韋 弦  佩

 
 
 
 
 
 

「まったく、何度言ったら判るんだ!? 自分の限界くらい知れって言ってんだろ倒れるまで鍛錬するな! あんたそれだけの才がある癖に、なんでそんなことも出来ないんだ!!」
 鍛錬だからいいものの、もしこれが戦場ならあんたもう胴から首が離れてるよ判ってんのかッ、と額に手を当てこれ見よがしに溜息を吐きながら捲し立てる忍びに、幸村は縁側に横になったまま小さく肩を竦めた。頭の下には丸められた忍びの上衣が枕にされている。
「そ、某はまだまだやれたのだ。佐助が邪魔をするから、その……」
「邪魔!? 俺様が邪魔したっての!? ぶっ倒れたの支えて顔から地面に激突なんて悲劇を防いでやったのに、それが邪魔!?」
「ちょっとよろけただけではないか。倒れたなどと大袈裟な……」
「さっきまで目ぇ回してたお人の言うことじゃないっしょ、それ」
「ちょ、ちょっと寝ていただけだ! 目を回していたわけではない!」
「なんで素直に悪かったって言えないんだよ!」
「そっ、某は悪くない」
 いつもならば疾うにすまなかったと謝って説教に首を竦めるところなのに、何をどう間違ったのか、うっかりと言い訳をしてしまったのが悪かったようだ。謝罪の切っ掛けを逃してしまった。
 放任のようでいて、その実側女以上にも心配性なところのある忍びの怒りを宥めてやれやれしょうがないなあと言わせるための、幸村の知る唯一の手段は素直な謝罪だ。機嫌を取ろうにも、幸村の下手なおべっかではより一層険悪にさせてしまうだけだ。そういうものに、幸村は酷く不器用だ。自覚はある。相手の出方を窺って言葉を選ぶことなど苦手だ。
 それが、近しい者であるのなら、余計に。
「…………ふうん。じゃあ旦那は、飽く迄俺が悪いって言うんだな」
「い、いや、そこまでは言っていないぞ!」
「あんたが悪くないなら俺が悪いってことだろう。何せ余計な手を出して鍛錬の邪魔をしたみたいだからな」
 元々低い声がより一層低くなる。しかしそれは耳より膚に響くような底冷えのする声ではなくて、酷く弱々しく、語尾が掠れ詰まった、有り体に言って泣き声じみた、
「さっ……佐助!?」
 ぎゃあっ、と内心で喚いて幸村は飛び起きた。未だ熱の巡る躯が軋みを上げた気がしたが、そんなことより驚きが勝った。
 
 ────泣かせた!!
 
 ぼろ、と俯いた目から大粒の涙が零れ落ちたのを機に、まさに堰を切ったかのようにぽろぽろと溢れたそれが頬を濡らす。嗚咽を洩らすまいとでも言うように噛み締めた唇は震えていて、幸村はおろおろと両手を彷徨わせ、それから恐る恐る橙の髪をふわふわと撫でた。
 幼い頃からの付き合いで、任務で留守にしなくてはならない時以外には三日と離れたことのない間柄であるというのに、この忍びがこれだけ盛大に泣くところなど幸村は初めて見た。昔木から落ちて三日ほど目を醒まさなかった時と、仕事になど行くなと酷い我が儘を言って困らせた時に、静かに泣く様を見た事はあったのだが。他にももしかすると、幸村が知らないだけで影で泣かせていたことはあるのかも知れない。
 何にしても、酷く困らせるか、酷く心配をさせるか、そのどちらかに寄るものだ───と、思っていたのだが。
 
 否、心配をさせたのか。
 
 前は一体どうやって泣きやんでもらったのだったかと、動転ついでに変に思考が飛ぶ。
「すまん、佐助。某が悪かった。謝るから、泣くな」
 正座をした膝に手を置き、背を丸めて痩せた肩を震わせながら、佐助は幾度か頭を振る。ぱたぱたと落ちた涙が手っ甲を外した白く骨張った拳に落ちた。
「いっ……今はそう、言っても、だん、旦那は、どうせ、俺の言うことなんて」
 しゃくり上げながらの途切れ途切れの言葉に、小さな子供を泣かせでもしたかのように胃の腑がぎゅうと縮み痛んだ。幸村は腕を伸ばし、己の肩口に佐助の額を押し付けて、すまぬ、ともう一度謝罪した。ふわふわと髪が頬に触れる。
「本当にすまなかった、限界を見極めたかったのだ」
「いっ、いっつも、そう言って、あんたは……!」
「悪かった、もうしない。お前に心配を掛けるようなことは」
「…………」
 ひっく、と小さく肩を揺らして、きゅう、と指先が上衣をはだけ腰元に溜まった幸村の着流しを握った。
「……本当かい?」
「本当だ」
「誓うか?」
「誓う!」
「よし」
 ふいに張りの戻った声に、幸村は橙の頭を抱き締めたままぱちくりと瞬いた。
「………佐助?」
「なんだい、旦那」
「………その、お前今、泣いていたんでござるよ、な?」
「目から水がぼろぼろ落ちたらそれは泣いてるってことじゃないか?」
 ぺちぺち、と汗を拭いた裸の背を叩かれて、幸村はそろそろと腕を解く。現れた、人の悪い笑顔に、
「────嘘泣きかあッ!!」
「あんたが意固地になるからだろ」
 それより誓うと言っただろ、聞いたからな、とにんまりと笑う忍びに幸村はぶるぶると肩を震わせた。
「そっ……そんなものは無効だ!!」
「涙が出ようが出まいが、俺は本気だぜ。本気であんたを心配してるんだからな」
 鍛錬だからと言って限界まで、疲れ果ててぶっ倒れるなんてことを繰り返して病にでも倒れたら。そうでなくとも平時ではないのだ、動けずにいる所に、刺客でもやって来たのなら。
「いつでも俺が見ててやれるとは限らないんだぞ。もうちょっと、自分が生身の人間だと言うことを考えてくれよ」
 う、と目を泳がせ、伺うように佐助を見れば先程までの不遜な笑みを潜めて真摯な顔で幸村を見ている。僅かに眉を寄せ顎を引いた顔は気遣いが滲み出るようで、幸村は再び言い訳をしようと疼いていたもやもやがすうと晴れたのを知った。胡座を掻き、背筋を正してぺこりと頭を下げる。
「すまなかった」
「反省が次に生かされればいいんだけどねえ」
 漸く仕方がないねと笑って、佐助は手を伸ばしてはだけていた幸村の着物を整え始めた。
「今度やったらお館様に叱ってもらうからな、覚悟しろよ、旦那」
「そ、それはずるいぞ、佐助!」
「嫌ならしないの」
 小さな子を宥めるような口調で言う声は、どこか楽しげだ。
 不満は残るがまあ佐助の機嫌が直ったようだからいいか、と、一度気を損ねれば意外と長引く扱いの難しい忍びに世話を焼かれながら、幸村はずきずきと痛み始めた躯にううと唸った。
 そら見たことかと笑った忍びが、べち、と着物を羽織った背を叩いた。

 
 
 
 
 
 
 
20061122
実はマジ泣き かも いやどっちでもいいや…
本人(さすけ)にだって解りはしない