父の亡骸を、そのまま上田まで運ぶことは出来なかった。
無論甲斐までも難しく、故に戦場から程近い山寺を借り受けて、骨となっても連れて帰りたいと言った信玄の言葉を有難く受け、明日には此の地で焼かれる遺骸だ。
その遺骸の枕元に端座し、幸村は一人寝ずの番をしていた。廊下には父の部下と武田の武将が番をしていてくれたが、広い本堂の中には、父と幸村の二人切りだ。
幸村は無言で、父を見詰めた。ちらちらと揺れる火の明かりだけでは、血も泥も清められた顔はただ眠っている様にも思える。ただよく見れば、その耳にも鼻にも、小さく千切った綿が詰められていた。なんの呪いかと問うた幸村に、嗚呼ご存知ないかと父を清めてくれた兵が、こうしておかねば死んだ躯からは、思い掛けず血が零れてくる事があるのだと教えてくれた。
綿は、見る限りでは白い様に思えたが、朝には茶に濁るかも知れない、とぼんやりと思う。
父は死んだのだ。
ふいに、ずきりと甲斐の虎に殴り飛ばされた頬が痛んだ。幸村は肩を竦めて、熱を持ち腫れ上がった頬をそろそろとさすった。先程、ようよう本隊に追い付いて来たと言う真田の武将の最後の一人が、酷い顔になりましたな、と涙顔で笑って、それから幸村にしっかと抱き付いて、おいおいと泣いたのだ。無礼だ等と咎める者は、無かった。
父は懐が深く、皆が幸村を愛してくれる事に、鷹揚だった。幸村は良く、からからと笑う父の前で、此の武将に叱られ尻を叩かれしたものだった。
幸村にとって父は全てであった。唯一の肉親であり、誉れであり、憧れであり、越えねばならぬ壁でもあった。
故に父を失った時、その血塗れの躯と二度と開かぬ瞼を見た時、幸村は一度狂った。子供の駄々だと、あの場を見ていた皆は言うだろう。実際、今思えばまったく子供のやり方で、泣き喚き当たり散らして哀しみに暮れた。
しかし、と思う。
ぞくりと背筋が震える。思い返しても彼の昏い縁は、酷く深く落ちては二度と這い上がれぬ、そんなものであった様に思う。
子供の様な無様な癇癪の裏で、確実に、幸村の世界は色を変えた。
唯ひたすらに昏かった。綺羅綺羅と輝いていた全てが、光を失い色をくすませ、ただくっきりとした陰と輪郭と、人々の疲れた目と臭い息と腥い血と臓物と汚物、此れが絶望であったかとざわめく心の奥底でひそりと思った。
何だ、大した事はないな、と、涙を流す裏で厭な貌で嗤った己を知っている。
それを、甲斐の虎は見抜いた。
そして見抜いた瞬間、その一瞬の合間にもずるずると無様に滑り落ちて行く幸村を、殴り飛ばして強引に正気へと立ち返したのだ。
厭な言葉を吐けば吐くほど増す嘲笑を、大馬鹿者が、と叱り付けた声は父の大声、武田の兵の熱気に慣れた幸村の耳すら劈いた。幸村に取り付き掛けていた陰は、その声一つで吹き飛んだ。
なんと大きな虎であろうかと、その昂揚に世界はたちまち煌めきを取り戻し、幸村は一瞬前とは全く別の意味で震えた。炎は不浄を焼き尽くし、天を見れば流れる汗の跡を泥と埃で汚した皆の顎が、一様に信玄を向いていた。空は青かった。地に広がる屍から突き立つ槍の石突きが、足軽が抱える槍の穂先が赤く棚引く幟に混じり光る。
涙が込み上げた。歓喜の涙だった。哀しみは以前として胸に深く根差していたが、それを越えた喜びが躯の隅々までを満たした。
何という得難い出会いであったろうと思う。信玄の声を、言葉を、姿を思い描けばそれだけで喜びに身が震え躯の熱が上がる。闇雲でも何でも兎に角立ち上がり拳を振り上げて、叫び出したい気持ちに駆られる。
幸村は、細かに震える躯をぶるりと獣の様に一つ大きく震わせて、深く息を吐いた。ざらり、と未だ震えの納まらない手で口元を撫でれば、未だ毎朝あたるほどでも無いが、戦の間鏡を覗くもままならなかった顔に疎らに生えた髭が触った。
初めて産毛では無い髭が生えた朝に、未だ朝の支度の途中であった父の元へとばたばたと駆けて、見て下されと騒いだ事を思い出して、幸村は少しばかり情けなく笑った。全く、己は何時までも父の前では童のままで、一人前の様子など見せてやれず仕舞いだったと思う。
しかし何時までも子供でいられるものではない。大きな手で乱暴に頭を撫でて、幸村も一人前の男だなと眩しく笑った男臭い顔は、もう明日には、火に包まれて骨になる。
「………佐助」
久し振りにその名を呼んだ気がした。
幸村は目を上げ、本堂の暗がりを見た。父と幸村の周囲以外何処も闇ではあったが、その闇の一際深い場所の空気が、ふいにゆらと揺れる。瞬間、ほんの僅かだけ、立ち上る線香の煙が揺れた。香りが乱れる。
つ、と足音もなく現れた影は、戦装束のまま、大手裏剣までもその腰に下げたままだった。
いつもは明るく目立つ髪まで暗がりに溶かし、決して刃の光らない得物を鳴らしもせず、ただ顔だけをちらと白く覗かせて佐助は瞳にすら光を入れずに少し離れた場所で、立ち止まった。膝を落とす事もしない。
「見ていたか」
訊ねれば、気負いのない仕種でこくりと頷き、続いて「うん」、と思うよりもはっきりとした声が返った。
「おれが泣き喚き取り乱す所も」
「うん」
「お館様に諌められた所も」
「うん」
「皆と共に、父上を偲び、泣き伏した所も」
「うん」
一つ、漸く気配をさせて息を吐き、佐助は僅かに首を傾げた。
「見てた」
「全てか」
「うん」
幸村は忍びを真似る様に息を吐き、姿勢を正した。
「ならば、随分と失望させた事だろうな」
佐助は無言だ。幸村は膝に置いた拳に力を込めた。
「おれに愛想が尽きたか」
「………」
「主替えを、したいか」
無言のままに見詰める佐助を見詰め返し、じっと答えを待てば忍びはやがて小さく肩を竦めて、く、と喉を鳴らした。厭な笑いではなかった。いつもの様な、至極軽い、呆れた様な笑みだった。
「まあ、あんたは未だお若いですし」
「しかし、元服を済ませ一人前に戦場に出ているのだ。若い等とは、言い訳にならぬ」
「まあ、聞きなさいよ」
「お前、一度も姿を見せなかったではないか。呆れていたのだろう」
「聞けって」
言い募る幸村にのんびりとした口調で焦れず答え、佐助は両手を天に向ける様にして躯を揺らした。いつもの仕種だ。
「そのうち年と経験重ねていけば、いずれ立派な武将になるでしょうよ」
「そのうち等とは言っておられぬ。父上亡き今、おれは真田を負って立つ立場に」
「嗚呼うん、そういうのはね、俺様にはあんまり関係ないし」
「関係ないとは、なんだ!」
「騒がないでよ。殿のお通夜、殿の御前ですよ」
しい、と籠手に包まれたままの妙に細長い人差し指を唇の前に当てて声を潜め、幸村が黙ると佐助は薄く微笑んだ。
「だからね、それまで付き合いましょう」
「それまで、とは」
「あんたがいつか立派な武将になって、非の打ち所のない男になるまでね、幼さ若さは、見ないふりをしますよって、事」
幸村は押し黙り、意味を噛み砕き、それから眉間に皺を寄せた。難しく唸る。
「………矢張り、失望したと言う事ではないか」
「馬鹿だなあ、元服して何年経つんだよ。餓鬼みたいな揚げ足取りしないで」
「が、餓鬼とはなんだ!」
「あんたに仕え始めた時なんて、あんた未だこんなちっこかったんだよ。なのに一々情けない理不尽だと失望してたら、此処にいる訳ないでしょう」
幸村は再び黙り、それからふと、父が遠征に行くからと長い留守を告げた時に駄々を捏ねた時も、母が亡くなった時も、遠目に下働きの者達、忍隊の者達といる姿は見掛けたものの、此れは側には寄らなかったなと思い出した。
佐助は、激高する幸村の側にいない。けれど呼べば必ず現れ、佐助と思うその時には、声に出す迄も無く側に控えた。
まるで心が読めるかの様だと幸村は思う。
「………お前、そうして何時まで待つつもりだ」
「そりゃ、あんたが一人前になるまでだよ。甲斐の虎の懐刀、武田に真田幸村その人ありと、そう言われて誰より強く誰より立派になる、その時までだよ」
そうしたら遠慮無く、品定めさせて貰いますよとしれと言って、それから佐助はふっと表情を改めた。幾つかある灯籠の明かりの丁度影になるその場所で、すわと微かな風を起こして片膝を突く。
「真田の旦那。卑しい身ではあるけれど、殿に、お別れをしても構いませんか」
「───無論だ。此方へ来い」
「いえ、此処で」
言って、尚も言葉を重ねようとした幸村を遮るようにもう片方の膝も揃えて突き、佐助は床へと額を擦り付けて横たわる昌幸へと頭を下げた。その普段の掴み所の無い態度からは思いも付かぬほど小さな姿に幸村は息を呑んだ。
思えば此れも未だ若い。戯れにならば童と呼ばれてもおかしくない程に、若い。
その己と幾つも違わぬ筈の忍びは、仕え始めたその頃から、未だ童だ、いずれ主に相応しい男となるのだと幸村からすれば酷く気の長い心持ちでいたのだと、そう言った。激高したその時、佐助の事など思い返す事もなかった幸村の為にだ。
「………佐助」
やがて長い黙祷を終えて頭を上げた忍びを呼べば、佐助は首を傾げた。漸くに瞳に僅かに光が入る。
「おれは、お前がしてくれるようには、お前を見ていてやる事は出来ぬ」
「そりゃ、そうでしょ。俺様と違って旦那にゃあ、考えなきゃない事が多いんだ」
「だが、お前を忘れた事とて、一度もないのだ」
「それも、当たり前でしょう」
不思議そうに答えた佐助を思わず見返せば、忍びは逆側に首を傾げた。
「俺様はあんたの影なんだからね。わざわざ思う事なんかなくたって、影がある事を知らない人間なんか、いねえよ」
思わず返答に窮した幸村にへら、と笑い、佐助はつと身を立てると一歩下がった。
「じゃあ、周囲の警備に回ります」
「………此処にはおらぬのか」
「心細いって? あんたそんな玉じゃあ、ねえでしょうが。まっ、用があるなら呼んでよ」
直ぐに来るから、と言い置いて、ふと瞬いた時にはもう姿は無かった。ふっとどこから降ったか闇色の羽根が横たわる父の胸の上へとひらりひらりと舞い、布へと付く前に掌を差し出せば、触れた感触もさせずにつと夜へと溶けて消えた。
幸村は暫く羽根の消えた掌を見詰め、それから穏やかに目を閉じる父を見遣った。
「………父上。良い忍びを下さいましたな。彼れは幸村の、生涯の財産となりましょう」
口に出し、其れから遠い昔、未だ母の腕の中から出るも厭がる程幼かった日に矢張り未だ未だ幼い毛色の変わった忍びを連れて来た父が、此れはお前の生涯の財産だとそう言った事を思い出して、幸村は口を噤み、其れからほろりと笑った。
笑った拍子に両の目から枯れぬ涙がまた零れたが、それを見咎める者は誰もいなかった。
20080401
ゆけよ饒舌な 影よ来て導け
BERSERK-Forces-/平沢進
気の長いはなし
文
虫
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