「それで、追い出されたか」
酒の肴に事一通り事情を聞き、信玄はくつくつと喉を鳴らして杯を口に運んだ。
はあ、と気のない返事をし、佐助は揃えた膝に手を乗せたまま、僅かに首を傾げる。
「なので、暫く此方で使って下さい」
「暫くとは、何時までの事じゃ」
「真田の旦那のお許しが出るまで……」
「お主、先程彼奴に二言はないと申したではないか」
そうだけど、と口籠もり、佐助は眉尻を下げた。まだ幼さの抜けない若い忍びに、信玄は脇息に肘を置いたまま、笑みを含んだ目で見遣る。
「まあ、兎に角、他家に入って彼のお方の敵に回るつもりはないんで。こっちに置いて貰えないんなら、謹慎でもしてますよ」
「ならば一度くらい、許しを請うてみても良かろう。彼奴とて若い。二言はなくとも、弾みはあろう」
「……うーん、でも、出て行けとはっきり言われちゃったし、そしたら簡単には、前言の撤回は望めないと思うんですよね」
「前言を撤回させるのではないぞ、佐助。許しを請えと言うただろう」
それとも頭を下げるなど矜持が邪魔をするか、と問えば、佐助はへにゃりと笑って頭を振った。
「まさかあ。俺様、忍びですよ。そんな腹の足しにもならないもん、持ってねえよ」
そうかそうか、と笑ってふさりとした髪の被る頭を撫で、信玄は目を細めた。
「のう、佐助」
「はい?」
「彼奴は未だ元服したばかり、忍びを使うも慣れておらぬ。忍びがどれだけ主に忠実であるかも知らぬ、若輩よ」
佐助は端座した足を僅かに動かし、元よりぴんと正していた姿勢を更に改めて静かに信玄を見詰めている。以前ならば童ではないのだ、忍びに軽々しく触れるものではないと嫌がっていたはずの手も振り解く事もない。
甘えておるな、しかし如何にも不器用な甘え方よと親も知らぬ若者の内心を見ながら、信玄は続けた。
「許してやってはくれんか」
「許すも何も」
佐助は困惑顔で小さく首を竦めた。
「俺は何も……旦那が怒るのも、当たり前の事だしね」
「ほう、見限ったのではないのか」
「まさか」
佐助はきゅっと眉を顰めて首を振った。
「何で俺が、主を見限らなきゃないんだよ」
「しかしお前程の忍びならば、真田如きに留まる事もあるまい」
「あんた自分で真田に行けって言っといて、それってちょっと酷いんじゃないの」
ぷうとむくれて、佐助はふと睫を伏せた。眉間に僅かに残る皺と相まって、憂いの濃い表情だ。そうしていれば意外と切れ長の目尻が、少年から漸く脱したばかりの年齢も相まってか、女の様な色香を乗せる。
「俺の方こそ、慣れてないからさ」
軽く片眉を上げて促せば、佐助は小さく溜息を吐いた。
「大将はさ、忍びの扱いは慣れてるし、だから俺も言われた通りに動けばそれで良かったし、まあ任務はきつかったけど、気楽だったんだよね」
「気楽とは、言うのう」
「別に、悪い意味じゃないんだよ。俺様は頭悪いからさ、頭使うの苦手なの。定石通りに命令してもらった方が、楽なんだよね」
佐助ははたはたと手を振って悪戯げに微笑し、しかし直ぐに難しい顔に戻った。
「だけど、彼の人はさ、佐助はどう思う、此れは如何にすれば良いのか、何かあらば意見致せ、なんて、俺様に言うわけよ。戦の事だけじゃないよ。厨に南瓜がある様だが明日の飯はどうしたらいいかとか、何処ぞの土地は何が美味いかとか、晴れるかとか、雨なら予定はどう繰り越せばいいのかとか、手紙の書き出しの挨拶は何が良いだろうか、なんてのまでさ、一々俺に声掛けてくるのよ」
「………ふうむ」
「まあ、最初はそんな事は忍びの仕事じゃないよって思ったけど、でも主が問うて来るのに答えないわけにもいかないでしょ? そりゃ、知らない事は答えられないけど、一応俺様も忍びの端くれだし、広く浅くなら知ってる事は多いしさ。知ってる事なら、答えて悪いって事もないだろ」
「そうだな」
だよね、と頷いて、佐助は妙に生真面目な顔をした。
「だけど、それにちょっと慣れて来て、緩んだんだよね。俺の悪い癖だよな」
先日の小競り合いの際、普段の調子で突き進む主の首根っこを掴み後方に引き留めて、そうして忍び隊で敵方の殿を叩いてしまったのだと失態の報告を繰り返して、佐助ははあ、と今度は深々と溜息を吐いた。信玄は顎を撫でる。
「まあ、彼奴も血気に逸る年頃だからのう」
「それだけじゃなかったんですよ。真田は当主が代わって間もないし、真田の旦那は若さ故に軽んじられてる節もある。年が明ければ大きな戦もあるだろうし、その前に少しでも、諸将に虎の若子の名は伊達ではないと印象付けなくちゃいけないんだって」
なのにまた突出して、と浅はかに呆れて勝手をしたのは己なのだと佐助は少しばかり背を丸めた。
「武田に未だ真田ありと、そう認めさせる為に奔走しているってのに、また出遅れたって」
「血気に逸る年頃だからの」
もう一度同じ言葉を繰り返して、信玄はふと喉奥で笑った。
「佐助。上田へ戻れ」
「………入れて貰えないよ、きっと」
「そんな事にはなるまい。しかし締め出されたなら、此方へ戻れば良い。彼れに貸しておるとは言え、お前は元々儂の忍びじゃぞ。気兼ねなく戻れ」
「命令を聞けない忍びなんぞいらん、てお手討ちにでもなったら、どうするの」
「そんな阿呆にお前ほどの忍びの命をくれてやる訳にはいかんな。万が一彼奴が阿呆であったなら、さっさと逃げて来い。そうしたら、二度と彼れには、お前は貸さぬわ」
佐助は小さく首を傾げてまじまじと信玄を見た。何だ、と瞬いて見せれば、妙に険のない顔で不思議そうに口を開く。
「彼のお人を、随分と買ってるんですねえ。阿呆な訳はないって、そう言ってるみたいだ、大将」
「まあ、そうだな」
「真田の旦那の……ああっと、前の真田の旦那の、一人息子だからですか」
「昌幸は関係がない、とは言えぬが、しかしそれだけではないぞ」
「気に入ってるんですね」
ふっふ、と笑い、信玄はくしゃりと橙の髪を掻き混ぜた。
「お前を貸してやる程度には、目を掛けておるつもりよ」
くしゃくしゃと気が済むまで髪を掻き混ぜ、迷惑げに顔を顰めながらも大人しくしている佐助にもう一度笑って、信玄はぽんとそのつるりとした額を叩いた。
「ほれ、疾く戻れ」
お帰りなさい、と笑顔の門番に挨拶をされ、どうやら家人達は馘になった事を知らぬらしい、と見当を付け、佐助はそっと主の居室の前へと膝を突いた。
「真田の旦那」
そっと声を掛け、熱の気配を探る。
「入れ」
もう一度声を掛けようと口を開き掛けると同時に入室を許されて、佐助は些か緊張して口を噤み、板戸に指を掛けた。
「───早い戻りだな」
「あ、」
座敷の端に端座して、佐助は向けられたままの背に肩を竦める。
「すみません。あの、」
「お館様の所へは、未だ文は届いておらぬと思うが」
それとも彼の早馬は空でも駆けるか、とぶつぶつと続けられた言葉に、佐助はぱちくりと瞬いた。
「文ですか? いえ、俺が出て来る時には、未だ何も」
「そうか」
ならばお館様はお見通しであるのだな、流石、と低く熱心に呟いて、幸村はぐるりと膝を回し、佐助を見据えた。思わず視線を落とし、佐助は膝に当てた手を握る。
「お館様に、正式にお前を真田へ下賜して下さらぬかと、そうお願い申し上げた所だ」
え、と慌てて目を上げ、主の黒い瞳に一欠片の冗談も無いのを見てとって、佐助はああそうか、とぼんやりと思った。
此の主の物となってしまえば、手討ちにすると言い出されても、最早逃げ帰る場所は無い。
主の不興を買って手討ちなどらしい死に方とも言えるが、若い身空で、主の為にもならずただ庭を汚して死ぬのも厭だな、と考えながら、しかし佐助には飛んで逃げ帰るつもりはもう無かった。信玄の申し出は有難かったが、けれど此の主がお前など要らぬと言うのなら、そうまでして此の命に購いを求めるのなら、それはもう仕方のない事だ。
信玄の不興を買わねば良いが、と考えながら主を見ていると、幸村はふいに不快げに顔を顰めた。
「何か、言う事はないのか」
「え? ええっと、」
佐助はゆらゆらと頭を揺らし、それからぺたりと躯を折って床に手を突いた。
「出過ぎた真似を致しました。どうぞ、ご存分に処罰を」
「そうではない」
苛立ちを隠しもしない声色に、佐助はちらと目を上げて、それからむくれた主のその幼子じみた顔に眉を下げた。
「旦那?」
幸村はますますむくれた。年の頃としては未だ子供と呼んでもおかしくはなかったが、それにしても珍しい顔だ。此の主は普段は年の割に些か老けた所があって、子供の様にはしゃぐ割に、子供の様な駄々は捏ねない。
「嬉しいとか厭だとか、何かあるだろう!」
ぱちぱち、と瞬いていると、幸村は焦れたのか佐助の腕を掴み、強引に身を起こさせた。子供の手加減の無さで、握力の強い手に遠慮なしに握られた二の腕が痛い。
「その、お館様ほどの禄も出せぬし、そもそもおれは若輩だ。堪え性も無いし、お前に呆れられ、見限られても仕方が無いが、しかし、佐助」
幸村は大真面目に告げた。
「お前はおれの、初めての友だ」
「へ、」
「同時に、初めての臣でもある。借り物であるか無いかなど、忍びであるお前にとっては重要では無いかも知れぬ。だが、おれには大事な事だ」
お前が欲しくなった、と女であったならそのまま済し崩しにでもなりそうな口説き文句を吐かれ、佐助はぽかんと開けていた口に気付いて慌てて閉じた。
「………あの、」
「何だ。言え。聞ける事なら、何でも聞くぞ」
「その、だって旦那、出て行けって」
「その前に主を信じられぬのなら、と付けただろう! 矢張りお前、聞いていなかったな!」
全く阿呆め、と声高に罵って、けれど顔は気兼ねのない、ただ拗ねただけの同じ年頃の少年そのもので、恨みがましさなど一つもない。
「本当に出て行ってしまう奴があるか! まったく」
「いや、だって……」
「それは、言葉の綾とはいえ、出て行けなどと言ったおれが悪い。お前が忍びだと言う事は判っているのだが、しかし時々忘れてしまうのだ。佐助は気易いと思うておるのだ。だから、その、立場をだ、時々失念してしまうのだ」
すまなかった、と頭を下げられて、佐助は慌てて手を振った。
「ちょっと、頭上げて下さい! 厭だよ、そう言うの。俺様、慣れてないんだからさあ……」
「ならば、慣れろ! おれもお前の流儀に慣れるよう努力はするが、お前もおれに早く慣れろ。お前はおれの忍びになるのだ」
「そんな、無茶言うなよ。大体、お館様がなんて言うか……」
「今は無理でも、後々には必ず、お前を貰い受けるぞ」
大真面目に言い切って、幸村はがっしと佐助の顔を掴んだ。意外と大きな手は、合わせてみればもしかすると、佐助よりも大きいかもしれない。未だ未だ成長途中の不格好な子供の手は、その気性そのままに熱い。
「どの道おれの物になる日が来るのだ。今から慣れておいて、何の不都合がある」
いいな、と此方の都合などお構いなしに一方的に通達し、幸村は唐突に手を離した。佐助はじわりと痛んだ頬をそろそろと撫で、眉を下げたまま幸村を見る。
「じゃあ、お咎めは無しなんですか」
「当たり前だ。お前は当然の事をしただけだ。忍隊の方へも、褒美に休暇を出した。編成などはおれには判らぬから、お前が戻ってから決めろと、そう言うておいたが」
「え、別に俺がいなくっても、長に決めてもらえば……」
「真田忍隊の長は、お前にするぞ」
今度こそぽかん、と遠慮無く口を開けて、佐助は目を瞠った。
「ば……っかですか、あんた!」
「何が馬鹿だ」
「お、俺みたいな未熟者が、隊一つなんか預かれるわけ、ないだろ! 第一俺は武田の忍びだよ! 真田忍びの長なんて、」
「貰い受けると言っただろう!」
「だからって、直ぐに受け入れてもらえるわけ、ないでしょうが!」
「其処はなんとかしろ!」
「なんともならねえよ、馬鹿っ!」
一頻り怒鳴り、肩で息をして、佐助はかくりと首を倒した。
「もう、やだなあ。甲斐に帰ろうかなあ」
「な、何だと! そ、そんなに長の任が厭なのか!?」
慌てた幸村の声に、佐助は態とくたりとしなを作る様に床に手を突いた。
「だって、そんなことしたら、俺様が真田に慣れる前に反感買っちまうよ。後に遺恨を残すし、下手すりゃその所為で、味方に寝首掻かれるなんて事にもなりかねないしさ」
旦那は俺様がそんな死に方しても良いんだ、としょんぼりと言うと、幸村は慌ててぶんぶんと首を振った。
「な、ならば、暫し時期を見る! それで構わぬだろう!?」
「どうしても俺を、長にしたいんですか?」
「それは、そうだが……」
「どうして? お館様のご推薦の忍びだからですか」
心外だ、とばかりに幸村は眉を上げた。
「お前の働きぶりを見て、お前ならばと思うたからに決まっているだろう。それに佐助、お前何か思い違いをしておらぬか。お館様がお前を真田に貸して下さったのは、おれがそうして欲しいと願い出たのを、聞いて下さったからなのだぞ」
え、と目を丸くすれば、間抜け面だと笑って、幸村は漸く気を抜いたのか足を崩し、腕を組んだ。
「此の幸村に代が移り、真田忍びも減ってしまったからな。此れ以上兵力を落とさぬ為にも、誰か武田から手練れを貸し出そうと申して下さった時に、ならば佐助をとお願い致したのだ」
「俺、旦那に面識なかったよね?」
「お前は知らぬかも知れぬが、おれはお前を知っていたぞ。戦に出ておっただろう。その頭が、如何にも目立ってな」
一度手合わせしてみたいと思うておった、と笑う幸村に、そんな理由で選ばれたのか、と溜息を吐いて、佐助はやれやれと肩を竦めた。
「主が代わって、歯抜けの真田忍びを統括するのに手練れを貸してやろうって、お館様はそう言ったんじゃないの?」
「そうかも知れぬ。しかし佐助を、と申した時も、彼奴ならば役に立とう、と言うて下さったのだぞ」
「ええ、なんだそれ。大将もいい加減なんだからなあ……」
「お館様はいい加減なお方ではない!」
はいはい、と聞き流し、佐助はわしわしと髪を掻き混ぜた。それから信玄も此の頭が好きだったな、と久々に撫でられた事を思い出し、そっと掻き上げ指で梳く。
その仕種に何を思ったか、唐突に手を伸ばした幸村が、わしりと頭を撫でた。
「お前の髪は、まるで鬼子だな。逆巻いて、火の様だ」
「戦忍には珍しくないでしょ」
「茶金や白髪は見るが、橙はそうは見ぬ」
「親に異人の血でも、入ってたんじゃないの」
「そうかも知れぬな」
しかし、とふと唇に笑みを刷き、幸村はざくざくと佐助の髪を梳く。
「武田には相応しい色だな。大事にしろ」
「大事に、て」
「何なら、伸ばしてはどうだ」
「厭だよ。重たいし、掴まれたら首が折れるし」
「掴まれるようなへまをしなければ良いだけだろう」
自らの長い後ろ毛をちょいと跳ねて見せ、まあいい、と直ぐに興味を移したか幸村は座り直した。
「何にせよ、よくぞ戻った、佐助」
任務から戻った訳でもないのに大袈裟な、と小さく笑い、佐助は畏まって頭を下げた。
「猿飛佐助、只今帰還致しました」
うむ、と大仰に頷いた年若い主が可笑しくて、佐助は声を立てて笑い、笑うな、と遠慮のない手に小突かれた。
20080906
こどもとこども
文
虫
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