ひ      づ      め

 
 
 
 
 
 

 お前は人魚のようですね、と主は言った。
 
 
 
 
 
 ぱしゃん、と小さく水を弾く音がした。
 佐助はしゃがみ込んで頬杖を突いた姿勢で、水の中に蠢く白いものを見る。
「………ねえ、かすが。そろそろ上がりなよ」
 白い膚を惜しげもなく澄んだ水の中へ晒し、金の髪を清流に流したかすがはきょとり、と不思議そうな目を向けて、今にも潜ろうと顎まで沈み込んでいた顔を上げた。細い肩が露わになり、胸の膨らみが覗く。
「何を言っているんだ。私に死ねと言うのか?」
 円らに瞠られた瞳は子供のように邪気がない。しかしその目の下には黒々とした隈が浮かび、頬は痩けて、未だ暑い季節であるというのに唇は真っ青だ。
 佐助は小さく溜息を吐いた。
「其処にそのまま居たら、それこそ死ぬぜ」
「陸では暮らせない。私は人魚なのだからな」
 彼の方がそう言った、とうっとりと遠くを見詰めて最早亡い主を何処かに見るかすがに、佐助は沈黙のまま僅かに目を細めた。
 胸の軋みはどうしようもなく哀れな者へと感じる痛みで、しかしそれの為に己が指一本たりとも動かす事はないと、良く知っている。哀れむだけ哀れんで、しかし無慈悲に刃を振るう、己はそう言う生き物だ。
 しかし目の前の此の女の白い胸に、刃を突き立つ必要は無い。
 だから、佐助は此処に居た。頬杖を突いて、哀れな女を眺めて居た。
「かすが。ちょっとおいでよ」
 手招きをするとかすがは首を傾げ、けれど以前の反発心など何処へ行ったものか、至極素直にすいと水を掻いて寄ってきた。佐助は足下へとやって来た女の、すっかりとふやけ、ところどころ裂けてしまった躯に痛ましく眉を寄せ、けれど何も言わずに小袋から取り出した兵糧丸を矢張りふやけた青い唇に押し込んだ。かり、と白い歯が指先を小さく噛む。
「………お前の兵糧丸は、まずいな」
「贅沢言いなさんなって。厭なら其処から上がって躯を拭いて、火に当たれよ。そしたら茸でも木の実でも魚でも肉でも、何でも獲って来てやるよ」
「そんなものは食べない」
 ならば何を食べるのか、と訊いても、かすがは首を傾げるばかりだ。かすがの小さく形のいい頭には、人魚の食べ物の知識などない。女の主も、そこまでは語らなかったのだろう。
「ねえ、寒くないの」
「何故だ? 人魚が水の冷たさを感じるものか」
 ふうん、と呟き、佐助はつと指を伸ばし、額に貼り付いた金の髪を掻き分けた。傷のない額がつるりと現れきゅっと瞑った目と相まって、童のようだ。指先に触れた肌は、死体のように冷たい。
「なあ、佐助」
 ぱしゃ、と音を立てて、かすがの形のいい足が水面を蹴った。岩肌に寝そべるようにして浅瀬に身を寄せたかすがは、綺羅綺羅とした目で佐助を見詰める。
「彼のお方は、いつ私を迎えに来て下さるのだろう」
「………そうだねえ」
 佐助はゆらと視線を揺らした。此れ程体温を奪われて居ては、体力も直に限界が来る。そうすれば意識を失って、溺れはせずとも衰弱して死ぬだろう。
 そう、遠くない未来にだ。
「もうすぐじゃ、ないかなあ」
「本当か?」
「何よ。俺様が信じられないっての?」
「当たり前だろう」
 酷いねえ、と眉尻を下げて力無く笑い、佐助は肩を竦めた。
「けど、お前の主は、お前をほっとくようなお人じゃ、ないんでしょ? なら、直ぐだよ。そんなに待たないさ」
「そうだろうか……」
 かすがははにかんだ。薄らと頬に薔薇色が乗ったようにも思えたが、血の気が引いた白過ぎる肌はそう思って見直せば、変わらず白いままだ。
「彼の方のお手を煩わせるなど、私は駄目な忍びだな」
「そんなことないでしょ。お前が駄目なら、あんなに大事にしてなんかくれないよ」
 そうだろうか、ともう一度呟いて、かすがはふと微笑んだ。
「佐助」
「何」
「有難う」
 珍しい言葉に大きく瞬いた時、素早い影が動きついと肩を聳やかして再び水中へと身を沈め掛けたその細い項へ、鋭く手刀を叩き込んだ。
「な………旦那!?」
 声もなく傾き、ごぼりと沈み掛けた腕を掴んで引き上げた主は、力強い目で佐助を見た。
「何をしている、佐助! かすが殿が死ぬのを、指を咥えて見ているつもりか!?」
 佐助は口を開き掛け、けれど咄嗟に言葉が出ずに息を呑んだ。ぐっと気難しく眉を寄せた幸村は、は、と深く溜息を吐く。
「………まあ、良い。お前は哀れだな」
「え、」
「手を貸せ。着物を用意しておるのだろう。着せてやらねば、すっかり凍えておる」
 いつもならば破廉恥だと喚きそうな所を、平然と裸の女を抱え上げて水から上がった主に言われるがままに、佐助は用意していた着物と手拭いを掴んだ。そっと温かな岩場へと横たえられた女の躯を拭き、着物を着せ付ける間に主は火を熾す。掌の上へと燃えた火が、無造作に積んだ枯れ柴へと移る。
「………旦那。どうして、此処に」
「お前の姿が見えぬと思うてな、才蔵に訊いた」
「何か、用でしたか」
 幸村は不機嫌な仏頂面のまま、柴から目を上げ佐助を見た。
「用がなくては、お前を捜してはならぬのか」
「そんな事はないですけど……」
「いつも居る者が、二日も三日も姿が見えねば気にもなろう」
 しかしいつもならば何も言わずに長期の任務に出ていたとしても、留守にしていた事すら気付かない事もある主だ。
 そんな主に気付かれる程様子がおかしかったか、と佐助はこくりと頭を下げた。
「すみません」
「何を謝る事がある。お前は、休暇中であろう」
 言って、漸く目元を緩ませ幸村は佐助の頭を撫でた。ゆるゆると探る様な手付きに、佐助は黙ってかすがの手を取り、冷えた指先を掌で挟んで温める。俯いた頬に、ぽつりと一粒水滴が落ちた。
「泣くな、佐助」
「………すみません」
「かすが殿は、生きておられるぞ」
 佐助は細く息を吐いた。
「そういう事では、ないんですよ」
「ならば、どういう事なのだ」
 怪訝そうな主を見上げ、佐助は曖昧に笑った。
「こいつ、屋敷に連れて行っても構いませんか。俺が責任持って、見張りますから」
「何を言う、当然だ! 軍神殿縁の者だ。お館様も、お許し下さるであろう」
 有難うございます、と頭を下げ、佐助は幾分か体温が戻り始めた躯を抱きかかえた。その拍子に、ぶらりと落ちた腕の先、指の合間にちらと薄白いものが光った気がしたが、見直せば何もない。
 首を傾げ、佐助は火を踏んで消した主の背を見、振り向かぬそれが進む道を、黙って付いて歩いた。
 
 
 
 
 目覚めたかすがはおとなしかった。
 手当ても看病も拒まず、与えれば粥も食べた。
 夢から醒めたのだろうか、と障子越しの月明かりの下、透く様な肌にその影を落として眠る女を見ながら、佐助は思う。漸く、主が死んだと、最早此の世に仕えるべき相手は居ないのだと、そう理解したのだろうか。
 陸へと上げれば正気に返るものであったなら、もっと早くにそうしてやれば回復も早かったのかも知れない。彼の時主が言ったように、佐助はかすがが死に逝くのを、ただ指を咥えて見ていた。主が強引にかかすがを連れて水から上がらねば、こうして健やかな寝息を聞く事はなかった。
 哀れだ、と言った主の声が耳に蘇る。何か含みを持たせたような声色ではなかった。しかしそれは、真実主の心であろう。
 人の生き死にの判らぬなど哀れなものだと、影など寄り付きもしない、取り憑くそれは全て焼き払ってしまう陽の塊のような主は言う。己こそ生き死になど判っておらぬような顔をして、しかし主は、死の内包する虚無も絶望も何もかもを承知した上で、残酷であるのだろう。
 ふ、と小さく息を吐き、佐助はふと、上掛けの上に投げ出されたかすがの細い腕を見た。上向いた掌、その骨ばかりの指の合間に、綺羅と光る薄絹が有る。顔を近付けて見れば、どうも水掻きのようだった。
 はて、此れは此のような指をしていただろうか、と首を傾げ、佐助はその手を撫でて、そっと上掛けの下へと仕舞った。顔を見れば、痩けた頬はそのままに、しかし安らかな顔をしている。
 佐助は目を細め、寝顔から目を上げ障子の向こうの月明かりを眺めた。
 
 
 それから七日後の満月の日に、かすがは泡となって溶けた。
 
 
 
 
「かすが殿は、魚となってしまったのか」
「魚は溶けて消えたりしませんよ」
 濡れた布団の上へと柴を積み、火の番をしながら佐助は高くなった空へと煙が上って行くのを見上げた。
「人魚になっちゃったんでしょうよ」
「人魚か」
「水掻きがね、出来てましたから」
 此処のとこ、と指の間を示し、佐助は火掻き棒で焚き火を掻いた。燃えた綿の細かな灰が、熱気にぶわりと舞う。
「軍神も、何のつもりで人魚のようだなんて、言ったんだか」
 さて、と腕を組み、同じように空を見上げた幸村は続けた。
「だが、佐助。人魚のよう、というのは、人魚である、と言う事ではあるまい」
「そりゃそうですよ。だけどあいつは、軍神しか見えてませんでしたからね。その相手がお前は人魚のようだと言ったなら、何にでもなっちまうんでしょうよ」
「そういうものか」
「さあ、判んないですけど、だけどあいつが泡となって消えたのは、本当ですからね」
 幸村は僅かに沈黙し、それから再び口を開いた。
「……水から上げた所為か」
「そうかも知れないし、そうじゃないかも知れない。それにあのまま水に漬けておいたなら、一日と保たず死んでたよ。どの道、軍神の居ない現世に、未練もなかったって事じゃ、ないんですか」
 そうか、と頷いた幸村の視線が、しゃがみ込んだ頭へと注がれているのが判る。しかし黙って焚き火を掻いていれば、ふいに伸びて来た手が、頭を撫でた。
「泣くな、佐助」
「泣いてませんよ」
「嘘を申すな」
「嘘じゃないって」
 もう、と顔を上げて苦笑を浮かべると、幸村は酷く真摯な顔をしていた。佐助は笑みを納め、僅かに口を噤む。
「………あのさ、旦那」
「何だ」
 ころり、と緩んだ手を滑り落ちた火掻き棒が地面を転がった。佐助は見下ろす主の顔を見上げる。
「あんたは、俺様を何のようだと思う?」
「決まっておろう。佐助は、」
 幸村は瞬き、反射的に言い掛けた言葉をふと呑んだ。佐助は黙って言葉を待つ。
「………そうだな。佐助は佐助ではあるが、」
 それは望む返答ではあるまい、と腕を組み顎を撫で、幸村は暫し佐助を見詰めて何事か考えているようだった。やがてくと、片側の口角が不敵な笑みの形に吊り上がる。
「お前は烏のようだ」
「烏ですか」
「うむ。術の際に飛び散る幻影も、烏の羽根であろう?」
「嗚呼……そうですね。使ってるのも、烏ですしね」
 ならば己は鳥にでもなるか、と考えれて居れば、それから、と主の面白がるような声が続けた。
「お前は狐のようでもあるな。虎の威を借る、と申すであろう」
「ええ? 酷いね、それ」
「それに猫のようでもあるし、犬のようでもある。鷹のようでもあれば、鼠のようでもあるな」
「何だよ、それ」
 はは、と声を上げて俯いた佐助の額へ、皮の硬い掌が当てられた。かと思えばぐいと顔を上向けられて、主の顔が逆様に覗く。
「案ずるな、佐助。おれはお前を残して死んだりなどはせぬ」
「…………、」
 口を噤み、じっと主を見詰め、その視線に揺るぎがないのを見て取って、佐助はへら、と笑った。
「安請け合いは良くねえよ、旦那」
「嘘を言ったつもりはないぞ」
「判ってるよ。だけど言霊には呪いの力があるからね」
「どう呪われると言うのだ」
 ううん、と曖昧に呟き、佐助は緩く首を振った。
「否、良いよ。俺があんたを死なせる訳がねえって、そういう事だ」
「そうだな。お前は良い忍びだ」
「身に余るお言葉、ってね」
 へへ、と笑った顔を逸らそうとすると赦されず、掌が顎を掴んで固定した。かと思うとがぱりと口を開いた幸村が、べろりと犬の仕種で口を舐める。
「口を開け」
「は? 何、急に」
 幸村は満面で笑う。
「おれにはお前が美味そうに見える事がある」
「へ?」
「だが、今は喰えぬ。喰うてはお前が死ぬだろう。だから味見で我慢をしよう」
「ば、火! 火、見てないと!」
「もう灰ばかりだ」
 布団など直ぐに燃え尽きる、と腰に回された手にぐらと体勢を崩し、尻餅を突くと近頃厚みを増し始めた躯が覆い被さった。
「んもう、ちょ、っと! 流石に不謹慎でしょ! かすがの……」
「佐助」
 ふいに低く囁いた声に黙ると、間近で覗いた目は真摯だった。
「お前はかすが殿の物ではないし、今は里の物でもない。武田の忍び、おれの物だ。………お前がただ其処に在るだけの物であろうと言うのなら、四の五の言わずにおれに喰われろ」
 旦那、と動いた唇から声は洩れず、直ぐに大きく開いた口に塞がれた。
 お前の死肉はおれが喰うてやる、と囁く声に目を閉じながら、ならば己は鹿にでもなるかと佐助は思った。

 
 
 
 
 
 
 
20080819
鹿恋

鹿肉は淡白