ひゅう、ひゅう、と今際の際のような掠れ細い息がひっきりなしに喉を胸を鳴らしている。
毒の熱は下がらず、腫れた気管が呼吸を妨げている。毒矢を受けた二の腕の傷は膿んで、このまま体力が戻らず腐れば最悪腕ごと失うこともあるだろう。
「………小十郎」
普段から低い、艶のある声が今は掠れながら名を囁いた。主君の額の汗を抑えていた小十郎は、薄らと開いた消炭色の目を覗く。硝子玉のような、蛇か蜥蜴のような不思議に底まで透けるひとつだけの目は、高熱に魘されるにしてははっきりとした意志を宿していた。
政宗は薄い唇をいつでも尖らせているかのような愛嬌のある大きな口を、にい、と笑みの形に歪ませた。
「心配すんな。……餓鬼や老いぼれじゃあねえ……人間ってのは、この程度じゃ死なねえ」
「ご油断召されるな、と、小十郎はいつも言ってはおりませぬか」
小さく嘆息し、手拭いを絞って額へとそっと乗せる。心地良さ気に眼を細める様は猫のようだ。その血の気の引いた土色の顔がなければ、それなりに和んだには違いない。
「政宗様お一人の命ではないのです。この奥州に暮らす全ての民の、その命を負っておられるのだ。努々お忘れなさるな」
「ha!」
政宗は鋭く嘲笑の声を上げ、僅かに咳き込んで、それから再び小十郎を見上げた。
「政宗様……小言は後から言わせて頂きます。どうぞ今はお休みくださ、」
「うちの連中を、俺がいなくなった程度で民草を放り出すような、そんな弱卒にしたつもりはねえぞ」
ひゅー、と、長く尾を引くような息を吐いて、主は尚も続ける。
「俺がいなけりゃ天下は仕方がねえ、諦めろ。but……俺が死んで、他の連中に民を明け渡すような真似は許さねえぜ」
「………今この時に言われては洒落になりませんな。遺言のように聞こえます」
「jokeなんかじゃねえぜ……だが、まあ……そうだな。今ここで死ぬ気はさらさらねえよ。俺は地獄の番人に嫌われてるんでな」
一度顔を拝みに行ったが追い返された、とくつくつと嗤う竜の、爛れ閉じた右目の上をそっと掌で辿り、小十郎は小さく眉を顰める。
「次はないかも知れませんぞ」
「ha……次も、その次も戻るぜ」
「もしお戻りにならなかったその時は、あなたの後を追う者がどれだけいるのか、考えたことはおありか」
虚を突かれたように、政宗は黙った。
「うちの連中は皆あなたに心酔しております故。立場ある者ならばこの伊達を支えようと涙を呑んで堪えはするでしょうが、若い連中までは止まりますまい」
「shit! そこは意地でも止めろよ……てめえの役目だぜ、小十郎」
「この小十郎が」
端座した膝の上で、きり、と握り締めた拳に力が入る。冷静な、いつもと顔色ひとつ変わらない表情をしている己が右目を、政宗はじっと見上げた。見下ろす目は灯りを絞った室内では酷く暗く、そこにどれほどの感情が燻っているのか見てとることが出来ない。
「あなたが死んで尚、のうのうと生きておれるような不義の輩とお思いか」
「………hum」
緩く、微笑を浮かべて政宗は傷を負っていない右手を布団の下から引き上げた。覚束ない動きで頬に伸ばされる前に、ごつごつとした力強い手が、その指を捉える。
「小十郎……後追いなんて真似をする馬鹿どもは、殴ってでも目ぇ醒まさせろ」
「小十郎の言葉をお聞きではありませんか、政宗様」
「まあ、聞け」
両手に包まれたままあやすようにその手を握り、政宗は続ける。
「馬鹿どもが目ぇ醒めて、お前がお前の仕事を全て終えたと思ったなら、小十郎……お前のことまでは止める気はねえよ」
三途の川で待っててやるよと笑う主に、小十郎は僅かに息を詰めた。
「………お待たせするわけには行きません。急ぎ後を追わせて頂きますゆえ」
「気にするな……渡し守と先に行った連中の様子でも話して、のんびり待つぜ」
「先に?」
「ああ。織田に、武田に、上杉に、徳川に………とにかく、全部だ。全部………先に行った連中の、話を」
目を瞠った小十郎に、何馬鹿面してんだよ、と政宗は低く笑う。
「当たり前だろ? 俺が死ぬのは天下取ってからだぜ」
「政宗さ……」
「お前を、」
握った手が、口元へと引き寄せられた。雑音の混じる呼吸に胸を上下させながら、酷く顔色も悪いまま、嫌な汗を掻き続けているというのに、政宗は一欠片の弱気もなく皮肉げにも思えるいつもの笑みを浮かべた。指に、毒熱の篭もる息が触れる。熱い。
「………天下に連れて行ってやるよ、小十郎」
熱の篭もる言葉は浮かされているのか、否か。
軽く息を詰め、小十郎はそっと政宗の手を布団の中へと戻した。ずり落ちていた手拭いを、丁寧に額へと乗せ直す。
「信じておりますとも。この小十郎がお育て申した、雄々しき竜なれば」
「ha、言うじゃねえか」
「政宗様ほどではありますまい」
hum、ともう一度嗤うように呟いて、政宗はしばし目を閉じ、再び瞼を上げた。
「………小十郎」
「は」
「お前、早いとこ気立てのいい女でも見つけて、身ィ固めろ」
「………は?」
「そんでもって、さっさと餓鬼を作れ……男だ」
「小十郎は生涯政宗様にお仕え致します。嫁や餓鬼に構っている暇は」
「馬鹿野郎、片倉の家を潰すわけにゃあいかねえだろうが。片倉は、お前の血で続くんだ」
疲れたように吐かれた息は、相変わらず木枯らしのようだ。声はますます枯れて、ぼんやりと天井を見上げた隻眼は眠気に曇るように焦点が定かではない。
「それに………跡取りが、いれば、お前の仕事が減るだろう」
「そんなもの、苦でもありませんが……政宗様、もうお休みください。話は躯が恢復なされてからに」
「後顧の憂いは残すな───そんで、お前は、俺の背だけをもってりゃいいんだ」
言いながら、ゆるゆると瞼を閉ざした政宗はゆっくりとひとつ瞬く間に眠りへと落ちたようだった。
小十郎は暫し主の苦しそうな息と乾き割れた唇と昏睡したかのような苦しみの歪みもないぽかんとした寝顔を眺め、それから小さく溜息を吐いて水差しから新しい手拭いに水を落とし、皹割れた唇を拭い湿らせた。
この、幼い頃から側に仕え続けた主が、毒であるのか薬であるのかと言えばそれは毒に違いないと小十郎は思う。外敵への強さを高めると同時に酷く酩酊性の強い、依存性の強い毒だ。薬効と表裏一体、けれど最後に澱のようにこの身に沈み染み付くのは毒性だ。
けれどそれでいい。竜は神で有りながらも毒を吐く。天界の者である筈の竜を名乗りながら、この主は己の行き先を地獄と定める。
「地獄と言わず、流転輪廻の果てまでもお供しましょうぞ」
けれどそれは今ではない、と囁いて、小十郎はじっと端座したまま主の呼吸の音を聞いた。
20061111
竜の毒息:薬効有り/中毒性強し
文
虫
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