金というものは貯める時には遅々として貯まらぬものであるというのに、失うときには一瞬だ。
あれだけ死線を潜り抜け、危険な任務を幾度もこなし、忍びながらに多くの首級も挙げたというのに手持ちの金は残り少ない。
まさか生き延びるものとも思わなかったからなあ、とぼんやりと酒を片手に月を見上げながら、佐助は冷たい板間に伸ばしていた足を引き寄せ、座布団の上へと乗せた。
希代の忍びへの褒美としては安い金ではあるものの、それでもその辺の下級武士など及びも付かない金を手にしてはいたが、忍び働きのためや日々のささやかな遊興に消え、忍びたるもの役目を果たせぬようになるとすればそれは死ぬときと思い込んでいた所為もあって、そもそも蓄えなどなかったようなものだ。
役目を辞す時にそれなりに纏まった金を与えられてはいたが、五年、働く事も儘ならぬ身で生きていれば、幾ら慎ましく暮らしていたとしてもそれなりに目減りする。
折角町の中へと与えて貰った屋敷ではあったが、そろそろ売り払ってもっと田舎の方へと移らねばならぬ頃合いなのかも知れぬ。冬が来る度鈍くなっていくようにも思える躯が少しでも動くうちに、落ち着く先を決めねばなるまい。
近所の者達は、動くとなれば老人ほどにしか歩めぬ、手先は震え箸も掴めぬ佐助に、それでも親切にしてはくれる。躯がろくに利かぬまでも頭の方はまともであったし、親が病と聞けば此れ此の様な草を取って来いとも、指示をしながら目の前で煎じさせる事もできたから、容易く医者には掛かれぬ下町の者たちには重宝するのかもしれなかったが、しかしそれだけではないだろう。此処へ越してきたときに主がしつこい程に佐助を頼むと頭を下げた、その為が大きいはずだ。
佐助はそろそろと杯を持ち上げて、遠方の息子からの文を読んでくれた礼と隣の老人が持って来た酒を啜った。辛い酒だ。
一人で酒を呑むのも慣れた。
最初の頃には頻繁に訪れた主だったが、今は上田を離れ、遠く西の地へ居るという。一季節に一度は届いた文は次第に間が空き、今年は一通も届かなかった。息災であればそれで良いが、遠く上田までは噂もそうそう聞くことはない。
役目を辞すと言ったとき、主は酷い剣幕で城へ住めば良いのだと駄々を捏ねた。堪え性がないのは昔から直らぬが、子供のような駄々を捏ねる事など長じてからはそうなかったことだったから、宥めるのには苦労をした。
折衷案として、里へ引き上げようと思っていた所を留まり、上田城下に住まう事で了解を得、ならば良いと渋々頷いた顔に笑いながら確かに彼の時、けれどいつかは疎遠になってゆくのだろうと、そう思いはしたのだ。
実際、二年ほど掛けて主の訪問は次第に間が開くようになり、天下取りの戦が大詰めとなると文に替わった。そうこうするうちに主は上田を離れ、遠方からの文の足は遅く、少しばかり季節のずれた文面のそれも今はない。
遠い噂に、先の秋の戦で武田が天下を獲ったのだと、そう、聞きはしたのだが。
冬の頭頃には武田の虎を讃える文が興奮に乱れた筆跡で届くかとも思ったが、それが夢想であることを佐助は知っていた。忘れてしまうのなら、それでいいのだ。昔赤毛の忍びを使っていた事があったと、それだけで構わぬ。
見上げる先の月の輪郭は鈍く滲み、ゆるゆると流れる雲が白い。
「………寂しいなあ」
ぽつりと呟き、佐助は口の端に緩く笑みを乗せた。小さく俯く。己では散髪も儘ならぬ伸ばし放題の髪が、わさりと落ちて杯へと僅かに入った。波紋が杯の中の小さな水月を砕く。
「何が寂しい」
そのうち誰かに頼んで切って貰わねばと考えていた佐助は、ふいに背に掛かった声に、ぎくりと肩を強張らせた。顔を上げ、振り向く。
「………旦那、酷い顔だよ」
む、と暗がりに立った男は口角を引き下ろし、一面に髭を生やした顎を撫でた。
「仕方あるまい、長旅の後だ」
「どっから入ったんだよ」
「戸が開いていたぞ。幾ら声を掛けても出て来ぬから、寝ているものかと思ってな」
出直すなど考えもしない顔で言って、主は綺麗な歯並びを見せて笑った。日焼けした顔が、最後に見たその時よりも精悍に、男らしさがにおう。
「久し振りだな、佐助」
佐助は笑った。
「うん、真田の旦那」
天下統一したんだってね、おめでとう、と言い掛けて、ふと佐助は瞬いた。座敷は先程から灯りなどなく暗がりであったが、それがふいに、しんと闇を増した気がした。
ゆっくりと瞬き、手の中の杯を見詰め、もう一度無人の座敷を眺めて、佐助は小さく溜息を吐いた。
「酔ったかな」
大して呑んでもいないのに弱くなったものだと肩を竦め、佐助は杯を空にしてまだ中身のある徳利に栓をし、ゆっくりと立ち上がった。僅かの間に痺れてしまった足を宥めながら、のろのろと縁側を横切り、畳みを踏む。それからふと思い付き、屋根の縁を見上げて口笛を吹いた。掠れた音から暫しして、長い間呼んでもいなかったというのにばさばさと羽撃く音を立てて舞い降りた夜烏に、佐助は目を細める。
「お前、ちょっと京に行って、武田の天下を見て来てくれない?」
そしたらもう戻って来なくていいからね、と続けた言葉を解したのかどうか、烏は喉を震わせ声無く啼いて、わ、と大きく羽を広げた。
そのまま月を横切り西へと向かう影を見詰め、やがて山の闇に消えたそれを長い間見送って、佐助は踵を返し、畳みを擦りながらゆっくりと厨へと向かった。
20081022
翌日くらいに京に引っ越すぞ!てがらがら荷車引いただんなが
からすと人足連れて来ると思います(台無し系コメント
夢っていうかむしろ予感的な幻影
文
虫
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