か  な  し  か    し

 
 
 
 
 
 

「政宗殿が討ち取られることがあれば、片倉殿は腹を切るのだろうなあ」
「なんだよ、突然。そりゃそうでしょ、あの忠義の塊みたいなひと。竜の旦那に黄泉路をひとり逝かせはしないでしょ」
 けどまだ奥州なんだからね、どこで誰が聞いてるかも知れないってのに不穏当な発言は止してくださいよ、と僅かに尖らせた口調で言いながら、佐助は手慣れた調子で手当てを続けている。傷に布が巻かれ直されていく様を眺め、幸村は忍びの言葉など右から左とばかりにまじまじと目の前の赤い髪に視線を向けた。
「佐助は」
「はいよ」
「幸村死すとも、後を追うような真似はするなよ」
 気が高ぶりやすく声高に叫ぶ癖のある主だが、こうして平静でいるときのその声色は存外低く穏やかだ。佐助は手当ての手を止め目を上げて、主の顔を見た。
「俺に二君に仕えろってことか」
「い、いや、そうではなくて……某がおらずとも、武田にお館様ある限り仕えることは出来ようし、そうでなくとも上田城に戻れば」
「大将がいれば旦那が腹を切るようなことにはならないとは思うけどな。それに俺は真田というより、旦那の忍びなんだよ。そりゃあ昌幸様には恩義はあるわけだけど、……まあ、そんなことはいいとして、仮定の話。もし武田も真田も滅んでしまったとしたら、それでもあんたは俺様に生き延びろってわけ? それは他の主を探して仕えろということか」
 幸村はしんと黙った。常にないその態度に、佐助は手当てを再開しながら主の返答を待つ。ちらりと時折目を向ければその頬に、大きな獣にでも引っ掻かれたかのような三本の筋が残るのが見えた。
 切っ先が触れてもない、と幸村は言ったが、その言葉通り刀傷ではないようだ。むしろ火傷に近い。もしあの鋭い六爪の先でも触れていたなら今頃とても見れた顔ではなかっただろうが、それにしても剣圧で傷を負わせてしまえるのだから奥州の竜も伊達ではない。
 傷の上からずらした位置でぎゅ、と布を縛り、結局決着の付かなかった一騎打ちに傷付いた腕をそろそろと下ろすと幸村がようやく顔を上げた。佐助は胡座を掻いたまま、僅かに首を傾げてみせる。幸村はゆっくりと言葉を選ぶようにして、口を開いた。
「佐助は、武家の者ではないのだ。某はたとえば、お館様が討たれでもすれば必ず仇を取ったのち、黄泉路までもお供させていただく所存だ」
「……それで?」
「某は武人なのだ、どうしても譲れぬものはある。だが佐助はそうではないだろう。だから、もし某が討たれるようなことがあったとしても、仇討ちも後追いも不要だ。次の主を探す必要もない。誰に仕えることもない」
 無論そうしたいのなら構わないでござるが、と小さく付け足して、年若い主君は僅かに口の端を引き下げた。その拗ねたようなへの字口を見ながら佐助は赤い髪をさくさくと掻き混ぜる。
「うーん……それってつまり、俺に里へ下れということだよね」
「……うむ?」
「だから、忍びを止めろって言ってんでしょ?」
「そう、なるのか?」
「うんまあ、主も定めず傭兵のような真似したって、そんな忍びは誰も使わないっしょ」
「そうか……」
「そうすると、俺は抜け忍ってことになる」
「…………」
 黙ってしまった幸村に苦笑して、佐助は癖の強い己の赤髪を撫でつけるように後方へと梳いた。胡座を掻いたままゆらゆらと身体を揺らす。
「武人に武人の作法やしがらみがあるのと同じでさ、忍びには忍びの流儀ってもんがあんのよ。好きにしていいってわけにゃあいかない」
 旦那が思うほど自由でもないのよ? と首を傾げると幸村は形のいい眉を寄せた。
「判っている」
「なら、そんな話はあまりしないでくださいね。あんたが死ねば俺には真田も武田もない。仇を捜して必ず討つよ」
「自由ではないのじゃなかったか」
「それで始末されるのならそれはそれでしょ」
「それはいけない」
 大真面目に僅かに声を高めて、幸村は真っ直ぐに佐助を見た。澄んだ大きな目が湖面のように赤い髪の男を映す。
「命を粗末にしてはならん」
「………はあ、」
 なにを言っているのだこの主は、と思わないでもなかったが、曖昧に返答をして佐助は溜息を吐いた。
「まあ、とにかく、もう寝ましょうよ。さっさと奥州を抜けたいし、早いとこ帰んないと、大将だって心配してるよ」
「おお、そうだな。しかし今はさほど戦況も動いてはおらん。お館様もゆっくりとしてこいとおっしゃってくださったし」
 好敵手の元を辞してからもずっと付いて来ている伊達の忍びの影も気になって仕方がないが、そんなことに気付いてもない幸村は呑気なものだ。
 まったく胃が痛いよ、と口の中で呟いて、佐助は伸べてあった布団の曲がりを整えた。もう少し上等な宿があれば良かったが、街道からやや外れた道を行くせいかこんな安宿しか見つからない。無論、どれだけの安宿でも幸村に野宿させるよりはましだ。
「はい、どうぞ」
「佐助は寝ないのか?」
 一組しかない布団を眺めて首を傾げる幸村に、どこの世界に主と同室で寝る家臣がいるんだよともう一度溜息を吐いて、佐助はほらほらと幾つになっても世話の焼ける主を追い立てた。
「俺はすぐ外にいますから、何かあったら呼んでください」
「廊下にいる気か? 冷えるぞ。女中に言ってもうひとつ布団を」
「ああもう、いいから。こんな旅先で布団なんかに入ってたら落ち着かなくって余計に寝らんないから」
 ほら、早く寝て、ともう一度急かすと幸村は渋々といった様子で布団に入った。佐助は灯りを絞る。
「………旦那」
「うむ?」
「もしあんたが腹を切らなきゃないようなことになったら、俺に介錯させてくださいね」
 暗闇の中、ぱちくり、と横たわった幸村が瞬いた。
「お前にそんなことをさせなくとも、腹くらい切れる」
「いや、だから、腹切ったくらいじゃそう直ぐにはひとは死なないから。腑まで切ったとしても苦しむだけでしばらくは生きてるから」
「そうなのか?」
「そうなのかって、そうでしょ? あんた戦場でなに見てんだよ」
 まさに鬼神のごとき働きで、戦忍とは言え忍びに過ぎない佐助など足下にも及ばない程の数の屍を築いてきた兵であるというのに、その大きな目は節穴か。
 そんな万感の思いを込めて返すと、ふむ、と幸村は呟いた。
「そういえばそうかもしれんでござる」
「そういえばってなあ……」
 なんでこうも馬鹿なんだろうとがっくりと肩を落とし、しかしそれも仕方のないことか、と佐助は思う。この若き武人の獣のごとき感性に映るのは気高き魂のその色ばかりで、肉の、そんな些末な事情は目に入らないのかしれない。
 幾百もの怨嗟を負う身であってもおかしくはないというのに、どれだけの血を浴びどれだけの命を奪っても幸村の質はすがしいように佐助には感じた。まるで歪みのない真っ直ぐな目は、戦の疲れに濁ることもない。これでものも言わなければ白痴ではないかと疑うほどに、その目は幼い頃から変わらず真っ直ぐで、汚れない。
 屍の山を築いていくつもの首級を上げ咆哮するその同じ口で、命を粗末にしてはならないなどと綺麗事を言う。
 覚悟を持って得物を手に目の前に立てば、それが女であろうが老人であろうが、幸村には関係がないのだ。そもそも戦う理由のない者がやむを得なく立ちはだかれば悲しく思い命を些末にしてはならぬと諭しもするが、戦場で、武人と相対するそのとき、幸村の中には一切のしがらみも濁りもない。そして恐らく信玄も、それを知っているに違いない。彼の御大将もまた、幸村と同じ芯からの武人としての濁りのない結晶のようなものを、幾重ものしがらみと幾千もの臣下領民の命に雁字搦めになった身の内に抱くのだ。
 もし平穏な、戦乱など欠片もない世の中に生まれていたとするのなら、このひとは一体どうしたのだろう、と佐助は思う。
 敬愛すべき、信頼たる主を得、家を継ぐ必要もなく、ただそのものとして、心のままに駆けていられるからこその幸村だ。それを好もしく思うからこそあれほどに信玄は幸村を可愛がり、竜は愉しげに嗤うのだ。しがらみに足を取られては、この主はそのものではいられなくなるのかもしれない。
「佐助?」
 声に、一瞬の思案からふっと目を上げて佐助は小さく苦笑のように笑った。
「まあ、無理だろうけどな」
「無理とは」
「一介の忍びが我が殿の介錯なんか出来ないだろうって話」
 まあ戯言として聞いてよ、と言えば、少しの沈黙の後、判った、と低く幸村が答えた。
「おれの首はお前に預ける」
「だからあ……」
「だから佐助。某が死んでもお前は生き延びなければならんでござるよ」
「────、」
 しまった、と顔に出た気がしたが、夜目の利く佐助と違って幸村からは見えてはなかっただろう。
 しまった。こんな簡単な脳味噌しか持たない主に、言質を取られた。
 内心で敬意の欠片もないようなことを考えて、佐助は肩を竦めた。
「……やれやれ、敵わないな、旦那には」
「うむ。では某は休む」
「はいはい、ゆっくり寝てくださいね」
 そっと身を立ててうっすらと夜気の強くなった廊下へと出、音も立てずに障子を閉める。窓もなく真っ暗な板間へと胡座を掻き袖に突っ込んだ腕を組むと、すっかりと冷たくなった指先が腕に触れた。
 こんな指で手当てをしたのだなと思っていると、室内でごそごそと気配がして、すさ、と障子が開きぬっと羽織が差し出された。思わず受け取れば声を掛けるでもなく既に眠気の波に攫われ掛けているらしい主は大きな目に瞼を半分被せたままぴしりと障子を閉めて、布団へと戻ったようだった。
 今日は疲れたよな旦那、とくつくつと口の中で笑って、天井裏の気配が悪さをしてこないかにじっと意識を向けながら、羽織を肩に掛けて再び腕を組み佐助は黙って目を閉じた。
 ゆっくりと身を侵蝕していく夜気も、主の羽織の下の肩には浸みることはなかった。

 
 
 
 
 
 
 
20061101
儚し事儚事/はかなしごとはかなごと

儚し愛し