと言い出したのだし、お主が渋っていたのはあの場で見物していた者全てが見ておる。其れでも尚お主を咎めれば、信玄はどれ程横暴かと、人心も乱れよう」
 けど、と未だ言い募る佐助に、信玄は苦笑した。
「のう、佐助。お主は直ぐに何処ぞへ眩んで仕舞った故、彼の後を見ておらぬだろう。お主に同情をする者も居たのだぞ」
 可哀想に、命じられた通りに良く戦ったのに、今頃何処ぞの影で怪我の手当てもせずに泣いてでも居るのではないかと。
「泣くわけないでしょ!」
「まあそう言うな。お主の腕は皆が認める所ではあるが、お主は未だ年端も行かぬ子供よ。お主自身が一端の積もりでも、屋敷の中には儚く見る者も居る。特に侍女や下男には、お主、なかなか気に掛けられているんじゃぞ。実際、先程もお主を打った彼れは、子供に手を上げるなどと散々に評判を落としてな」
 知らなかったろう、と衒い無く笑う信玄に、佐助は困惑して、はあ、とまた曖昧な相槌を打った。
「さて、では医者を呼んで来よう」
「え、い、良いですよ、本当に! 別にそんな、大した事……」
「何度か手応えが有ったからな。其れ程軽い傷で済む訳がないのは、儂が良く判って居るわ。まあ、待っていろ。序でに茶も淹れさせよう。一緒に饅頭でも食おう」
「だからあ、別に、饅頭に釣られたんじゃないって!」
「お八つを一人で食うのも味気ないじゃろ」
 付き合え、と言って、立ち上がった信玄は、佐助を座布団に押し付ける様にぐわしぐわしとその橙の髪を豪快に撫で、のしのしと部屋を出て行った。
 佐助は乱れた癖毛を手櫛で梳きながら、憮然と頬を膨らませ、痛んだ其れを手持ち無沙汰にさすった。

 
 
 
 
 
 
 
20061220

弁丸さまを知らないさすけ