織田家へ移る為に義昭殿が供を欲しいと言うておられる、と珍しく直々に目通りさせられたかと思えばそんなことを言われて、はあ、と気のないいらえを返したら、それが承諾になってしまった。
 織田、と言えば確か帰蝶が室になっていた筈だ、と気付いたのは、足利の殿を連れて城を出てから三日も経った頃だった。
 
 
 
 朝倉の領地を出てどれだけ歩いただろう。
 急げば輿が揺れると文句が出て足を弛めざるを得なくなるため、行軍速度がまるで上がらない。輿を担ぐ配下も随分と草臥れているようだ。交代で担がせてはいるが、城を出てからろくろく休みも取らずに歩き続けているのだから無理もない。
 急ぐと文句を言う将軍家のお付きの老人は今朝からは意地を張ってまだ歩き続けているが、やはり輿に放り込んだほうが良いのではないだろうか。死なれでもしたら敵わない。
 光秀は隣に付いた家臣に手渡された竹筒から水を飲んだ。括った長い猫毛の白髪がしなしなと首筋にまとわる。
「光秀様、そろそろ織田の領地でしょうか」
「そうですね……浅井氏の領地との境ではないでしょうか。この辺りは関所がありませんからね。線引きがよく判りませんね」
「出入りが楽なのは有難いですけどね」
「しかしこれでは、間者も入り放題でしょう。魔王はよくよく懐が深いと見える」
 苦笑をして見せると、家臣ははは、と快活な声を上げてどんよりと曇った空を見上げた。
「それにしても、暑いですね」
 そうですね、と頷いて、光秀は習うように空を見上げた。暗灰の雲に、白く光る円がひとつある。太陽だろう。
「妙な空ですね……」
「雨でも降れば少し楽でしょうか」
「この空で雨天となれば土砂降りでしょう。宿場に着くまでは持って欲しいものですね」
「今日は少し早めに休んだ方がいいでしょうか」
「そうですね。……昼を過ぎて最初に行き着いた宿場で休みましょうか」
 はい、と頷いたまだ年若い家臣に水筒を返し、ふと視界の隅で光ったそれに光秀は顔を上げた。途端がくんと視界がぶれる。
(………あれ?)
 ぺたり、と鳩尾の辺りを触ると湯が触れた。なんで湯が、と考えて視線を下ろすとつんと鉄錆の臭いが鼻を突き、同時に嘔吐きもしないのに喉奥から熱いものが込み上げた。
 唇から溢れて落ちていくそれと、手を濡らす湯とが同じ色をしている。赤い。
「───みつひでさま!!」
 ぐんと目の前が暗くなり、耳奥にそれだけ聞いて、光秀の意識は途絶えた。
 
 
 
 湿った空気がひんやりとしている。
 薄暗闇の中をひたひたと歩くと、足の裏が冷たくて踏み固められた地面を裸足で歩いているのだと判った。時折吹く生温い風に、白い長い髪がさらさらと浚われる。
 はて一体いつ括り紐を失くしたのだったろうと首を捻りながら、光秀はただひたひたと歩き続けた。周りには誰もいない。ただ道があり、周囲は暗い。どうも枯れ谷の合間を歩いているようにも思えたが、それにしては足下にはあまり石がない。
 単の着物を着ただけでは肌寒いような闇だったが、不思議と手足の冷えは感じない。不思議な所だなと考えながら、光秀はその坂の前で、ふと足を止めた。
 
 暗い。
 
 ゆるゆると上る坂の先は暗く見えない。風はその向こうから吹いてくるようにも思えたが、本当にそうかも判らない。
 ただ、時折───おんおんと、響く、声が。
 何とも不気味な声だ。ぞわりと背が粟立ち項の毛が逆立つ。
 けれどそれに惹かれるように、光秀は一歩足を踏み出した。濡れたように地面が冷たい。嗚呼、と喉から呻きが洩れた。
 もう、一歩。
 
 ─── も  ま、る
 
 ひくん、と肩が揺れた。光秀は足を止める。見開いた目には闇。
 
 ───も、…も…… る
 
 背に掛かる声に聞き覚えはない。女性の声だ。美しい声だ。
 
 ───ももま、る
 
 三度掛けられた声に、光秀は振り向いた。薄闇だった筈なのに、そこにあるのは墨で塗り潰したかのような恐ろしく重い闇だ。
 坂の上から吹く風が、そちらに戻るなと誘う。この、圧倒的な闇に飛び込み掻いて渡るなど狂気の沙汰だと。光などないと。
 
 ───この闇を掻いて渡り切る前に、お前の魂は擦り切れてしまうぞ
 
 慈悲の声だと知っていた。けれど光秀はそれを振り払って踵を返す。
 
 ───ももまる
 
 戻って、と囁いたそれは知らない声だ。光秀が知るのはまだ幼い、鈴を転がすような、恥ずかしがり屋の、笑みを含んだ、
 でも。
「きちょう」
 呟いたら唇から笑みが洩れた。
 光秀は子供のようにうふふと笑って単の袂に風を孕ませ白い髪を靡かせて、ぺたぺたと地を蹴って闇へと駆けた。
 
 
 
 光秀様光秀様とおいおいと泣く家臣と、その後ろで引き攣った恐怖の表情を浮かべている足利家家臣の老人を視界に収めながら、光秀は傍らに端座していた女性を見詰めた。熱でもあるのかゆらゆらと頭の芯が痺れるように揺れている。
「………私を呼びましたか、帰蝶」
 喪服のように黒い着物を纏った女性はつんと尖らせた冷たい目元を弛ませもせずにじっと光秀を見下ろす。
「───先遣りが上手く届いていなくて」
 整った唇が動き、光秀の問いに答えることなく固い言葉を紡ぐ。
「貴殿の素性が判らず、斥候が撃ってしまったの。威嚇のつもりだったようなのだけれど」
「そうですか」
 己の喉から洩れる弱々しい声が届いているとも思い難かったが、女性はごめんなさいね、と言って、それから漸く目元を弛めた。
「遙々遠くから大役の任を、ご苦労様でした。私はこの安土城の主が妻、濃と申します、………光秀殿」
 ゆっくりと目を瞬かせ、極端に光源が少ない部屋の黒々とした梁を見上げて、嗚呼、はい、と光秀は呟いた。
「信長公に先ずご挨拶すべき所ですが、こんな姿では目通り敵いませんね」
「上総介様なら、貴方が寝ている間にお目見えになったわ」
 驚いて見上げると、それが可笑しかったのか濃はふふ、と笑った。
「治療の間、見守っておいでになったのよ」
「まさか」
「嘘を吐いてどうするの?」
 くすくすと笑って、濃はふとしなやかに白い手を伸ばして光秀の額の髪を払った。
「相変わらず美しい髪をしているのね、桃丸」
 頬が冷たいわ、少しお休みなさい、と囁かれるままに、光秀はひとつふたつ瞬いて、すうと目を閉じた。
 
 
 嘘だ、死んでいたのに、と呻いた老人の声と癇癪玉が弾けるような音が響いた気がしたが、光秀は興味をそそられることもなく血の臭いを胸に吸い、眠りに落ちた。

 
 
 
 
 
 
 
20061130
よるにまどうか ひとのこにあらざるものよ/謙信さま

桃を投げ付け黄泉路を塞ぐ

あの世の門はのぶさまが開いてくれました(ばさら技で)